アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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四月のベスト10 中間 6位から10位まで

 

4月4日(日)曇り夜半から雨 笹塚の家で | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

ヴァージニア・ウルフ『ジェイコブの部屋』の女たち――黄昏のロンドン(73) | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・上 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

日本と欧米の自然観の違いについて――富山和子”日本の米”其のほかを読んで(2011/7) アーカ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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ヴァージニア・ウルフの”幕間”――白鳥の歌? | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

四月のベスト5 中間

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右寄りと左寄り、あるいは政治の色分けについて | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11- | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

檀一雄を求めて・7 能古島・(上) | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

"長崎ぶらぶら節”――失われた日本人への挽歌

 
こうしてみると、いまは斜陽の一地方の造船町、長崎が、つくづく都会だったのだな、と思う。それは勿論企業城下町の財力と丸山という特殊な世界が醸し出したせかいかもしれない。

この映画は、古き良き日本人の群像を描いたものである。映像が時に詠嘆性に流れるのは、古き良きの本がもはや帰らぬ対象であることを観念しているからにすぎない。深町監督の映像はいかにもかってありえたような人間像を伝えている。しかし、かってもいなかったし、ましてや現在もいるわけではない、けっしてこの世に存在したこののない、理念的人間像なのである。典型性とはそのようなものなのである。

理念性が極まるのは、やはり旅先で添い寝をする場面であろう。二つの寝床にお互いが同じ方向を向いて”く”の字を描いて床に就く場面を例にとろう。二人が肉体関係にいるのを拒むのは愛の純粋性を保つためではない。愛の純粋性を確信するがゆえに、この世の秩序の平衡をいとおしんだのである。

これはいはゆる男女の純愛を描いたものではない。歌の力、芸の力というものを通じて巡り合った男女の、この世とあの世の形而上学的な関係を描いたものなのである。


以下goo映画より

<あらすじ>
日本三大花街のひとつと言われた丸山の遊郭に売られておよそ40年、長崎一と言われるまでの名芸者となった愛八は、その気っぷのよさから誰からも慕われていた。ある日、彼女は五島町の大店・万屋の十二代目で、長崎でも指折りの風俗研究の学者・古賀と運命的な出会いを果たす。学問を極める為なら、財産を使い果たしても構わないと考えている古賀。そんな古賀の頼みを受けて、愛八は長崎に伝わる歌を探し記録する旅に同行する。旅は約二年間に渡り、やがてふたりの間に特別な感情が芽生えるが、決して肌を重ねることはなかった。旅の終わり、ふたりは長崎ぶらぶら節という歌に出会う。それは、愛八にとって想い出の歌であった。彼女が遊郭に売られる時、女衒の男が歌ってくれた歌だったのだ。歳月が過ぎ、年号は昭和へ移った。古賀と会わなくなっていた愛八は、少女の頃から可愛がっているお雪に芸を仕込んでいた。ところが、そのお雪が肺病にかかってしまう。決して安くはない治療費用を捻出する為、詩人・西條八十の紹介で“長崎ぶらぶら節"をレコードに吹き込み、その印税を全てお雪の治療費に当てる愛八。今や、お雪は愛八の人生そのものとなっていた。お陰でお雪は快復し、お披露目の日を迎える。だが、その席に披露目の資金を提供してくれた古賀が招待されていることを知った愛八は、決して顔を出そうとしなかった。彼女は、古賀への想いを一通の手紙に認めると、参詣した身代わり天神の境内で息絶えるのであった。


キャスト(役名)
吉永小百合 ヨシナガサユリ (愛八(松尾サダ))
渡哲也 ワタリテツヤ (古賀十二郎)
高島礼子 タカシマレイコ (米吉)
原田知世 ハラダトモヨ (梅次)
藤村志保 フジムラシホ (山口富美江)
いしだあゆみ イシダアユミ (古賀艶子)
尾上紫 オノウエムラサキ (雪千代)
高橋かおり タカハシカオリ (お喜美)
松村達雄ツムラタツオ (米屋の幸兵衛)
岸部一徳 キシベイットク (西條八十
永島敏行 ナガシマトシユキ (不知火大五郎)
勝野洋 カツノヒロシ (おでん屋の留吉)
内海桂子 ウツミケイコ (音丸
渡辺いっけい ワタナベイッケイ (松尾与三治)
スタッフ
監督
深町幸男 フカマチユキオ
製作総指揮
植村伴次郎 ウエムラバンジロウ
高岩淡 タカイワタン
プロデューサー
木村純一 キムラジュンイチ
天野和人 アマノカズト
林哲次 ハヤシテツジ
妹尾啓太 セノオケイタ
原作
なかにし礼カニシレイ
脚色
市川森一 イチカワシンイチ
企画
近藤晋 コンドウ
岡田裕介 オカダユウスケ
早河洋 ハヤカワヒロシ
撮影
鈴木達夫 スズキタツ
特撮監督
佛田洋 フツタヨウ
音楽
大島ミチル オオシマミチル
音楽プロデューサー
北神行雄 キタガミ
美術
西岡善信 ニシオカヨシノブ
衣装(デザイン)
松田孝 マツダタカシ
録音
三宅弘 ミヤケヒロシ
佐俣マイク サマタマイク
スクリプター
河島東史子 カワシマトシコ
スチール
大木茂
その他
森岡茂史 モリオカシゲフミ
山川秀樹
友竹哲也 トモタケテツヤ
竹本洋二
山本文勝 ヤマモトフミカツ
石井教雄 イシイノリオ
高橋政千 タカハシマサカズ
中根伸治 ナカネシンジ
鈴木啓造 スズキケイゾウ
安藤和也 アンドウカズヤ
坂井竜一 サカイリュウイチ
松浦芳 マツウラヨシ
高木敏喜 タカギトシキ
鈴木昶
中山亨 ナカヤマリョウ
鈴木昶
中山亨 ナカヤマリョウ
監督補
土屋源次 ツチヤゲンジ
助監督
平田博志 ヒラタヒロシ
照明
安藤清人 アンドウキヨト

”映画の宝物”――シネマ ヨーロッパ アリアドネ・アーカイブスより

 
19世紀後半の動く映像技術の開発から、主として無声映画の終焉する1920年代の終わりまで、ヴィクトリア時代華やかなりし頃から大恐慌を経て、世界大不況とヒトラーの誕生する時代を背景に描いた映画史である。

当初は動く画像としての映画がいかにしてそれ自身を洗練させて芸術になって行ったか、またアメリカに抗して如何にヨーロッパの映画人が闘ったか、それは最終的には最初から音声映画との戦いという、最初から勝負が明らかなものとの戦いではあったが。それよりもこの映画を見て興味深かったのは、技術的には問題がなくても結果としては音声映画のヨーロッパ進攻を阻止すべく固有な拘りをもっていたかに見える映画人の歩いた足跡である。

無声映画と言えばアメリカのチャプリン映画を除けば多くは見ていない。せいぜいガンスの”ナポレオン”かエイゼンシュタインの”戦艦ポチョムキン”程度であろうか。これらの諸作が名作であるのを認めるに吝かではないが、無声映画とは所詮過渡的な技術形態が生んだ過去の映画形式なのである。

映画が言葉を得ることによって豊かになることがあった。映画が言葉を得ることによって失ったものもあった。それは言語を超えて映画という芸術ジャンルに集うた国際社会の終焉でもあった。また亡命者やフランス国内のマージナルな位置にある人々を、標準語という映画の共通項ゆえの排除の論理が支配する時代の始まりでもあった。

古き良きヨーロッパの郷愁を代表するかのような無声映画を最終的に打倒したものは、音声映画とスター主義のハリウッドであり、他方では言葉を音響ととして使うヒトラーマイスタージンガーにかき消されていく、花火のようにあざとい閃光の乱舞する時代の幕開けでもあった。


DVDパッケージの解説より

" ヨーロッパ映画には躍動する青春期と世界を制覇した絢爛たる黄金時代があり、それにハリウッドが追従した。
 映画100年を記念したアンソロジー映画史の多くはアメリカ中心だった。ヨーロッパの映画人たちは「もっとあるはずだ。重要な欠落がないだろうか?ヨーロッパ映画が世界の覇権を握った時代もあった」と自問した。「”俺たち”の映画がたどった道のりをEU的な広い視野と現代感覚で見直し、愛と尊敬をこめてドキュメントにしよう」。7つの国のライブラリーやコレクターが秘蔵する数百本の名場面の数々やメイキング映像が滝のように流れ出す。
 貴重な新発見が珍しくない。伝説の名作は息を吹き返し、私たちはタイム・スリップして公開当時を体験する。DVDに対応する新鮮な画像も少なくない。細かい神経の行き届いた密度の高い集団作業である。
 淀川長治氏は”驚いた、ひっくり返るくらい立派なものです”と自分から総監修を引き受けた後に亡くなった。”

日本語ナレーション制作:株式会社東北新社
オリジナルナレーション:ケネス・ブランナー 
1995年 イギリス作品 348分 モノクロ一部カラー
企画・制作・販売:螢▲ぁΕ凜ー・シー/映像文化振興協会

DISK・1 第1章 すべてのはじまり
     第2章 アートシネマの開花
     第3章 躍動し 創造するカメラ
DISK・2 第4章 光のシンフォニー
     第5章 失われた機会
     第6章 そして映画は語り歌う

<おもな証言者と姿を見せる巨匠たち>
アナベラ/クロード・オータン・ラライングマール・ベルイマンルネ・クレールジュリアン・デュヴィヴィエ/ジャック・ファデ―/アべル・ガンス/ジョン・ギールグッド/アルフェレッド・ヒッチコックフリッツ・ラングジャン・ルノワール/レ二・リーフェンシュタールフレッド・ジンネマン(ABC順)
 

 

元号選定と歴史誤認 アリアドネ・アーカイブス

元号選定と歴史誤認

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 大伴旅人、家持とは、どういう人たちなのですか?
 
 日本古代史に於いて、古代律令制が変遷、変質、変形して、藤原一強の大土地所有者としての荘園制と呼ばれた中世的土地所有形態に移行していった時代に、神祇と武門に携わるものとしての皇親派の立場から土地の私的所有に反対した立場、――天智・天武の古典国際派の立場から内向きの国風文化へと舵を返しつつある門閥的藤原一強体制?に「抵抗」し、その影響力を削がせるために藤原氏がすすめた、大宰府越中、そして因幡へと、遠隔地に「左遷」され粛清されていったのが、大伴一族ではなかったか。
 
 藤原一族の一強体制?と、内向きの国粋的歴史観?は、なにやら今日の我が国の平成末期の状況?とも似ており、総理は自分自身の無意識を制御できなかった、とみえる。
 
 教養がないとは恐ろしいことである。
 この程度のことならば中学校社会科程度の知識があれば知りうるはずのことであるのに、事実誤認、歴史誤認を何故かしてしまう!背後には錚々たる言語学者歴史学者、国文学の大家たちが控えていたと云うのに!
 
 元号選定の出来事とは、現政権の知性の程度を計るリトマス試験紙のごとき役割を果たしたのだろうか。
 
 当時、強弱の鬩ぎあいのなかで、一歩一歩土俵際へと押し戻されつつあった大伴一族にとって、俵一本にどうにか片足の爪先が掛かった半身の状態で、のんびりと、「令和」などと云う訳がないじゃありませんか。
 
 それにしても、古代日本史の初歩的な出来事を、――「令和」を肯なった側もそうでない側も!ーーなぜ誰もが言わないのだろうか?

 ここにもう一つの魔訶不思議さがある!

 

エリック・ロメール監督”木と市長と文化会館”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
見終わって不思議な感動に捉われた。商業映画活動の合間に撮ったらしいドキュメンタリータッチの映画は、ほとんどが討論と、インタヴューからなっている。物語というのは、フランスの地方の――人工500人足らずの村の――フランスではこのような最小の住民自治の単位を”コミュユーン”と言うらしい――スポーツジムもプールも映画館もある多目的な文化会館の建設をめぐる推進派の思市長を中心に展開する。

市長は社会党員で1993年当時のミッテラン以降の社会主義的政権の後退という社会現象を背景としている。この時代の特徴は、左翼の保守化と保守の左翼化という現象で、保守革新の違いが見えにくくなった現代に共通する政治的な課題を抱えた時代の端緒の時期である。

この映画の背景には、我が国と共通する地方の生活基盤の崩壊と農業の疲弊、がある。文化会館建設とは、箱もの建設による需要創出とその波及効果が云々されるわけであり、これに環境破壊の問題が絡む。

登場人物は、四人に限定される。文化建設推進派の市長。地方に広大な屋敷を持ち、地域の知名度を利用して政治活動をするところは日本と同じである。しかも現実密着型の政治理念を掲げる市長を社会党系としているところが、この映画をもん切り方から区別している。彼の政治的手法とは中央政府からの助成金を獲得するという誘導型の政治手法である。政治家の役割とは中央のパイプを保っておくことであり、目に見える行政で利害を還元することで選挙時の足場固めを図る。

二番目の人物は、文化会館予定地に一本の柳の古木があり、緑の景観は金銭にかえられないとする小学校教師である。彼はやや戯画的に描かれており、彼の娘から悲憤慷慨するだけではなく駄目だと諭される。

三番目の人物は市長の現在の愛人である。彼女は小説家という設定になっているが、文化会館の建設の如何よりも、示された建築計画案の機能性に疑問を呈する。建築家の提案するもっともらしい”環境と共存した”設計そのものに疑問を呈する。疑問は美的ならびに機能性の重視面に向けられる。しかし彼女p自身が自説にどれだけの拘りを持っているかは疑問である。彼女の所見はよく流行のある紋切り型の議論にすぎないからだ。
むしろ彼女の本質は、田舎や農業生活というものへの根本的な無関心によって特徴づけられる。都市以外に文化があろうとは思えないのである。

四番目は女性のジャーナリストである。彼女の役割は市長をはじめとする多様な登場人物や村の住民にインタヴューして意見を披露することである。この中から、20世紀が農業の姿をいかに変えてしまったかが明らかになる。農業の大規模化・機械化によって何が失われていったのか。市場経済の流通は人間と人間、人間と家畜、人間と生活基盤としての地域の在り方を根本的に変えてしまう。生産物を地方に振り分ける効率化のシステムによって運送屋だけが儲かる社会システムを作り上げてしまったのである。物を商品交換過程に置くという”物流”という言葉の恐ろしさをが明らかになる。

彼女もまた市長と同じようにシングルであり、家に子供を一人残して働くキャリアウーマンである。この映画では二人の個人的な関係はみじんも描かれないのだが、将来の親密な関係を暗示して映画は終わる。

この映画のクライマックスは、ふとした偶然から推進派の市長と、反対派の小学校教師の娘で、お父さんには行動力がないと批判した娘が、何気なくそれでいて真剣に、多目的文化会館の必要性を討議する場面であろう。10歳の娘は必要なのは自由に遊べる緑地の存在ではないかという。村には至るところ緑があるではないか、と市長は反論する。あってもその緑は有刺鉄線に囲まれた、番犬が吠えたてる私有地ばかりではないか。市長はそれは卓見だと了解する。建設会館と緑地の保存は十分に共存が可能だとうなづく。子供と大人が未来について真剣に討議するこの映画の最も美しい場面である。人と人との信頼関係を描いてこの部分は秀逸である。

映画の終わりは、小学校の教師の元に文化会館建設案は却下された旨の通知が届き、彼が狂喜する場面で終わる。

ドキュメンタリータッチの映画でありながら、到る所で多様な観点が盛り込まれている。この映画には一人として狂信的な人物は登場しない。それぞれの社会的役割と利害を伴って、つまり固有な限界を備えた人物として描かれている。人間だから完全な意見の一致をみることはないだろう。しかしその限界を踏まえながら信頼を築いていこうとする多様さ柔軟さが、見終わった後もなにか夢の名残りのような、何時までもさめやらぬ感動の余韻を与えているのである。


フランス映画”木と市長と文化会館”1992年

<スタッフ>
監督・脚本:エリック・ロメール
撮影:ディアーヌ・バラティエ
録音:パスカル・リビエ

<キャスト>
市長:パスカル・グレゴリー
女流作家べレニス:アリエル・ドンバール
小学校教師:ファブリス・ルキーニ
ジャーナリスト:クレマンティーヌ・アムル―

発売・販売:蟲伊国屋書店 DVD 111分

三月のベスト5

三月のベスト5

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 三月度の仕切りであると同時に、年度切り替わりの時期の報告にもなりました。私の政治政局論は、昨年の八月以来首位を更新しています。いつまで続くのでしょうか。

 二位~四位には、例によって村上春樹ものが入りました。私は彼の才能を評価しつつも否定的な評価をしていますが、それは世評的価値と文学的価値とのギャップの大きさに少しはものを申したい、と思うからにすぎません。まるで認めていないのではないのです。

 五位には、ヴィスコンティの映画論が入りました。映画論が入るのも珍しいことです。

 

右寄りと左寄り、あるいは政治の色分けについて | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11- | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

様式美としての文法――ヴィスコンティ”夏の嵐”について | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)