アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「闇の洗礼 カンポ・デ・フィオーリ広場とユルスナール『黒の過程』、そして須賀敦子の足跡を追って」

「闇の洗礼 カンポ・デ・フィオーリ広場とユルスナール『黒の過程』、そして須賀敦子の足跡を追って」
2019-09-05 01:26:34
テーマ:アリアドネアーカイブ

アリアドネアーカイブ
原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505546654.html

「闇の洗礼 カンポ・デ・フィオーリ広場とユルスナール『黒の過程』、そして須賀敦子の足跡を追って」
2016-03-23 02:11:12
テーマ: 私のイタリア紀行


 午前中をわたくしたちは予約を入れていたバチカン美術館を参観に費やし、そのままの流れでできればサンタンジェロ城の見学へとつなげたかったのだが、バチカンに四時間ほども時間をかけた結果、ちょうどお昼頃になってしまったので、バチカンの北のリソルジメント広場近くの、前もってネットで調べてあった地元のパニーニやさんで昼を済ませることにした。ちょうど昔の日本にあった場末のラーメン屋さんのような店づくりで、少し腰高のカウンタ越しに注文のやり取りして、立ったままでいるとそこからハムやパンなどを切っている内部の作業の様子が見れて、商品と引き換えに会計も済ます。店内にはテーブル席と云うような気の利いたものはなくて、これも昔のラーメン屋さんのように、壁際に三十センチほど張り出した作り付けの棚かカウンターのようなものがあって、そこには丸椅子が四つほど無造作に、地元の人は立って食べるか持ち帰りが多いらしくて、カウンター際の奥に一人いるだけで、それで、わたくしたちは幸いにもバチカンの長時間見学で極度に疲労を加えた下半身を、混雑していたけれども店内の賑わいとイタリア語の洪水の中に身を沈めて、首尾よくバチカンをパスしたことなど今回の旅の僥倖などに乾杯しながら食べることが出来た。
 今回の旅も後半になってようやく気付いたことであるが、パリと違ってローマでは日本人の行動はどこかで観察を受けている、と云う印象をもった。それは悪い意味でいうのではなくて、おおむね彼らの好意的な反応なのであると思うのであるが、観察されていることに迂闊にも気づかせないほど、ある意味で洗練された配慮あるものである。ひとつ前の記事で、ヴィッラ・アドリアーナへの旅の行き帰りのときもそうだったが、バスの運転手が不親切なのではなく、見守っていてくれていると云う表現は適切ではなくとも無視された感じではなく、いよいよの時は手助けを期待することができる、それが特に今回のローマの旅で感じた彼らの人間性のあり方のようだった。伝統的な町であるローマは、古びてはいてもやはり都会の街なのである。
 それからもう一つ気づいたことは、ローマに行って、わたくしはかえって日本人であることを意識させられる場面や局面にそれとなく遭遇した。それも強烈な経験と云うよりは、なんというか、イタリアでの経験は全般的にふんわりとしていて霞のようで、あとになって、そういえば・・・・、というようなものが多かったのである。話が少し逸れたので元に戻すと、話そうとしていたこと、――日本人であることを意識させられる小場面とは、同じ東洋人でも大体の雰囲気で日本人であると云うことが彼らにはなんとなく分かるらしいのである。それで彼らも気になって納得したくなると、――ジャポネーゼ?と聞いてくる。片言で、スィー!スィー!と云えば、いかにも、やはりそうだったと云う思いと、それと同時に彼らのほっとした感じが伝わってくる。昔からそうだったのかどうかは分からないけれども、わたくしたち日本人とイタリア人の付き合い方の伝統、先人たちの実績というものを、大げさな表現だが、感じないわけにはいかなかった。それとも昨今の不穏で不吉な世界情勢を鑑みるときに、世界のなかにおける日本人のあり方が朧げに反映しているのだろうか。わたくしたち日本人は、戦後、何事かを信念をもってやり遂げたということはないけれども、結果として時が築いた精神的形成物(憲法9条や特に第13条などの戦後期の遺産)は、自らの恣意を越えたある種の恩寵に似たものとして継承、継続する意思を若い人たちとともに、持たなければなるまい。
 それで、かれらは見ていないふりをしているけれども、実際にはちょうど動物園の小動物のように、ワインを片手にパニーニをぱくつくわたしたちの姿は十二分に観察されていたのであった。追加で、一ユーロもしないペットボトルを一本片言のイタリア語で注文すると、大げさにグラッツェ!とお礼を言ってくれる。かれらが見ないふりをしていてそれでいてじっと観察の目が注がれ、それでいてそっとしてくれている心遣いは、終始、この旅行を通じて有難たいローマのおもてなしの精神だった。
 さて、もともとアルコール類は普段は嗜まないので、――ワインは別なので、ふらふら脚の千鳥足でサンタンジェロ城の方向に引き返す。このあたりはどこかパリの街角を思わせる住宅街である。このあと須賀敦子が生涯の課題であるヨーロッパ中世の光と闇と対面した螺旋のスロープも上りそして下り終えて、トスカが生前にみた最後の地上の映像、絶望のローマの眺望を体現し、カラヴァドッシが銃殺されたと思われる場所で写真を撮ってプッチーニの世界を偲び、再びティヴェレを渡るころはローマに美しい薔薇色の帳が落ち始めていた。
 地図で事前に確認していたのであるが、ナヴォーナ広場やパンテオンがある旧市街は狭い範囲のことなので甘く考えていて、この間も迷い、今日も迷いかかった。と云うのも、先回のツァー旅で昼食をいただいたリストランテの場所を探そうと、記憶を頼りに行きつ戻りつするうちに方向感覚が分からなくなった。そして偶然にも、予備知識の外側にある行く予定が必ずしもあるわけではなかった、ある大きな広場と広場にうごめく人影の映像が暗い建物の街灯の影をとおして仄かにわたくしたちの視界に覗いた。向こう側から合図を送ってくれている感じ!である。こういうことは旅にはよくあることで、ナヴォーナ広場ではないらしいけど、これが人づて気聴いたことがある、記憶の片隅にあるカンポ・デ・フィオーリ広場なのであろうか?と思った。わたくしたちは思っていたよりも旧市街の南の方をさ迷っていたのであった。
 何があると云うわけでもない、だだっ広い空間に大勢の人だかりがあるほかは、見向きもされない銅像が一つ、暗い影になって佇立している。この風景は、狭い濃縮された空間にバロック建築に囲繞されてあると云う感じのローマでは異例のものである。誰の銅像だろうと妻が言うから、有名なジョルダーノ・ブルーノの像ではないかと学習しておいた知識を披露した。
 ジョルダーノ・ブルーノは有名なガリレオ・ガリレイ裁判に先立つ歴史的悲劇の人間像のひとりで、同様に異端の疑いを掛けられ、散々国中を逃げ回った挙句、精神的自律の志を掲げながら棄教を潔しとせず、ここでむごたらしい焚刑に処せられた。マルグリット・ユルスナールは彼の生き方に構想の一端を得、彼に似た人物を登場人物の一人に据えて『黒の過程』と云う小説を書いた。黒の過程、とは錬金術の用語であるらしいのだが、ここでは詳細な説明は脇に置いておく。黒と云うイメージから、わたくしたちは宗教や世俗権力が堕落したあらゆる光明のない時代、日本語でいう末世、と云う程度に理解しておこう。須賀敦子ユルスナールを読んで、棄教を拒んで死んだ、ガリレオ・ガリレイの先人の徳を偲んで、ユルスナールのなかに流れていた北方プロテスタント精神の神髄を観ようとし、あるいは遥か四十年ほども昔々に彼女が初めてパリの土を踏んだ頃のあの二十代の苦しかった時代を思いうかべ、到底受け入れられないと思っていた北方の精神、ゴシックの精神と対峙しようとする。彼女は必ずしもそのようには書いていないけれども、北方プロテスタントの精神こそ、わたくしが再三に言うゴシックの精神と等価、等質のものなのであると、わたくしは便宜上定義しているのである。
 マルグリット・ユルスナールの文学を受けた須賀敦子の『ユルスナールの靴』は、ユルスナールとの対局、対峙をとおして、二十代の彼女が逃げるようにパリを去った過去のあの時代と、あの時代に固有の未解決のまま放置した課題と、今一度、生涯の終わりに対面を果たそうと云う苦渋の、渾身の作品なのである。
 一方、ユルスナールの『黒の過程』は、内省的と行動的と二つのタイプの青年たちを主人公とした古い教養主義的な小説のスタイルをとったドラマである。ただ尋常な教養小説、成長物語ではないのは、結局二人ともどもが結果には悲劇的な最後を遂げるからである。そしてその結末は、黒の過程、と云うほどにも光のない、救いのないものだったのである。
 六十代を迎えた須賀敦子は、ユルスナールの足跡を十字架のように背負いながら、『黒の過程』に登場する、第三の主人公とも云うべきシモンと云う中年の人物に注目する。ここで、須賀は、再洗礼派とは何であるかを語る。『黒の過程』のクライマックスは、カトリックプロテスタントの新旧両勢力に追い詰め追い立てられた再洗礼派の市民たちが運河沿いに逃れやがてはミュンスター市の城壁に立て籠もって、世界最終戦争の様相を呈した包囲網のなかで自滅する、その内実は、追い詰められた同士がお互いがお互い同士を相食むように、お互いを支配しようとし、今日でいう内ゲバの繰り返しの果てに外部との物理的な衝突以前に内部からも崩壊していくと云う、修羅地獄の出現と、圧倒的なドイツルター派とスペイン国王に後押しされたカソリック勢力の軍事力の前に全滅する物語である、その救いのない物語的世界の中で、唯一、シモンと云う、これはどこからも見ても非の打ちどころのない中庸と云うことの語の定義を極めた人物に、須賀さんは一縷の救いを見出そうと試みている。
 ユルスナールがこの小説を発表したのは1968年である。須賀敦子は、カソリックプロテスタントと云う新旧両勢力から追い詰められ追い立てられ逃げ惑う再洗礼派の群像に、六十年代の自分たちミラノにおけるカソリック左派の映像を明らかに読み込んでいる。『黒の過程』にはイルゾンデと云う薄命の美女が出てくるけれども、憂愁ふかき深窓の志ざし清き淑女を父親のような愛情で包み込んだのが先述のシモンなのである。わたくしは、須賀さんがシモンと云う人物に言及しながら、本当はペッピーノことジョゼンペ・リッカのことを語りたかったのだな、と思いあたった。ペッピーノとの結婚とは、通常の読み方では誤解されがちであるけれども、個人と個人のいわゆる近代式の結婚であると読むと須賀さんの文学を大きく読み違えることになる。個人と教団(カトリック左派)との準公式的な結婚なのである。ここのところを押さえておかないと、須賀敦子の随筆は亡くなった夫を追憶する外国籍を持った高級未亡人の、単なる感傷的な物語のひとつということになりかねない。
 ペッピーノがやがてこの世を去ることになる運命は、同時にカトリック左派と呼ばれていた時代の終わりなのであった、同時に、広範に世界で同時的事象として生じた若者たちの反乱の時代、五月革命の時代の終わりをも意味していた。須賀さんの筆遣いから想像できるのは、ペッピーノは新旧両世代を繋ぐ軋轢のなかで心労的に自滅したのではなかったか、と云う思いである。ちょうど我が国の高橋和己や村上一郎がそうした位置にあったように。そのいまや完全に、いまは追憶の対象となってしまった時代を、いま須賀敦子ユルスナールの『黒の過程』にことよせて語ろうと云うのである。
 彼女が、結論めいて言いたかったことのひとつは、やはりわたくしたちは精神的なものの強さと云うものをおろそかにしてはならない、と云う述懐と云うか自省のことばなのである。彼女はあと何年生きると思っていただろうか。歴史や時代と健気にも対局し続けた彼女には、ちょうどボディフローのように内患が内臓を締めあげる時代が近づいてきていることを予感していたに違いない。他方、外の世界に目を転ずれば、彼女が生きた最晩年の90年代はバブルの崩壊を経験はしていても、ひとが賢さという言葉の片鱗ですら理解する契機を与えられず、愚かであるがままに今日に至るそうした時代の先駆であり、精神の強さなどと講壇的に主張しても、誰もが異国人の戯言ででもあるかのように言葉が通じない不思議な世界が70年代以降この国には広がっていた。須賀敦子が、いまさら我々はもう少し精神的なものの価値に力点を置かなければならないなどと云い言いとしたところで、世俗は容赦なく彼女をアカデミズムか大学の教壇に追い返すことを躊躇しない、そんな時代であった。

 今回わたくしは、『ユルスナールの靴』を読み返してみて強く感じたのは、彼女の生涯のテーマである、北方ヨーロッパ精神すなわちプロテスタント的なるもの、つまりゴシック的なものと、彼女がペッピーノを通じて生涯の拠り所としてきたカソリック的なもの、つまりロマネスク的なものとの相克の相乗のドラマである。彼女の生涯は、かかる両極であるゴシック的なものとロマネスク的なものとの間を終始、揺れ続けていたと云わなければならない。この揺れる感じは、彼女自身も感じていて、ユルスナールと云う作家に興味を抱いた興味の一端が、ユルスナールの語感が日本語の響きとして与える、揺する、と云う感じに妙にフィットするものを感じたからである、と云うようなことをついでに書いている。

 さて、最後になったが、彼女の言う北方プロテスタント的なもの、つまりゴシクッの精神について、もう一度須賀さんとともにおさらいをしておこう。
 須賀敦子は『ユルスナールの靴』の冒頭の場面で、アンドレ・ジッドの『狭き門』を日本人はどのように読んだかと云う問題を取り上げている。
 ジッドの『狭き門』と云う小説は見かけのセンチメンタルな構えにも関わらず、なかなかに強かな内容をもった本なのであって、須賀は同時代の青年たちが純粋培養された聖女の物語のように読んで、アリサをアイドルのごとく崇拝し拝跪し語る姿勢に違和感と疑問を呈している。須賀敦子のジッドや現代フランス文学との別れはフランス的なものとの別れと云うよりも、そのように読む日本の知識層との別れでもあった。
 彼女の言う北方プロテスタント的すなわちゴシック的なものとは、ほぼジッドの『狭き門』の世界に重なると思うから、この小説に対する感想の違和がそのままフランス的なものとの別れを意味した。つまりゴシック的なものとの別れである。他方、彼女はペッピーノをはじめとするカトリック左派の青年たちとの祝福された邂逅を通してカソリック、つまりロンバルディア・ロマネスク的なものに近づいていった。プロテスタントが主張する、精神を境に神と対面、対局する極端に孤独な内面的世界の在りかであるとか、ひたすらに自律へと向かう心の純粋培養が結果的に何を生んだかは、例えば世紀末のロシア文学であるとか二十世紀に生じた大きな出来事が語っていることであり、他方、柵のように纏いつく喫緊の出来事としては、六十年代の政治運動の高揚と、その運命が象徴的にいかなる結末を迎えることになったか、彼女の同時代性が明示的にではないけれども顕著に語ってはいることである。
 留学生時代の初めのころ彼女が漠然と感じた、とてもついていけないと云う感じ、巌のように厳として存在する彼方に在るもの、つまりヨーロッパ精神が、内部から腐食し崩壊していくのを彼女はいまや見届けようとしている。ヨーロッパの崩壊と云うものを見届けるまでに生きた、あるいは生きながらえたと云うことが須賀敦子にとってのヨーロッパ経験と云うものが最終的に意味するものであった。
 そこで改めてユルスナールが『黒の過程』で創造した、シモンなる人物がもつ意味なのである。カソリックプロテスタントの双方の欺瞞を見抜き、その結果最善を予想しながらも結果的には運命と云うか、地獄を見ると云う過酷な経験のなかから、彼のみがどうにか、近代の自律と純粋培養の精神が孕む陥穽からなにゆえ自由でありえたのだろうか。同時代を生きた人文主義エラスムスに言及するヨハン・ホイジンガの世界との共通性もうかがわれる。それはまた、モーセのみがなにゆえにか世界の狂気と狂乱と騒乱から自由でありえたか、と云う問いにも通じるものでもある。
 その答えは、いまやある、ペッピーノと云う亡くなった夫の面影のなかに!
 

 広い通りに出た。巨大な教会のファサードがあるので、もしやと思うと、やはりサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会だった。トスカはここからファルネージ宮まであの悪辣で陰謀家の黒い不吉な烏、スカルピアに呼び寄せられたのだねと話しかけると、妻は疲れているのかローマの石畳の頼りない反響に代えて返事はなかった。
 教会前の大通りはヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りと云うのだが、そこを入り込むとまた深い迷路のような路地から路地が薄暗いローマの街灯に照らされて、誘うでもなく細々と折れ曲がりながら無限旋律のように続いていて、この世のありようにも似た足踏みする重たげな眠りの世界のような想いのなかで、石畳の鈍い暗い反映が滲むような光と闇の世界のなかに描くのだった。


(付記) 昨日3月22日の午前八時ころベルギーの首都ブリュッセルの空港と地下鉄で、昨年のパリに続くテロ事件が発生した。昨年の出来事と云い今回の出来事と云い、たまたまヨーロッパを旅する偶然から帰国すると、それを追いかけるように生じてしまう事件の連鎖に他人ごとではない因縁のようなものを感じる。
 いまひとつの偶然は、今回取り上げたマルグリット・ユルスナールと云うフランス語圏の女流文学者がフランドル地方、いまのベルギーに生を受けた放浪の作家であったと云うことである。放浪の作家であるとは、ジョイスや我が国の芭蕉などの場合にも言えることだが、言語をたよりにして、一旦失われた祖国は決して見失われることはないと云う意味が卓越する。事実、ユルスナールは終生ラテン的な世界に憧憬を抱きながらも北方的な精神のあり方にこだわり続けた作家である。須賀敦子を通してユルスナールを思い浮かべ、思い浮かべていたこのことと、今回の残酷な出来事の時間的な戦後関係が、十二時間以内の出来事であるにもかかわらず鮮明に、分析的には思い浮かべることができないでいる。
 いずれにせよ、そのベルギーで、ヨーロッパの中心部でありながら国家的枠組みが最も脆弱である場面でテロは生じ、狙われたのである。ここで秘かにわたくしが危惧するのは、テロの対象が無防備な原子力発電所の施設等が標的にされた場合である。顧みるに我が国の国防の事情においては、つい先日も複数回北朝鮮の度重なるミサイル威嚇的発射演習に加えて、ベルギーとは比較にならないフランス同様の原発大国である我が国の現状を鑑みるに、暗澹たる近未来の世界の鬼火が隠顕するように思えていっそう不気味ですらある。付言しておくと、フランスの原発施設は軍事施設である。わが国の原発施設は大部分が文系のサラリーマンが運転する素人の業界社会である。昨今の春の揺り戻しの風の冷たさが身に染みる。
 以上の文章は、今回の事件を踏まえて書いているので至る所にその影が隠顕する結果になった。文章が後半、暗い色調を帯びるのはひとつには今回の未来型の陰惨な出来事が遠く淵源している。
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