アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トリュフォーの”終電車” アリアドネ・アーカイブスより

 
フランス文化の香気とはこのようなものである、と言わんばかりの力を見せつけた作品である。”アメリカの夜”が今世紀のハリウッドをはじめとする映画産業と映画人への賛辞で貫かていいたように、この映画は戦時下のパリを舞台として、消ゆることなき演劇の灯を守り続けた人々を描くことを通じて、トリュフォー映画の、映画人ドヌーヴを取り上げることで、戦後フランス映画への絢爛たるオマージュとなっている。

この映画はフランス映画を牽引力となって支え続けたカトリーヌ・ドヌーブという女優が銀幕の上に築き上げた二面性、神秘とスキャンダラス、聖性と獣性という二面性をそのまま映画に写し取って、主亡きあとのモンマルトル座を健気にも支える女座長とその裏面に潜む女心の葛藤を、パリ開放前後の不安の時代を背景に描いている。

この映画の制作当時、ドヌーブ、四十代前、いまだ十分に美しい。否、美貌の輪郭が崩れてきて来ていて女性としての匂うような優しさが滲み出てきたと言おうか。ドヌーブはこの映画の女座長のように日々日常を支える重責のため本当の自分自身に気づくことはない。

ナチ政権下の過酷な検閲制度のため、明日が確実にくるとは言えない状況の中で、一日一日を生き延びていくほかはない日々であった。一座懸案の苦心の”消え去った女”という演目の初日が好評のうちに演じきったとき、感あまって共演のベルナールにキスをしてしまう。本人はそのことを忘れてしますのだが――意識化の抑圧が効いたのか――ベルナールにとっては、彼女への愛を自覚する結果になる。

ヌーベルヴァーグは好きだが、長い間カトリーヌ・ドヌーヴは評価してこなかった。ジャンヌ・モローアニー・ジラルドー、それからブリジッド・バルドーやジェーンフォンダのほうが美しいと信じていた。”アメリカの夜”のジャクリーヌ・ビセットの場合もそうだが、今更ながらに美しさを思い知らされたのは、やはりトリュフォーゆえにであったのだろうか。一観客である私もまた、劇中のベルナールのように、”強き女”の背後の優しさを感じていた。


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解説・あらすじ - 終電車(1981)
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解説
ナチ占領下の混乱のパリを舞台に劇場を守る一人の女優の愛を描く。製作・監督は「緑色の部屋」のフランソワ・トリュフォー、脚本はトリュフォーとシュザンヌ・シフマン、台詞はトリュフォー、シフマンとジャン・クロード・グランベルグ、撮影はネストール・アルメンドロス、音楽は
、編集はマルティーヌ・バラーク、マリー・エーメ・デブリルとジャン・フランソワ・ジル、美術はジャン・ピエール・コユ・スヴェルコが各々担当。出演はカトリーヌ・ドヌーヴジェラール・ドパルデュー、ジャン・ポワレ、ハインツ・ベネント、アンドレア・フェレオル、サビーヌ・オードパンジャン・ルイ・リシャール、モーリス・リッシュなど。


あらすじ
第二次大戦中、ナチ占領下のパリ。人々は夜間外出を禁止され、地下鉄の終電車に殺到する。この混乱の時代は、しかし映画館や劇場には活況を与えていた。そんな劇場の一つモンマルトル劇場の支配人であり演出家のルカ・シュタイナー(ハインツ・ベネント)は、ユダヤ人であるため、南米に逃亡し劇場の経営を妻であり看板女優のマリオン(カトリーヌ・ドヌーヴ)にまかせていた。彼女は、今、ルカが翻訳したノルウェーの戯曲『消えた女』を俳優のジャン・ルー(ジャン・ポワレ)の演出で上演しようとしていた。相手役には新人のベルナール・グランジェ(ジェラール・ドパルデュー)が起用された。ジャン・ルーは、この戯曲の上演許可のため、ドイツ軍の御用批評家ダクシア(ジャン・ルイ・リシャール)とも親しくしているというやり手である。連日稽古が続けられるが、稽古が終ると、ベルナールはカフェで数人の若者たちと会って何か相談し合っており、一方マリオンは暗闇の劇場に戻って地下へ降りていく。地下室には、何と、南米に逃げたはずのルカが隠れていたのだ。夜マリオンが会いに来るのを待ちうけ、昼は、上で行なわれている舞台劇の様子を通風孔の管を使って聞き、やってくるマリオンにアドバイスを与えた。つまり、彼は地下にいながら、実質的な演出者だったのだ。初演の日、『消えた女』は、大好評のうちに幕をとじるが、ルカは満足しなかった。そして、翌日の新聞でダクシアは酷評を書いた。マリオンは、舞台の稽古をしながら、いつしかベルナールに惹かれている自分を感じていたが、あるレストランで彼がダクシアに酷評の謝罪を迫ったことで彼に怒りをおぼえた。『消えた女』は好評を続けるが、ベルナールがレジスタに参加するために劇場を去ることになったある日、初めて会ったルカから「妻は君を愛している」と言われ動揺するベルナール。そしていよいよ彼が去る日、二人ははじめて結ばれた。連合軍がノルマンディーに上陸し、パリ解放も目前に近づいた。ルカは屋外に出ることが実現し、ダクシアは国外に逃亡する。そして、マリオンは、愛する夫の演出で、愛する若手俳優ベルナールと共演し、艶やかな笑顔で観客に応えているのだった。


キャスト(役名)
Catherine Deneuve カトリーヌ・ドヌーヴ (Marion Steiner)
Gerard Depardieu ジェラール・ドパルデュー (Bernard Granger)
Jean Poiret ジャン・ポワレ (Jean Loup Cottins)
Heinz Bennent ハインツ・ベネント (Lucas)
Andrea Ferreol アンドレア・フェレオル (Arlette)
Sabine Haudepin サビーヌ・オードパン (Nadine)
Jean Louis Richard ジャン・ルイ・リシャール (Daxiat)
Maurice Risch モーリス・リッシュ (Raymond)
スタッフ
監督
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
製作
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
脚本
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
台詞
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
Jean Claude Grumberg ジャン・クロード・グランベルグ
撮影
Nestor Almendros ネストール・アルメンドロス
音楽
Georges Delerue ジョルジュ・ドルリュー
美術
Jean Pierre Kohut Svelko ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ
編集
Martine Barraque マルティーヌ・バラーク
Marie Aimee Debril マリー・エーメ・デブリ
Jean Francois Gire ジャン・フランソワ・ジル
字幕監修
山田宏一 ヤマダコウイチ

トリュフォーの思春期 アリアドネ・アーカイブスより

 
事前に予備知識をほとんど持たなかったので、いかにもヌーベルヴァーグ風の映画手法や素材の選び方に、初期の作品を予想させた。1976年とは、わたしが映画鑑賞から遠ざかっていた時期なので
既に”柔らかい肌”や”突然炎の如く”のようなミステリアスな、大人の映画を作り終えた時期に該当するわけで、彼の早すぎた死の数年前、トリュフォーの中に一種の精神と感性のルネサンスのごとき現象が起きていたことを思わせる。この高揚感はその後も持続していいて、1977年のスピルバーグ監督に請われるままに映画初出演を果たした”未知との遭遇”にも見られるように、従来型のトリュフォーでは考えられない新しい出来事が起きていたことになる。

感想を一言で言うならば、トリュフォーの最高傑作と考えていいのではないかと思う。もちろん、映画はエンターティナーであり、音楽、舞台、衣裳も含めた視覚芸術としての総合性、として評価されなければならない。1981年の”終電車”はこれぞフランス映画だ、フランス映画の香気とはこうゆうものをいうのですよとばかり、カトリーヌ・ドヌーヴ、とはつまりフランス映画の象徴としての、そして最高級の女性への賓辞としての映画人としての女優の存在にささげられている。いわば国策映画ともいえる、フランス文化への賛辞なのである。”アメリカの夜”が映画産業、とりわけハリウッドをはじめとする映画人への賛歌であったように。いわばトリュフォーは人生の最後に、集大成とでもいうべき傑作を、少なくとも二つは残していることになる。

しかし功成り名を遂げた映画人としてのトリュフォーの存在はさりながら、ヌーベルヴァーグを出発点とした映像詩人のトリュフォーの最高傑作は、ということになると、この映画になるのではなかろうか。トリュフォーを語る場合のキーワード、幼年期の孤児性、ヌーベルヴァーグ、フランス文化と女性賛歌という要素が、ここでは統一態をなし、それがそのまま人生賛歌へと繋がっている。

映画はジュリアンという身なり貧しい転校生を受け入れるフランスの地方都市の風景から始まる。ジュリアンの風景には、”野生の少年”の余韻が、そして孤独な少年期を送ったトリュフォーの自伝的要素が暗示されている。しかしこの映画のジュリアンに姿を借りても、あるいは”野生の少年”においてもトリュフォーには不思議な遠慮があり、自分の思いを語ることはなかった。

この映画がトリュフォー映画の最高傑作と思うのは、この映画にはトリュフォーらしい節度や遠慮、さらには映像の客観性が欠けているからである。この時期にトリュフォーは思いもかけず、生涯をかけて秘め続けてきた思いを爆発させてもよいと考えた。

こうして幕切れ近くの小学校教師パトリックの感情の爆発を見ることができる。いままでおしゃべりやいたずらに余念のなかった腕白小僧が聞き入る姿をカメラは映し出す。秘められた思いとは、人間への信頼、人生という時間への信頼であった。この映画の、この瞬間においてトリュフォーの孤児性は克服された、と見るべきである。

そして最後の華やかなエンディング!行き違いになった青春前期の幼い二人が、上と下から、階段の踊り場近くでぎこちないキスをする場面、そしてこの場面を仕組んだクラスメートたちの盛大な拍手と歓呼の中に、思い出をひきずるように、この映画は終わる。映画だけが良いものなのではなく、人生もよいものなのだと、生きることへの信頼を呼びかけてこの映画は終わる、まるでトリュフォーの遺言ででもあるかのように。

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解説・あらすじ - トリュフォーの思春期(1976)

解説
フランスの小都市の小学校を舞台に、子供たちが織りなすエピソードをユーモラスに綴る。監督は「アデルの恋の物語」のフランソワ・トリュフォー、脚本はトリュフォー自身と、「アデルの恋の物語」に引き続いて共作したシュザンヌ・シフマン、撮影はピエール・ウィリアム・グレン、音楽は故モリース・ジョーベールの旋律を使用、主題曲はシャルル・トレネの「日曜日は退屈」。出演は数百人からのオーディションに合格した、ジョーリー・デムソー、フィリップ・ゴールドマン、リシャール・ゴルフィー、シルヴィー・グレセル、パスカル・ブリュション、そしてトリュフォの愛娘エヴァトリュフォーなど。


あらすじ
フランス中部の平和な小都市。パトリック(ジョーリー・デムソー)の学校に新入生が入ってきた。彼の名前はジュリアン(フィリップ・ゴールドマン)といい、どこか陰のある少年だった。パトリックはいまや思春期の真盛りで、美容院を経営する友人ローラン(L・デブラミンク)の美人のママに夢中である。ワンパク少年たちの社会科を受け持つリシェ先生のアパートでも、毎日、子供たちのドラマが生まれている。2歳になったグレゴリーはペットの飼猫をベランダまで追いかけて、十階から墜落。だが幸運にも落下地点が軟土だったのが幸いした。キョトンとしたグレゴリーを見て、ママの方が気絶。一方、同じアパートに住む8歳になるシルヴィー(シルヴィー・グレセル)は、両親同伴の外出を拒否したために部屋に閉じ込められた。やがて空腹になったシルヴィーは拡声器でアパート中の住人に届くように「お腹が空いたッ」と連呼。気の毒がった隣人たちは、ロープとカゴを使ってパンや果物をシルヴィーの部屋へ運んでやった。クローディオとフランクのルカ兄弟はリシャール(リシャール・ゴルフィー)の散髪代800フランをまきあげ、なれない手つきでリシャールの頭を刈りこんでしまう。その頭を見て怒ったリシャールの父は、ローランの店へどなりこんだ。一方、パトリックのローランのママに対する想いはつのるばかりで、ついに意を決して花束を彼女に渡した。ところが彼女がパトリックに言った言葉は「お父さんによろしく」だった。身体検査の時、ジュリアンの身体が生傷だらけなのが発見され、彼の母親と祖母が幼児虐待の罪で逮捕された。学期末最後の日、リシェ先生は経験と心情を踏まえて子供たちに大演説をぶった。子供たちはその言葉をしっかりと受けとめたようだ。待望の夏休みはメランドール林間学校で過ごすことになった。そしてパトリックはマルチーヌ(パスカル・ブリュション)という可愛い子と知り合い、友人たちのひやかしを受けながら初めてのキスを体験するのだった。


キャスト(役名)
Geory Desmouceaux ジョーリー・デムソー (Patrick)
Philippe Goldmann フィリップ・ゴールドマン (Julien)
Richard Golfier リシャール・ゴルフィー (Richard)
Sylvie Grezel シルヴィー・グレセル (Sylvie)
Pascale Bruchon パスカル・ブリュション (Martine)
Claudio et Franck de Luca (De Luca)
Laurent Devlaminck L・デブラミンク (Laurent)
Eva Truffant エヴァトリュフォー (Patricia)
Bruno Staab (Childrens)
Corinne Boucart (Childrens)
Le Petit Gregory (Childrens)
Sebastien Marc (Childrens)
スタッフ
監督
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
製作
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
脚本
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
撮影
Pierre William Glenn ピエール・ウィリアム・グレン
音楽
Maurice Jaubert モーリス・ジョーベール

Charles Trenet シャルル・トレネ
美術
Jean Pierre Kohut Svelko ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ
編集
Yann Dedet ヤン・デデ

映画”存在の耐えられない軽さ” アリアドネ・アーカイブスより

 
”存在の耐えられない軽さ”とは、本当は共産主義という名の官僚主義社会がどのように市民を扱ったかということ、さらには”正常化”という名前の下でなされた抵抗勢力への分断化された日常的時間の持つ散文性にあったのだと思う。

ソヴィエト軍チェコに侵入した日のことは鮮明に覚えている。太平の世を貪る日本の日常的な時間の中ではテレビが映し出す戦車の連なりは何とも異様であった。戦後東欧における共産主義社会の優等生と言われたこの国を襲った事態をチェコ国民は予想しなかったし、日本から見るチェコスロヴァキアという国は霧の彼方だった。この映画はもう一つの”ドクトル・ジパゴ”という意味では”プラハの春”が何であったかの記憶をとどめるものとして評価できる。特に映画の中盤、ドキュメンタリー映像の中に登場人物の二人を映しこんだと思われる映写技法には、不思議な感銘を受ける。

存在の耐えられない軽さとは、医師トマシュの自由・奔放な生き方が、それはチェコの政治的現実の中でこそ意味を持ちうるものであり、西側の――たとえばジュネーヴでは何の意味も持ちえなかったことの意味なのである。この点アメリカ側の制作スタッフには根本的な誤解があったようだ。


付説・1【サビーナの涙】
自由奔放な医師トマシュの最大の理解者として紹介されるサビーナというアーティストが、亡命したジュネーヴで、付き合っていたアムステルダムの大学教授が、妻と離縁してきたことを語り求愛を求められ、はらはらと涙を流す場面がある。

この場面の解釈が大変難しい。
自分たちの生き方が西側の世界では、陳腐な不倫物語に堕してしまったことと、善意の人間を巻き込んでしまった悔悟の情が混じった複雑な感情であると思う。また、テレーザと二人でヌード写真を取り合う場面があるが、お互いに裸になりきった二人が心から笑い転げる場面がある。この笑いの持つ底知れぬ悲しみについても、チェコの現実を考えないと理解できない。

最後に二人の突然の訃報を受け取ってサビーナが悲しみをこらえる場面があるが、これも愛憎からんだ友人関係の回顧というよりは、政治的同志の死を悼む、という感じが強い。愛が政治であり、政治が愛であった時代があったのである。愛から政治を分離し、政治と愛という形で語ることは虚しい。

付説・2【正常化という名の現実】
亡命という名の政治的選択の自由を捨てて、”弱い国”すなわちプラハの現実に生きる事を選んだ二人だが、パスポートも奪われ職業の自由もなかった。可視化された官僚制の怖さを描いた一端は、トマシュとテレーザがそれぞれ誘惑を受ける場面に恐るべき姿を現す。

窓ふき職人となったトマシュを誘惑する高級官僚のマダムの部屋には、ブレジネフが一緒に映った写真が飾られ、どういう履歴の女性であるかが語られている。またテレーザの場合は、バーで女給をしていた彼女に若者が絡み、再度絡んでくる明らかに体制派と思われる密告者の存在があり、その二度とも助けてくれた”正義の味方”のような一見誠実そうな技術者こそ、政治的な工作員であったことが暗示される。抵抗者の意思が剛である場合は、色仕掛けで、さらには密告、ゆすりという政治的な手段が続く、というわけである。

この映画は事故にあう直前の至福に満ちた最後の二人の映像を流して終わっているのでハッピーエンドではないかと思っている解説もあるようなので一言いっておかなければならない。共産主義社会では最後は”交通事故死”というのが常套手段なのである。事故死が伝えられるところではどこでも、やっぱりそうだったのか、とみんなが思うのである。


goo映画より

<あらすじ>
68年のプラハ。トマシュ(ダニエル・デイ・ルイス)は、有能な脳外科医だが、自由奔放に女性とつき合っている独身のプレイボーイ。画家のサビーナ(レナ・オリン)も、そんな彼の数多い女ともだちの1人。2人が逢う時は、必ず、サビーナが大切に保存している祖先から伝わる黒い帽子と楕円形の鏡がそばに置かれていた。ある日トマシュは出張手術に行った先でカフェのウェートレス、テレーザ(ジュリエット・ビノシュ)と出会う。トマシュの本を読む姿に惹かれたテレーザは、トマシュのアパートに押しかけ、2人は同棲生活を始める。トマシュにとっては、初めての女性との深いかかわりだった。トマシュとサビーナの計らいで写真家としての仕事を始めたテレーザ。トマシュは、相変わらずサビーナとも逢い、一方で、共産主義の役人たちを皮肉ったオイディプス論なども書いていた。やがてソ連の軍事介入--チェコ事件が始まり、サビーナは、プラハを去り、ジュネーブへと旅立つ。追いかけるようにしてトマシュとテレーザもジュネーブヘ向かう。相変わらず女性と遊んでいるトマシュにイヤ気がさし緊迫したプラハへと戻ってしまうテレーザ。大学教授フランツ(デリック・デ・リント)と交際していたサビーナもアメリカへと去る。テレーザを追ってプラハに戻ったトマシュだったが、プラハは以前のプラハではなかった。オイディプスの論文が原因で外科医の地位もパスポートも失ったトマシュは、テレーザと共に田舎に行き、農夫としてひっそりと暮らし始める。カリフォルニアで新生活を始めていたサビーナのもとに1通の手紙が届いた。それはトマシュとテレーザが事故で突然死んだという知らせだった。


キャスト(役名)
Daniel Day-Lewis ダニエル・デイ・ルイス (Tomas)
Juliette Binoche ジュリエット・ビノシュ (Tereza)
Lena Olin レナ・オリン (Sabina)
Derek De Lint (Franz)
Erland Josephson エルランド・ヨセフソン (The Ambassador)
Parel Landovsky (Parel)
Donald Moffat ドナルド・モファット (Chief Surgeon)
Daniel Olbrychki (Interior Mimistry Official
Stllan Skrsgard (The Engineer)
スタッフ
監督
Philip Kaufman フィリップ・カウフマン
製作
Saul Zaentz ソウル・ゼインツ
製作総指揮
Bertil Ohlsson バーティル・オールソン
原作
Milan Kundera ミラン・クンデラ
脚本
Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影
Sven Nykvist スヴェン・ニクヴィスト
音楽
Leis Janacek
Alan Splet アラン・スプレット
美術
Gerard Viard ジェラール・ビアール
編集
B. J. Sears B・J・シアーズ
Vivien Hillgrove ヴィヴィアン・ヒルグローヴ
衣装(デザイン)
Ann Roth アン・ロス
録音
David Parker
Todd Boekelheide トッド・ボークルヘイド
字幕
進藤光太 シンドウコウタ
 

トリコロール三部作”青の愛”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
キエシロフスキのトリコロール三部作は、”赤の愛”に続いて二作目ということになる。
”赤の愛”では運命の糸のように赤い糸が経巡り、人々の離散と結合を条件づける。”青の愛”では有能な作曲家である夫と幼い娘を交通事故で亡くした女性の再生までの道のりを描いている。

この映画の中で過不足なく語られているのは田舎の邸宅を去ってパリに一人住むことになったアパルトメンの下階に住む売春婦の若い女性との交流であろう。ある夜、何の接点もない彼女から深夜呼び出しを受ける。言ってみると彼女の職場は場末のストリップ小屋で、彼女は娘の動向を探りにきた父親と舞台で鉢合わせする破目になる。彼女の立場では今日一日のステージを阻むこともできず、その悲しみを誰かに伝えたくて電話をしたというのである。彼女は一夜の、無償の人の善意にかけたのであろう。人生を御破算にするつもりの主人公にとってもこの夜は何らかの影響を与えただろう。

過去への傷心に苦しむヒロインに追い打ちをかけるように、過去死んだ夫に秘密の恋人がいたことが明らかになる。こうして幸せな家族の記憶は、物質的な意味でも精神的な意味でも奪い去られることになる。

彼女にはほのかな思いを寄せる夫の友人がいる。すべての記憶とともにこの世から抹殺するつもりでいた亡き夫の未完成の協奏曲をその友人が完成すると聞いてヒロインは動揺する。しかし協奏曲をその友人と合作するうちに次第に彼の愛を受け入れるようになる。

愛は寛大ですべての存在に許しと慰藉を与える。亡き夫の愛人のお腹には子供の存在が。彼女は家屋敷をすべてこれから生まれ出でようとする未来の子供に譲る決意を選択する。



あらすじ
ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)は自動車事故で夫と娘を失う。夫は優れた音楽家で欧州統合祭のための協奏曲を作曲中だった。ジュリーは、田園地帯にある屋敷をすべて引き払い、それまでの人生を拾ててパリでの新しい生活を決意する。そして夫の未完の協奏曲のスコアも処分してしまう。ジュリーは、空っぽになった家に密かにジュリーに思いを奇せていた夫の協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)を呼び出し、一夜を共にするが、かれの目が覚める前に家をあとにする。手には彼女と過去を結ぶ唯一のあかし、“青の部屋"にあったモビールを握っていた。パリでの生活を始めるジュリーは静かな毎日を過ごしながらも脳裏にはあの旋律が甦ってきて、焦燥感と不安に駆られていた。老人ホームにいる母親(エマニュエル・リヴア)もジュリーを虚ろな目で見ているだけだった。そんなある日テレビをつけるとオリヴィエが処分したはずの楽譜を持ち、自分が曲を仕上げると宣言しているのを見る。そして夫が見たこともない若い女性と写っている写真も公開されていた。大きな動揺の後、ジュリーは、オリヴィエに曲の手直しを夫のメモを元に指示し、また夫の愛人で彼の子を身ごもっているサンドリーヌ(フロランス・ぺルネル)に屋敷をゆずる。ついに完成した曲をオリヴィエは、ジュリーの作品として発表すべきであると言う。ジュリーは、ひとしきり考え、彼の元に向かうことを、彼の愛を受け入れることを決意する。



解説
フランス国旗を構成する三つの色をモチーフにキェシロフスキが監督した「トリコロール」三部作の一作目。監督のクシシュトフ・キェシロフスキは、ポーランド人で、70年代を通じて数多くの短編ドキュメンタリーを手がけ、「アマチュア」、「殺人に関する短いフィルム」、「ふたりのベロニカ」などで国際的名声を得ている。74年の『終わりなし』からポーランドを代表する弁護士にして理論家のクシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本作業を始める。製作はマラン・カルミッツ、エグゼクティヴ・プロデューサーはイヴォン・クレン。また音楽のズビグニエフ・プレイスネル、撮影のスワヴォミール・イジャックは、それぞれポーランドで数多くの作品を手がけていて、キェシロフスキとも長年ともに作品を手がけている。出演は、「存在の耐えられない軽さ」、「ポンヌフの恋人」、「ダメージ」の現在フランスを代表する女優ジュリエット・ビノシュ。舞台俳優として高い地位を得ており、ジャック・リヴェット監督の「彼女たちの舞台」で映画俳優としても活躍し始めたブノワ・レジャン。そして脇もエレーヌ・ヴァンサンやエマニュエル・リヴァなどの演技派俳優で固められている。


キャスト(役名)
Juliette Binoche ジュリエット・ビノシュ (Julie)
Benoit Regent ブノワ・レジャン (Olivier)
Helene Vincent エレーヌ・ヴァンサン (La Journaliste)
Florence Pernel フロランス・ペルネル (Sandrine)
Charlotte For (Lucille)
Emmanuelle Riva エマニュエル・リヴァ (La mere)
Hugues Quester ユーグ・ケステル (Patrice(mari de Julie))
Philippe Volter フィリップ・ヴォルテール (L'agent immobilier)
スタッフ
監督
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
製作
Marin Karmitz マラン・カルミッツ
製作総指揮
Yvon Crenn イヴォン・クレン
脚本
Krzysztof Piesiewicz クシシュトフ・ピェシェヴィチ
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影
Slawomir Idziak スワヴォミール・イジャック
音楽
Zbigniew Preisner ズビグニエフ・プレイスネル
編集
Jacques Witta ジャック・ウィッタ
録音
Jean Claude Laureux
Claude Lenoir クロード・ルノワール
字幕
古田由紀子 フルタユキコ

若者は最高の教師である

若者は最高の教師である

テーマ:

 表記の事を常々想うようになったのは、年齢のせいもあるのかもしれない。或いは、青春は最高の教師である、と書くこともできたかもしれない。こちらの方が趣旨と含意をより伝えてくれていると思う反面、自分には青春などなかったと言いたい人もいるだろうから 表記のようにしてみた。どちらでもよいような気がするが、かつて若者であった事を否定する人はいないであろう。こちらの方が平等で良いと思った。

 

 いろいろと前段で書いてはみたが、言い訳が長くなったのは、表記のものが半ば反語にも聴こえるからだろう。反語の反対はなんと言うのか知らないが、仮に順語として 逆らわぬ表現は、人は歳を取るに連れて成熟していくものだと言う通念があろう。しかし成熟ではなく、純度としてはどうなのだろう。歳を経てこの歳になって歳月を顧みるに、若者たちであった頃の自分たちの純度には敵わない と言う気がする。

 

 人は歳を経て豊かな経験知に支えられて成熟と言う段階に達すると言うのだが、ーー一個の生涯と言う枠に拘らずに生きられた世界と時間の純度と言うものを考えた時に、成熟によって得たものと失ったものとの関係はどうなのだろうか、そんな事を考えてしまう。

 

 青春への慕情とは、単に失われたものへの愛惜や理想化だけではない。生涯という名の濁りを含んだ滔々として流れる大河の岸辺に佇って、流れ去る時間性の相において見るとき、あの時生きた、自分自身を除く若者たちの姿は群像と化して尊く、教師であるように見える。そうした帰り行くべきものと場所への敬意が 錨を下ろした舟の感覚のようなものとして自分のなかにある。

 

 こんな事を思うようになったのは、あのゲーテの怖しい書 『親和力』を読むようになってからであったかもしれない。或いは人生の成熟と純度を混同する事なく考えたヘンリー-ジェイムズの書物群の影響があったのかもしれない。或いは半世紀以上も前に読んだーー今日では半ば忘れ去られつつあるフランス人女流作家フランソワーズ-

サガンの『ある微笑』のなかで描かれた真実ーーどのような生涯軸に於ける痛切な経験もモーツァルトの一つのフレーズに及ばないーーと言うイロニーを私に思い出させる。

映画”めぐりあう時間たち”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
アメリカ映画だから少し軽く見ていたところもあったのかもしれないが、予想以上の出来に少なからず驚いた。舞台はロンドン郊外の田園の緑溢れるリッチモンド。イギリスの女流作家ヴァージニア・ウルフが入水自殺した1941年、大戦後の記憶が遠ざかりつつある一方でアメリカンドリームと呼ばれた現象が現実のものとなりつつある1951年のカルフォルニア。平凡な一人の静かな日常に生じた狂気、というよりその逆転が描かれている。三番目の舞台は2001年のニューヨーク。主人公はダロウェイ夫人と同じ老境に入りかかりつつあるが青春の華やかさを記憶にとどめる中年の雑誌編集者。彼女には同性の、いまは恋人のようであり友人のような女性と同棲しているが、過去に二人の男性をめぐる取捨選択があった。その生き方ゆえに”ダロウェイ夫人”とあだ名されている。彼女には人工授精で儲けた大学生の娘がいる。

その日は彼女が今も世話をしている昔の恋人の詩人であるリチャードの授賞式で、式後のパーティの準備に余念がない・リチャードは今は裏町のアパートに一人で暮らしておりエイズに侵されている。かれは受賞の理由が自分がエイズに侵された悲劇的な人生への報償として与えられたものだと思っている。このエピソードは昔の恋人の目の前で窓からの飛び降り自殺という結末で終わる。彼は死の直前長い間閉め切っていた窓を開け放ちこの上なく高揚した気分の中で死を選択する。

この三つのエピソードは”ダロウェイ夫人”の青春の、人生の選択時の決断に関わっている。ダロウエイ夫人とは、偶然の時間の交差によって運命が目まぐるしく交差する物語である。ダロウエイ夫人とは俗人の象徴、彼女の分身の見知らぬ青年の自殺の報告を聞いて、彼女は生を取り戻す。日地上的な時間の裂け目に不気味な顔をのぞかせた永遠の相はかき消え、傷口は塞がり癒着する。一方ダロウエイ夫人を死の相という非日常性の狂気から救った作者のヴァージニアにとってはそれが生から死への旅立ちとなる。

一方平凡な51年のロスアンジェルスの主婦にとっては、ホテルでの死は生へと反転する。彼女のお腹に身ごもった女の赤ちゃんが何を意味するかはこの映画で描かれた範囲では分からない。幼い息子だけが母親の身に生じている異変に気付いている。母親を死から生への繋ぎとめたのは、もしかしたら去っていこうとした母親の車に追いすがる姿であったかもしれない。

こうして2001年のニューヨークの雑誌社に勤めるキャリアウーマンにとっての長い一日は、大きな落胆とともに終わる。その一日の中に20世紀初頭を生きたヴァージニア・ウルフの狂気と隣り合わせの時間と、アメリカンドリームが孕んだ永遠の時間が交錯する。詩人の授賞式も彼の死によって中止となりパーティーに準備した御馳走を始末する母子と同棲の友人の三人。そこに不意の夜の訪問者が――

こうしてこの映画の最大のクライマックスが展開することになる。カナダのトロントから飛行機を乗り継いで到着した老夫人とはあのロサンジェルスの60年後の姿だったのである。映画はあの主婦のその後を二人の会話を通して紹介する。

彼女は女の子を出産した後に、家族のための朝食を用意したまま、まだ寝静まった家を一人後にしたのだった。カナダに移住し図書司書の仕事を得た彼女は家族を捨てて一人生きることを決断する。主婦として最悪の決断をしたと彼女は言う、しかし自分の選択に後悔していないとも。

彼女のあの優しい夫は病気で早死にしたらしい。あのあと生まれたらしい娘もいち早く世を去っている。そして母親の運命を悲しんだ長男こそ、2001年昔の恋人の前で、生の高揚感のうちに、窓から投身自殺したあのリチャードの50年前の姿だったのである。

こうしてそれぞれの巡りあう時間たちは偶然の運命の交錯した状況を経巡りながらエンディングを迎える。雑誌編集者は長年の”ダロウエイ夫人”の綽名の呪縛から解放され、同棲の女性との深い信頼関係を予感する。一夜を過ごすこととなったあの50年前の主婦は、深い因縁によって精神的な意味では孫であるかもしれない娘の部屋を借りることになって、心の籠った会話を交わすことになる。彼女があの出来事以来初めて交わしたのではないかと思われる人間的な会話を。何も知らない年若い娘は戸惑いながらも、そこに畏敬すべき時間が流れていることを理解するのであった。

ヴァージニア・ウルフとは何の象徴だろうか。英米では長い間インテリ女性の象徴であった。そしてダロウエイ夫人とは世俗の時間の象徴である。この映画が優れているのは日常の時間を超えた永遠なるものに迫ろうと格闘した三人の女性の姿を描いたことにある。日常世界のさりげなさの中に潜む狂気と永遠なるものの輝きを伝えた作家こそヴァージニア・ウルフであった。彼女こそジェーン・オースティン以来の英国文学の伝統を伝え、生への慰藉と限りない慰めの心とを教えた偉大な先達である。



あらすじ - めぐりあう時間たち(2002)
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あらすじ
1923年、ロンドン郊外のリッチモンド。作家のヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は、病気療養のために夫レナード(スティーヴン・ディレイン)とこの町に住み、『ダロウェイ夫人』を執筆していた。そんな彼女のもとに、姉のヴァネッサ(ミランダ・リチャードソン)たちがロンドンから訪ねてくる。お茶のパーティーが終わり、姉たちが帰ったあと、ヴァージニアは突然駅へと急ぎ、追ってきたレナードにすべての苦悩を爆発させる。その悲痛な叫びにより、レナードは彼女と共にロンドンへ戻ることを決意するのだった。

1951年、ロサンジェルス。主婦ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は妊娠中。夫のダン(ジョン・C・ライリー)は優しかったが、ローラは彼が望む理想の妻でいることに疲れていた。今日はダンの誕生日。夜のパーティーを準備中、親友キティ(トニ・コレット)がやってきて、腫瘍のため入院すると彼女に泣きながら告げる。やがてローラは、息子のリッチー(ジャック・ロヴェロ)を隣人に預け、大量の薬瓶を持って一人ホテルへと向かう。その部屋で彼女は『ダロウェイ夫人』を開きながら、膨れた腹をさするのだった。

2001年、ニューヨーク。編集者のクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)は、エイズに冒された友人の作家リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティーの準備をしていた。彼女は昔、リチャードが自分につけたニックネームミセス・ダロウェイにとりつかれ、感情を抑えながら彼の世話を続けてきた。しかしリチャードは、苦しみのあまり飛び降り自殺。パーティーは中止になったが、そこにリチャードの母親であり、家族を失ってしまったローラが訪ねてくるのだった。


キャスト(役名)
Nicole Kidman ニコール・キッドマン (Virginia Woolf)
Julianne Moore ジュリアン・ムーア (Laura Brown)
Meryl Streep メリル・ストリープ (Clarissa Vaughan)
Ed Harris エド・ハリス (Richard Brown)
Toni Collette トニ・コレット (Kitty)
Claire Danes クレア・デインズ (Julia Vaughan)
Jeff Daniels ジェフ・ダニエルズ (Louis Waters)
Stephen Dillane ステファン・ディラーヌ (Leonard Woolf)
Allison Janney アリソン・ジャネイ (Sally Lester)
John C. Reilly ジョン・C・ライリー (Dan Brown)
Miranda Richardson ミランダ・リチャードソン (Vanessa Bell)
Eileen Atkins アイリーン・アトキンズ (Barbara in the Flowershop)
Linda Bassett リンダ・バセット (Nelly Boxall)
Jack Rovello ジャック・ロヴェロ (Richie Brown)

スタッフ
監督
Stephen Daldry スティーヴン・ダルドリー
製作
Scott Rudin スコット・ルーディン
Robert Fox ロバート・フォックス
製作総指揮
Mark Huffam マーク・ハファム
原作
Michael Cunningham マイケル・カニンガム
脚本
David Hare デイヴィッド・ヘアー
撮影
Seamus McGarvey シーマス・マクガーヴィ
音楽
Philip Glass フィリップ・グラス
美術
Maria Djurkovic マリア・ジャコヴィック
編集
Peter Boyle ピーター・ボイル
衣装(デザイン)
Ann Roth アン・ロス
字幕
松浦美奈 マツウラミナ

ブニエルの”昼顔”をみる アリアドネ・アーカイブスより

ブニエルの”昼顔”をみる

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この映画が作られた1967年とはパリの5月革命の嵐が吹き荒れる前の世界である。国内においてもヴェトナム反戦運動の機運が予感と期待を孕みながらその不気味な予兆を見せ始めた時代である。主演のカトリーヌ・ドヌーヴミシェル・ピコリなどはどちらかといえば良く知っている部類に属するにも関わらずこの映画を見なかったのは納得できた。

トーキー以来の映画がその華麗な映像と音響を使って到達し得た限りない美的な世界、それがブニエルの”昼顔”の世界なのである。ちょうど昔馴染みを見直すようにドヌーヴがこんなにも美しかったのかと改めて思い知らされた。

あの時代ではドヌーヴの一枚岩的な単純さが災いとなって、ジャンヌ・モローアニー・ジラルドー、そしてジェーン・フォンダのほうがはるかに美しいと信じていた。時はへめぐっての対面であり、同時にブニエルとの対峙でもあった。

映画の中のドヌーヴの複雑な性格の設定、貴族社会が崩壊した後ではリアリティを感じるというよりは、むしろ文学の世界では陳腐であるといってよい。大学教授や、医師、公爵、さらには金満家の東洋人などカリカチュアナイズされた脇役とドヌーヴの美しさがグロテスクな対比を見せている。

最後の真実をピコリ演じる人物に告げられ、奇跡的に復活した夫との十全感を描いた場面は、もちろんドヌーヴの夢なのだろうが、精神分析学的には真実を受け入れることによる運命の受容、ということになる。方向としては正しいのだqろうが、この二人が実際に辿った映画のあとの道筋はどうなのだろうか。

映画の中に出てくるジャン・ポール・ベルモンドまがいのパフォーマンスがあるが、あのチンピラの世界にも劣るパリ上流階級の退廃を描いたというべきなのだろうか。これも陳腐な解釈である。キリスト教的な教理が生み出した病理、というにしては、映像が美しすぎるような印象をもった。カトリーヌ・ドヌーブの魅力の引き出し方が、ひと頃の――ロジェ・ヴァディムの”悪徳の栄え”を踏んでいるらしいことも気になった。

あらすじ - 昼顔(1967)
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あらすじ
セブリーヌ(C・ドヌーブ)とピエール(J・ソレル)の二人は、仲の良い幸せそのものの若夫婦だ。二人はお互に心から愛しあっていた。セブリーヌもよく夫に仕え、満足な毎日を送っているのだが、彼女が八つの時、野卑な鉛管工に抱きすくめられた異常な感覚が、潜在意識となって妖しい妄想にかられてゆくことがあった。情欲の鬼と化したピエールがセブリーヌを縛りあげ、ムチで責めさいなんだ挙句、犯したり、卑しい男に強姦されるという妄想であった。セブリーヌの奥底に奇妙な亀裂が生まれていることを、ピエールの友人アンリ(M・ピッコリ)だけは、見抜いていた。アンリはなぜか、いつもねばっこい目でセブリーヌをみつめているのだった。セブリーヌはそんなアンリが嫌いだった。ある時、セブリーヌは友人のルネ(M・メリル)から、良家の夫人たちが、夫には内証で売春をしているという話を聞き、大きな衝撃を受けたが、心に強くひかれるものがあった。テニス・クラブでアンリを見かけたセブリーヌは、さり気なくその女たちのことを話した。アンリもまたさりげなくそういう女たちを歓迎する家を教えた。一時は内心のうずきを抑えたもののセブリーヌは、自分でもわからないまま、そういう女を歓迎する番地の家をたずねるのだった。そして、セブリーヌの二重生活がはじまった。女郎屋の女主人アナイス(G・パージュ)は、セブリーヌに真昼のひととき、つかの間の命を燃やすという意味で「昼顔」という名をつけてくれた。毎日、午後の何時間かを、セブリーヌは行きずりの男に抱かれて過し、夜は今までの通り、やさしく貞淑な妻だった。セブリーヌにはもはや夫を裏切っているという、意識はなかった。体と心に奇妙な均衡が生れ、一日、一日が満ち足りていた。しかし、その均衡が破れる日が来た。セブリーヌに、マルセル(P・クレマンティ)という、金歯だらけの口をした、粗野で無鉄砲で野獣のような男が、すっかり惚れこんでしまったからだ。マルセルは、夫と別れて自分のものになれと、いまは自分の行為を恐しくなったセブリーヌをしつこくおどしつづけ、セブリーヌが言うことを聞かないと知るや、無暴にも、ピエールをそ撃した。ピエールは命を取りとめたが、体の自由がきかず、廃人同様となってしまった。セブリーヌは生ける屍となったピエールを守って生きてゆこうと決心するのだった。二人は前よりも幸せな生活を送ることになった。そして、セブリーヌの身内にはあの変な、いまわしい妄想が、永遠に遠去かって行くのがわかった。

キャスト(役名)
Catherine Deneuve カトリーヌ・ドヌーヴ (Severine)
Jean Sorel ジャン・ソレル (Pierre)
Michel Piccoli ミシェル・ピッコリ (Henri Husson)
Genevieve Page ジュヌヴィエーヴ・パージュ (Mme Anais)
Pierre Clementi ピエール・クレマンティ (Marcel)
Francisco Rabal フランシスコ・ラバル (Hippolyte)
Macha Meril マーシャ・メリル (Ren8fa1a5e)
スタッフ
監督
Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
製作
Robert Hakim ロベール・アキム
Raymond Hakim レイモン・アキム
原作
Joseph Kessel ジョゼフ・ケッセル
脚色
Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影
Sacha Vierny サッシャ・ヴィエルニ