アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

ジョゼフ・ロージー映画”エヴァの匂い”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
フランス映画“エヴァの匂い”1962年作品。ジャンヌ・モロー、当時34歳。映画人としての彼女に抱くわれわれの幻想を、その純粋形にまで高めた作品ということができる。ジャンヌには、少女時代を描いた自伝的な作品もあって、彼女の実像にも出会うことができる。パンには、バターとジャムを同時に塗ってはいけないとかどうでもいいエピソードだけが記憶に残っていて、田舎の純朴で質素な生活もうかがえて興味深い。

この映画には、分からないことが三つある。一つは悪女ものが描かれた必然性、二つ目はダメ男の系譜、三つ目は海に浮かぶ海上都市ヴェネツィアとドラマの関係である。

第一の問いは月並みかもしれない。ジャンヌは“突然炎の如く”や“黒衣の花嫁”など、いまだ見る機会を得ない“危険な関係”などでも、価値化から自由な自由な女、つまり悪女を演じている。

二つ目のダメ男の系譜についてはどうだろうか。半年ほど前やっとミケランジェロ・アントニオー二の“さすらい”をみて、ポー川下流の心象風景と戦後イタリア労働者階級の描写に魅かれた。ある日突然夫を軽蔑し始めた妻をアリダ・ヴァリを能面のような無表情で演じきっているが、これも悪女なのだろうか。いうれにしても、日本に紹介されたころ盛んに言われた“愛の不毛”などというものとは、似ても似つかないものであることだけは確実に言える。

トリュフォーは、“突然炎の如く”でダメ男を描いているし、“柔らかい肌”などもその系譜の最たるものだろう。後者は、とりわけフランソワーズ・ドルレアックという薄幸の美女を映像に留めていて尊い。ダメ男の掉尾をかざるのはゴダールの“気違いピエロ”であろう。私にはこのゴダール映画が象徴的に思われるのは、近現代の古典の古典からの引用からなるこの作品を最後に、ダメ男の映画は影を潜めるようになるし、事実ゴダール自身も“ヴェトナムを遠く離れて”以降は左傾化し政治的な映画しか作らなくなるからである。

ダメ男と違って悪女ものはその後もすたれずに人気を保っているようだ。悪女ものと言われるものが何ゆえの残照であるのかを考えるのはバカバカしいので誰も真面目に研究?した人はいないようだが、先日モーツァルトのオペラ・ブッファと市民社会の成立についての論文を書いていたら、愛の武勇伝を語るのは良いが恋を語ってはいけないという不文律が語られているのですね。事実この映画でもジャンヌは繰り返し“恋を語ることだけは許さない”というメッセージ性を持って語っている。こうなるとこの映画は単純な悪女ものではなく、ラクロワ以降のフランス文学の伝統、ものぐさとアンニュイの伝統にたつ文芸作品ではないのか。

なぜ“恋をしてはいけない”のか。何故、純情や純愛は嘲笑されなければならないのか。しかも死をもって迎えられなけらばならないほどに。それは市民社会の成立というものが、本音をもってしては生きて生きえないことの、強烈なメッセージ性ゆえになのである。事実この映画の主人公の偽作家はその世間的な成功も恋も人間関係も全て虚構性の上に成立している、ちょうどヴェネツィアという街がそうであるように。

<あらすじ> goo映画より
雨にけむるヴェニス。一隻のゴンドラが静かに水の上をすべる。そのゴンドラから過ぎゆく景色を眺めているひとりの女。エヴァ(ジャンヌ・モロー)--それがこの女の名前。彼女の住む家はどこともきまっていない。また夫がいるかどうか誰もしらない。ただわかっているのは、幾人もの男がこの女のために身を滅していったということだけ。ティヴィアン・ジョーンズ(スタンリー・ベイカー)もそのひとり。彼は処女作が大当りをとり、一挙に富も名声も獲得した新進作家だった。そして、あとはフランチェスカ(ヴィルナ・リージ)と結婚するばかり。ある雨の降る夜だった。ティヴィアンの別荘にずぶぬれになった男と女が迷いこんできた。エヴァと彼女の客だった。それがティヴィアンとエヴァとの最初の出会いだった。が、その夜以来、ティヴィアンの脳裡にはエヴァの面影がやきついて離れなかった。ある夜、彼はローマのナイト・クラブで黒人の踊りを放心したように眺めているエヴァに会った。その時を契機とし彼はエヴァの肉体におぼれていった。ある週末、彼はエヴァヴェニスへ誘った。が、彼女は拒絶していた。このことからティヴィアンはフランチェスカとの婚約にふみきった。そのレセプションの席上、エヴァからの電話が鳴った。「ヴェニスへ行きましょう、今すぐ」。ティヴィアンはすべてを捨てヴェニスへ走った。酒とエヴァとの愛欲の日々。そんな関係におぼれたティヴィアンは口走った。小説は自分が書いたのではないことを。ティヴィアンはフランチェスカのもとに帰った。二人の結婚式はゴンドラの上で行われた。が、エヴァからまた呪わしい電話がかかってきた。ある夜、エヴァがティヴィアンの別荘へやってきた。そのくせ彼に指一本ふれさせないエヴァだった。その光景をみたフランチェスカは絶望のあまり自殺した。二年たった。いまは乞食同然のティヴィアン。が、彼はいまだにエヴァの面影を求めている。今日もヴェニスは雨にけむり、ゴンドラが漂っている。

エヴァの匂い(1962)

<キャスト(役名)>
• Jeanne Moreau ジャンヌ・モロー (Eve)
• Stanley Baker スタンリー・ベイカー (Tyvian Jones)
• Virna Lisi ヴィルナ・リージ (Francesca)
• Giorgio Albertazzi ジョルジョ・アルベルタッツィ (Branco

<スタッフ>
監督Joseph Losey ジョセフ・ロージー
製作Robert Hakim ロベール・アキム
• Raymond Hakim レイモン・アキム
原作James Hadley Chase ジェームズ・ハドリー・チェイス
脚色Hugo Butler ヒューゴー・バトラー Eva Jones エヴァ・ジョーンズ
撮影Gianni Di Venanzo ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽Michel Legrand ミシェル・ルグラン
美術Richard MacDonald リチャード・マクドナルド Luigi Scaccianoce ルイジ・スカッチャノーチェ

トリュフォー映画”野生の少年”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
史実としてのアべイロンの野生少年の事件とその顛末を知っているものに対しては複雑な印象を与える。結局イタール博士の献身的な試みは失敗に帰すのである。最終的には手に負えなくなった博士は少年を手放すことを我々は過去の文献によって教えられている。人間は幼年期のある時期に言語表象能力を受肉化しておかないと、それは後天的な矯正措置や学習機能を阻むものであるらしい。人間には先天的に基本的人権が備わっていて、その白紙のような様態に任意に人間的な自由を書き込むことができるという啓蒙主義的な人間観の敗退を示す人類学的・生物学的な実験の意味を持つものであったらしい。

そのような先入観をもってこの映画を見ると実に複雑な味わいをもった映画世界が現出してくる。ラストの自然の世界にも帰るすべを失った少年を暖かく迎える博士はここが“家である”と教える。それを振り返る少年の無表情が何とも言えない。自然にも文明にも生きることのできない少年の悲哀が、その哀しい40年の前途をも含めて感慨が深い。

トリュフォーがそこまでのイロニーをこめて映画作りをしたのかどうかは何とも言えない。幼くして両親の愛に見放され捨て子保育施設に遺棄されたトリュフォーに“我が家”とは、かれがそこで唯一生きられた世界である映画界であったらしいことは、知る人は知る、有名な伝説であったらしいのだが。そういう意味ではこの映画は、フランソワ・トリュフォーにとって造られるべくして造られた自伝的な映画であったとは言えよう。後に彼は映画に対する愛だけでなく、“映画界”に対する愛を感動的に描いた映画をものにしている、“アメリカの夜”である。


<あらすじ>
フランス中部の森林地帯アベイロンで、獣の習性をもった、野性の少年が捕えられた。百姓たちはその処置にこまったが、ひとり、レミー老人(P・ビレ)だけが、この野性児に愛情ある接し方をした。やがて、少年はパリの襲唖者研究所に、研究のため引き取られた。そこのイタール博士(F・トリュフォ)と上役のピネル教授(J・ダステ)が少年を検査した結果、彼は赤ん坊の時、両親に喉を切られ、死んだと思って森に捨てられた、ということになった。この傷によって、少年は十二歳位だと判断された。少年は世間の関心を集め、見世物にされたり、悪戯されたりした。その興味が薄れた時、少年はもっと悲惨に扱われた。これをみかねたイタールは、少年の白痴的症状は、人間文化の不足によるものだとして、自分の家に引き取って、自説を証明しようとした。ビクトル(J・P・カルゴル)と名づけられた少年は、その日から、人間になるための困難な道を歩みはじめた。イタールはその過程を、刻明に記録していった。それは人間味あふれる闘いであり、感情のコミニュケーションであった。家政婦のゲラン夫人(F・セニエ)も、やさしい心で少年に接し、協力した。少年の感性は、目覚めつつあった。初めて涙をながし、初めて「ミルク」と言った。そして、不当に罰せられると、反抗するようになった。これは大きな進歩であった。イタールは喜びのあまり叫んだ。「君はもう人間だ」。しかし、イタールにも失意の日はあった。絶望的になり、自分のしていることの意味がわからなくなることもあった。そして、ついにある日、ビクトルが逃亡した。だが、人間的感情を身につけてしまった少年には、一人ぼっちで自然にいることは耐えられなかった。みじめな様子でもどってきた少年を見て、イタールは自分の行ってきたことの成果をこんどこそ確信した。その時から、また彼とピクトルの新たなる勉強が、始まったのだった。
野生の少年(1969)

<キャスト(役名)>
• Jean Pierre Cargol ジャン・ピエール・カルゴル (Victor (The Beast Boy))
• Paul Ville ポール・ビレ (R\8f\a1\a5mi)
• Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー (Jean Itard)
• Jean Daste ジャン・ダステ (Prof. Pinel)
• Francois Seigner フランソワ・セニエ (Madame Gu\8f\a1\a5rin)


<スタッフ>
監督Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
製作Marcel Berbert マルセル・ベルベール
脚本Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
• Jean Gruault ジャン・グリュオー
撮影Nestor Almendros ネストール・アルメンドロス
音楽Antoine Duhamel アントワーヌ・デュアメル

1969年フランス映画

クリント・イーストウッドの”硫黄島プロジェクト”について アリアドネ・アーカイブスより

 
最初に”硫黄島からの手紙”を見たのが06年で、このたび”父親たちの星条旗”をみて、話題になった連作をようやく通して考えることが可能となった。

父親たちの星条旗”は有名な硫黄島・擂鉢山の頂上に翻った星条旗を映した一枚の写真の裏側に秘められたエピソードである。物語の展開の過程で、その写真が二番目の写真であること、既に死者となっている人物が六人の名簿の中にないこと、それを一人の衛生兵であったドクの観点から描かれる。特に英雄的な行為をしたわけでもないのにたまたま写真に写っていたがために英雄とされ、国策の犠牲になっていくネイチュア・マイノリティの悲哀をアイラという青年をとおして、さらにその中間にあって均的な米国従軍戦士をレイニーという青年を通して描いている。

この連作を政治的な現代劇としているのは、9・11以降右傾化したアメリカ世論と、加担したイラン・アフガン戦争への見通しのない厭戦気分を背景に、ブッシュ政権の末期に発表されたことであろう。象徴的にはこの一枚が戦局を決定したように、イラク戦争を収束させたのも、一枚の写真――捕虜収容所における、米兵による捕虜虐待という一場の映像であった。

硫黄島からの手紙”においても”父親たちの星条旗”においても、青年たちが何のために命を落としたのかということが、強いメッセージとして伝わってくる。前者は国家という名の共同幻想への玉砕を強いられた極限状況にある人間にとって、人は如何なる名義の元に死にゆくのかということを、後者は生き残った者にとっての戦後の長い時間の意味を問うている。

靖国問題ですり抜けられている問題は、戦争体験そのものの妥当性の意味だけではなく、戦中体験の戦後的意味を、戦後の時間家庭の中で真に問われたことはあるのか、という点である。

自分が助けようとしても助けることができなかったイギ―という名を通して戦後を生きた元衛生兵ドクの独白を通して、イギ―は死んだことを今際の際の父親に告げる息子。そして戦後自分が探していたものはイギ―という幻ではなく、おろそかにしてきた戦後の時間であり、息子たちの時間であったことを告げて、映画我終わる。

この映画を見終わって感じるのは――人は何のために死ぬのか。それは国家幻想のためではない。具体的な一人称の”わたし”と二人称の”あなた”の関係を超えるものはあるのか、という根本的な問いなのである。そしてこの”わたし”と”あなた”の関係をイーストウッドは日本とアメリカの関係に読み込もうとしたのである、ひとつの終わることのない祈念として。

黒澤明”蜘蛛巣城”をみる アリアドネ・アーカイブスより

黒澤明”蜘蛛巣城”をみる

テーマ:
 
マクベス”の戦国日本に翻案した忠実な映像化である、と言われている。
とりわけ、お能の所作を基本とした山田五十鈴の存在感が素晴らしい。かって日本の伝統的な社会に存在した、ひとのたち振る舞いの所作と様式とを、切り詰めた映像美で戦国絵巻を再現している。

黒澤は、今回、日本の第一線にたった大女優、名声も確立し生半可な手加減を加えにくい相手をから、あらたな美と存在感を引き出してきている。山田五十鈴という、どちらかといえばたおやかな日本風の美人から、妖艶を超えて凄絶ともいえる不気味さを演出しえている。

後年、黒澤の歴史時代劇から、有名俳優の起用が少なくなるのは残念である。

<あらすじ> ウィキペディア
時は戦国時代。蜘蛛巣城城主・都築国春は北の館城主・藤巻の謀反に遭い、篭城を決意する。そんな中、鷲津武時と三木義明の活躍によって形勢が逆転したとの報せが入る。国春に召されて嵐の中を急ぐ武時と義明は、途中の「蜘蛛手の森」で迷ってしまう。そこで二人は奇妙な老婆と出会い、武時は北の館の主、そして蜘蛛巣城の城主になることを、義明は一の砦の大将となり、やがて子が蜘蛛巣城の城主になることを告げられる。老婆の予言通り、国春によって武時は北の館の主に、義明は一の砦の大将に任ぜられる。

武時から一部始終を聞いた妻・浅茅は、老婆の予言を国春が知れば、城主の地位を脅かすものとして武時を殺すに違いない、そうなる前に彼を殺せとそそのかし、武時の心は揺れ動く。折りしも、兵を引き連れた国春が隣国の乾を攻めるために北の館へやって来る。その夜、浅茅は見張りの兵士たちを痺れ薬入りの酒で眠らせる。決意を固めた武時は、国春を槍で刺す。嫌疑をかけられた臣下・小田倉則安は国春の嫡男・国丸を擁し、二人で山に逃れる。

晴れて蜘蛛巣城の城主となった武時だったが、子がないために義明の嫡男・義照を養子に迎えようとする。だが浅茅は「三木殿の御子のために主君を殺したわけではない」と不満を述べる。加えて浅茅から懐妊を告げられた武時は、義明親子に刺客を送り込む。宴の最中、武時は死装束に身を包んだ義明の幻を見て、取り乱す。すっかり座もしらけて客が皆引き上げた後、武時の元に刺客が現れ、義明は討ち取ったものの、義照は取り逃がしてしまったと報告する。怒る武時は、その場で刺客を殺してしまう。

嵐の夜、浅茅は死産し重体に陥る。その時、使武者から国安を奉じた則安と義照を筆頭とする乾の軍勢が国境を越え、一の砦、二の砦を包囲したとの報せが入る。戦意を喪失し、無策の武将達に苛立った武時は、轟く雷鳴を聞いて森の老婆のことを思い出し、一人蜘蛛手の森へ馬を走らせる。現れた老婆は「蜘蛛手の森が動かぬ限り、武時は戦に敗れることはない」と予言する。

依然動揺する将兵に、武時は老婆の予言を語って聞かせ、士気を高める。その夜、森から斧の音が響きわたり、次いで野鳥の群れが城に飛び込む。不気味な雰囲気に包まれた夜が明け、発狂した浅茅にうろたえる侍女たち。動き出した蜘蛛手の森に混乱する兵士たち。持ち場に戻れと怒鳴る武時めがけて、愛想を尽かした味方達の中から無数の矢が飛ぶ。逃げ惑う武時の首を、一本の矢が射抜くのであった。

うごめくように見えた森の中では、則安の軍が森の木を切りそれを盾にしながら前進する。


< キャスト>
三船敏郎(鷲津武時)
山田五十鈴(鷲津浅茅)
志村喬(小田倉則保)
久保明(三木義照)
太刀川洋一(都築国丸)
千秋実(三木義明)
佐々木孝丸(都築国春)
水元(鷲津の郎党A)
高堂国典(武将A)
田吉二郎(鷲津の親兵A)
三好栄子(老女)
浪花千栄子(物の怪の妖婆)
富田仲次郎(武将B)
藤木悠(鷲津の郎党B)
堺左千夫(鷲津の親兵B)
大友伸(鷲津の郎党C)
土屋嘉男(鷲津の郎党D)
稲葉義男(武将C)
笈川武夫(三木の郎党A)
谷晃(鷲津の親兵C)
沢村いき雄(鷲津の親兵D)
田豊(鷲津の郎党E)
恩田清二郎(三木の郎党B)
高木新平(武将D)
増田正雄(武将E)
浅野光雄(鷲津の郎党F)(東映
井上昭文(都築の使武者A)
小池朝雄(都築の使武者B)
加藤武(都築警護の武士A)
高木均(都築警護の武士B)
樋口廸也(都築警護の武士C)
大村千吉(鷲津の親兵E)
櫻井巨郎(都築の使武者C)
土屋詩朗(武将F)
松下猛夫(武将G)
大友純(武将H)
坪野鎌之(都築の使武者D)
大橋史典(先ぶれの武者)
木村功(幻の武者A)(特別出演)
宮口精二(幻の武者B)(特別出演)
中村伸郎(幻の武者C)(特別出演)

<スタッフ>
製作:黒澤明、本木荘二郎
監督:黒澤明
脚本:小国英雄橋本忍菊島隆三黒澤明
原作:ウィリアム・シェイクスピア(『マクベス』より)
撮影:中井朝一
美術:村木与四郎
録音:矢野口文雄
照明:岸田九一郎
美術監修:江崎孝
音楽:佐藤勝
監督助手:野長瀬三摩地
特殊技術:東宝技術部
製作担当者:根津博

東宝 1957年作品 DVD 105分

溝口健二”近松物語”をみる アリアドネ・アーカイブスより

溝口健二”近松物語”をみる

テーマ:
 
この映画の凄いところは、愛の自覚の到来が、義理や人情、恥や道徳、時代の要求する倫理性等、あらゆる規範性を超えるところにある。

内面的で、つつましい商家の女将を香川京子が演じているが、この封建的規範を体現したようななよやかな大和撫子型の女性の変貌する姿が、古典を題材にとりながらいかにも現代演劇にしている。

商家の女将と手代の道行とは、最初から身分違いのゆえに、臣下の忠誠という感情に近かった。勿論思慕の対象が女性であるから、少々のエロティスムは免れない。しかし封建制の人間関係の中で節度をもったものであった。

しかし、二人が追い詰められ、行き場所を次第に狭めていく過程で、琵琶湖の湖上、入水自殺しようとして、番頭はふと漏らす。それが女心に偉大な変化を呼び寄せる。好意と愛は根本的に違うものだとこの映画を見て感じた。その時から、女は恥も外聞も捨てて、一ときでも男と地上の時間を生きながらえたいと思うようになったのである。

最後に男はまるで罠にかかりに行くように、女が保護された家に忍び入る。こうして相思相愛が確認されることによって、ふたりの獄門への道が開かれたのである。

馬上に、背中あわせに縄で括られ、刑場へ移送されるふたり、
京童たちは、忍従に忍従を重ねたあの二人が馬上過ぎゆくのを、かってない晴れ姿のようにみおくるのであった。


<あらすじ> goo映画
京烏丸四条の大経師内匠は、宮中の経巻表装を職とし、町人ながら名字帯刀も許され、御所の役人と同じ格式を持っていた。傍ら毎年の暦の刊行権を持ちその収入も大きかった。当代の以春はその地位格式財力を鼻にかけて傲岸不遜の振舞が多かった。その二度目の若い妻おさんは、外見幸福そうだったが何とか物足らぬ気持で日を送っていた。おさんの兄道喜は借金の利子の支払いに困って、遂にその始末をおさんに泣きついた。金銭に関してはきびしい以春には冷く断わられ、止むなくおさんは手代茂兵衛に相談した。彼の目当ては内証で主人の印判を用い、取引先から暫く借りておこうというのであった。だがそれが主手代の助右衛門に見つかった。彼はいさぎよく以春にわびたが、おさんのことは口に出さず、飽く迄以春に追及された。ところがかねがね茂兵衛に思いを寄せていた女中のお玉が心中立に罪を買って出た。だが以前からお玉を口説いていた以春の怒りは倍加して、茂兵衛を空屋に檻禁した。お玉はおさんに以春が夜になると屋根伝いに寝所へ通ってくることを打明けた。憤慨したおさんは、一策を案じて、その夜お玉と寝所をとりかえてねた。ところが意外にもその夜その部屋にやって来たのは茂兵衛であった。彼はお玉へ一言礼を云いにきたのだが、思いも寄らずそこにおさんを見出し、而も運悪く助右衛門に見つけられて不義よ密通よと騒がれた。遂に二人はそこを逃げ出した。琵琶湖畔で茂兵衛はおさんに激しい思慕を打明けここに二人は強く結ばれ、以後役人の手を逃れつつも愛情を深めて行った。以春は大経師の家を傷つけることを恐れて懸命におさんを求めた。だがおさんにはもう決して彼の家へ戻る気持はなかった。大経師の家は、こうして不義者を出したかどで取りつぶしになった。だが一方、罪に問われて刑場へと連れられるおさんと茂兵衛、しかしその表情の何と幸福そうなこと--。

キャスト(役名)
長谷川一夫セガワカズオ (茂兵衛)
香川京子 カガワキョウコ (おさん)
進藤英太郎 シンドウエイタロウ (大経師以春)
小沢栄 オザワサカエ (助右衛門)
南田洋子 ミナミダヨウコ (お玉)
田中春男 タナカハルオ (岐阜屋道喜)
浪花千栄子 ナニワチエコ (おこう)
菅井一郎 スガイイチロウ (源兵衛)
石黒達也 イシグロタツヤ (院の経師以三)
水野浩 ミズノヒロシ (黒木大納言)
十朱久雄 トアケヒサオ (鞠小路侍従)
玉置一恵 タマキカズエ (梅垣重四郎)
橘公子 タチバナキミコ (赤松梅龍)
小柳圭子 コヤナギケイコ (おかや)
上小夜子 ナカガミサヨコ (おその)
林加奈枝 コバヤシカナエ (おたつ)
三浦志郎 ミウラシロウ (手代)
種井信子 タネイノブコ (少女)
芝田総二 シバタソウジ芝田總二 (職人)
三上哲 (職人)
篠原隆 シノハラタカシ (職人)
岩田正 イワタタダシ (忠七)
天野一郎 アマノイチロウ (検校)
葛木香一 カツラギコウイチ (僧侶)
荒木忍 アラキシノブ (公卿の諸太夫
原聖四郎 ハラセイシロウ (船着場の役人)
北幸夫 ホリキタユキオ (船着場の役人)
金剛麗子 コンゴウレイコ (船宿の女中)
伊達三郎 ダテサブロウ (堅田の役人)
石原須磨男 イシハラスマオ (宿の番頭)
大崎四郎 オオサキシロウ (栗売り)
小松みどり コマツミドリ (茶店の老婆)
藤川準 フジカワジュン (切戸の村役人)
横山文彦 ヨコヤマフミヒコ (切戸の庄屋)

スタッフ
監督
溝口健二 ミゾグチケンジ

製作
永田雅一 ナガタマサイチ

原作
近松門左衛門 チカマツモンザエモン

脚色
依田義賢 ヨダヨシカタ

企画
辻久一 ツジヒサカズ

撮影
宮川一夫 ミヤガワカズオ

音楽
早坂文雄 ハヤサカフミオ

美術
水谷浩 ミズタニヒロシ

録音
大谷巌

スクリプター
川口松太郎 カワグチマツタロウ

照明
岡本健一 オカモトケンイチ

製作年 : 1954年

製作国 : 日本

配給 : 大映

映画”クララ・シューマン 愛の協奏曲” アリアドネ・アーカイブスより

 
トロイメライ”や”子供の情景”とかの断片的なメロディを覚えているほか、は交響曲ライン等の数曲しか頭に浮かばない、わが国にはなじみの少ないシューマン。Tぽころがその妻のクララの名前は遙かに有名である。ヨハネス・ブラームスとの純愛についても。

芸術家を神聖視して描くことのタブーの破壊は、映画”アマデウス”などで著名になったが、ここでもブラームスは等身大の青年として、しかも年上のクララに純愛を奉げた人間として描かれる。映画の前半部でクララのピアノ曲がしばしば引用され、それがブラームスの愛情表現ともなっているが、音楽家クララ・シューマンの知識がないので私の理解の仕方には限界を感じた。

主演のマルティナ・ケディックという女性は舞台出身の著名な俳優らしいのだが、音楽性に対する理解の程度はどの程度だったのだろうかと、ふと思った。劇中、おっとシューマンの代わりに、指揮棒を握って振る場面が数回出てくるが、いかにもぎこちない。音楽に対する陶酔感がまるで伝わってこないのである。

ブラームスの描き方も淡泊過ぎて物足らない。ブラームスの音楽はわが国でもたびたび演奏されており、彼の名曲の数々が、どのようなシューマン一家のかかわりの中から生み出され、シューマンをめぐる種々の葛藤の中から交響曲第一番などが生み出されていったかを知りたいところだが、この映画ではクララの後を追うような形でブラームスも亡くなったと伝えるのみで、人間ブラームスは描かれたのかもしれないが、音楽家ブラームスが描かれたという印象を得るには程遠い感じがした。

フランソワーズ・サガンに”ブラームスはお好き?”という小説があるが、この題名の由来をこの映画を見て初めて理解した。年上の女性を愛する美青年の象徴なのだ。


<あらすじ>
聴衆が詰めかけたコンサートホール。演奏を終え拍手喝采を浴びるロベルト・シューマンクララ・シューマン夫妻は、見知らぬ男に呼び止められた。ヨハネス・ブラームスだった。彼との運命の出逢いを感じたクララは、波止場の薄暗い居酒屋に足を運ぶ。そこでヨハネスの才能を瞬時にして見抜いたクララは、彼の演奏に聴き惚れた。
その頃、ロベルトの持病である頭痛が悪化の一途を辿り始める。作曲さえままならない夫を救わんと、クララは指揮者として楽団員の前に立つ。「女性の指揮など前代未聞」との嘲笑にも耳を貸さずタクトを振り続けるクララは、たちまちオーケストラから見事な演奏を引き出した。
そんなある日、ヨハネスがシューマン邸を訪れる。たちまち夫妻の子供たちの人気者になるヨハネス。こうして、シューマン一家とヨハネスとの奇妙な同居生活は始まった。

クララへの敬愛を隠すことのない陽気なヨハネスは、苦労の絶えない彼女の心を明るく輝かせると同時に、楽団に馴染めないロベルトの最大の芸術上の理解者となる。しかし、頭痛に襲われ深酒に溺れるロベルトは、、ヨハネスを自身の後継者として音楽界に紹介する。そしてクララには、彼らの秘めた思いを見透かすように「私がいなくなってもヨハネスがいる」と告げるのだった。この緊迫に満ちた三角関係に耐えられなくなったヨハネスは、「一日中ずっと、昼も夜もあなたを想います」とクララに誓ってシューマン家を立ち去る。
一方、音楽監督の座を奪われたロベルトは、橋のたもとからライン川に身を投げる。幸いにして一命を取り留めたロベルトは、入院することになる。やがて、独り出産を終えたクララの心の支えとなるべく、ヨハネスが彼女の傍に戻って来た。
クララのもとに、ロベルトの危篤の報が届く。「クララ、決して終わらないよ。私の花嫁」。ロベルトはこう言い残して、最愛の妻の腕の中で静かに息を引き取った。ついにその時がきたと、ヨハネスはクララに求愛するが、ロベルトと生きた日々は、あまりにも大きな喪失となってクララの心を苛んだ。ヨハネスは囁き続ける。「僕はきみとは寝ないよ。それでも、きみをこの腕でずっと抱き続ける。命が尽きるまで。きみが死んだら後を追う。死の世界へお供する」
クララとヨハネスの友情は、クララの生涯の最期まで続いた。そして、それから約1年後、ヨハネスもまた黄泉の国へと旅立っていった。生前の約束通り、最愛の彼女を追いかけるように......。


監督:脚本:ヘルマ・サンダース=ブラームス
出演:マルティナ・ケディック(クララ・シューマン
   パスカル・グレゴリー(ローベルト・シューマン
   マリック・シディ(ヨハネス・ブラームス
2008年 ドイツ・ハンガリー合作 ドルビーSRD ビスタサイズ 109分 
字幕翻訳 吉川美奈子
提供:ニューセレクト
配給:アルバトロスフィルム

クリント・イーストウッド”グラン・トリノ”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
クリントイーストウッド映画の集大成である。
人間嫌いの頑固な老人が、過疎に伴うステイタスの変動で東洋人の町になりつつある住宅地で、偶然にその異邦人の生活のスタイルを知り、癒され、やがてその異邦人集団のトラブルに巻き込まれて、自分自身の人生の歩き方の最終決着の仕方を見出す、そんな映画である。

 前半はディケンズの”クリスマス・キャロル”を思い出させた。実を言うと後半部分よりのこの前半部分の方が良い。後半の復讐劇にまで高まっていくドラマツルギーは、西部劇の常套手段、――かよわき者への無慈悲な暴力の行使と、胸のすくようなアクションによるカタルシスの解放、とくればなんだ、と思うかもしれない。事実、”許されざる者”ではまるで教科書のような純粋形を見せられて、忘れ難い印象を残している。
 
この映画のエンディングにクリントイーストウッドが選択したのは、だれもがやるであろうという予想を裏切って、無腰で敵陣に一人臨んだ主人公は、多数の無法者の凶弾に蜂の巣のように晒されて物言わぬ遺体となる。つまり映画人クリントイーストウッドが選んだ映画人生の終わり方とは、西部劇の定型を裏返してみせることであった。

換言すれば、裏返されたドラマツルギーの在り方の中に、復讐の連鎖を断ち切ろうとする意志と、マイノリティとりわけアジアとの連帯を、”硫黄島からの手紙”連作以降の、国際社会におけるアメリカの苦渋と孤立と、平和への希求を代表的アメリカ人としての政治的メッセージとして伝えているかのようだ。



<あらすじ>


朝鮮戦争の帰還兵でフォードの自動車工だった老人コワルスキーは、妻に先立たれ息子たちにも邪魔者扱いされつつ、日本車が台頭し東洋人の町となったデトロイトの通りで隠居暮らしを続けていた。外国人を毛嫌いしていた彼の家にヴィンテージカー、グラン・トリノを狙い、ギャングらにそそのかされた隣家のモン族の少年タオが忍び込むが、コワルスキーの構えたM1ガーランドの前に逃げ去る。

その後、なりゆきでタオの姉スーを不良達から救ったコワルスキーは彼ら家族の温かさに親しみを覚え、タオに一人前の男として仕事を与えてやろうとするが、それを快く思わないモン族のギャングらがタオにからみ、顛末を聞いて激昂したコワルスキーはギャングのメンバーに報復を加える。これに対してギャングらは一矢を報いようとタオの家に銃弾を乱射し、スーをレイプする。

復讐の念に燃えるタオと、それを諌めるコワルスキー。報復の連鎖に終止符を打つべく、コワルスキーはひとりでギャング達の住みかに向かい、そこで懐から銃を抜き出すように見せかけたところ、ギャングらはコワルスキーに対して一斉に発砲、射殺し、その廉で検挙される。このとき既にコワルスキーは自宅を教会へ寄贈すること、グラン・トリノはタオに譲るよう遺言していた。


グラン・トリノ
Gran Torino
監督 クリント・イーストウッド
製作総指揮 ジェネット・カーン
ティム・ムーア
アダム・リッチマン
製作 クリント・イーストウッド
ビル・ガーバー
ロバート・ロレンツ
脚本 ニック・シェンク
音楽 カイル・イーストウッド
マイケル・スティーヴンズ
撮影 トム・スターン
編集 ジョエル・コックス
ゲイリー・D・ローチ
配給 ワーナー・ブラザーズ
公開 2008年12月12日
2009年4月25日
上映時間 117分
製作国 アメリカ合衆国
言語 英語・モン語
制作費 33,000,000ドル[1]
興行収入 247,303,152ドル[1]
allcinema
キネマ旬報
IMDb


キャスト [編集]
クリント・イーストウッド:ウォルト・コワルスキー
ビー・ヴァン:タオ・ロー
アーニー・ハー:スー・ロー
クリストファー・カーリー:ヤノヴィッチ神父
ブライアン・ヘイリー:ミッチ・コワルスキー
ブライアン・ホウ:スティーブ・コワルスキー
ジェラルディン・ヒューズ:カレン・コワルスキー
ドリーマ・ウォーカー:アシュリー・コワルスキー
コリー・ハードリクト:デューク
ジョン・キャロル・リンチ:マーティン
スコット・リーヴス:トレイ