アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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須賀敦子とナタリア・ギンズブルク(2009/5)アリアドネの部屋アーカイブスより

須賀敦子とナタリア・ギンズブルク(2009/5)アリアドネの部屋アーカイブスより
2019-08-26 17:03:24
テーマ:アリアドネアーカイブ

須賀敦子とナタリア・ギンズブルク
2009-05-21 14:38:11
テーマ: 須賀敦子

須賀さんのことで根に持っていることがあるのですが、別のところで触れましたので今日は他のことを書きます。ナタリア・ギンズブルグは須賀さんが作家としての文体を確立する前後に出会った重要な作家の一人です。彼女はナタリアと出会うことによって、文章とはどんなふうに書けばよいのかを会得したというのですが、そのあと私も色々と考えたのですが、だいたい次のような二点ではなかったかと考えています。

(1) 大事なことは書かない。どうでもよいことを書く。繰り返し同じことを書く、あるいは同じフレーズを繰り返す。例えばナタリアの父親の嘆き節のように。
(2) 同じことを繰り返し書きながら少しずらしながら書くといっても、推理小説のようにそれが“事実”の別の側面、という印象を与えてはならない。時差と空間がもたらすずれの間隔は、ある意味で作家的視座の特権性の放棄、ということを意味している。言い換えれば映像は語られる度ことに同一でありながらずれの感覚を含み、明確な統一像を与えないから、ちょうどイタリアの都市の裏通りのように曲がりくねった迷路なような印象を与える、しかもある場合は霧に閉ざされた。「・・・霧の風景」の技法の完成である。

ナタリア・ギンズブルクは『ある家族の会話』において大事なことを語らなかった、政治犯としての夫がファシストに虐殺されたあのローマの夜の出来事について。乳飲み子を抱えて夫の流刑地であるベスカーラから最終地ローマに向かった頼りない日々、彼女は流刑地で受けた痛みや苦しみについて語らなかった。

ナタリア・ギンズブルクは少なからぬ影響を受けたはずの父親について、その清廉潔白さについて、その政治的信条についてごく少ししか語らなかった。この父親は、大家族の家庭に集う友人知人の話を聞いては嘆息し、癇癪を破裂させた。いわく“お前たちは、馬鹿だ!ロバだ!”物事の本質というものが分かっていないと。次第に戦時色の色に塗り潰される過程で、この家族のサロンにおいて交わされた会話こそ、近代イタリア史上燦然と輝く黄金の時と経験であったのだ。なぜなら、それゆえにこそ父親は語ることを決して止めなかった。ファシズムの現実が身に迫っても、憚ることなく勇気を持って、ユーモアを忘れることなく語った。“お前たちは馬鹿だ!ロバだ!”と。しかし、その力は幾分かは力を失ったかもしれない。愛娘が明日をも知れぬ社会主義者の夫と将来を誓い合ったとき、父親は何も語らなかった。

須賀さんは作家としての文体を確立してから、一度だけナタリア・ギンズブルグに逆らった。最貧国の養子問題、すなわち幼児売買の問題が政治問題化したとき、あれほど大事なことは語らないはずのナタリアが発言し、果敢な行動をとった。須賀さんは、ナタリアほどの人ならもっと他にやるべきことがあるはずだ、この種のキワものめいた政治問題は他の人でも対応できるし、その方がうまく解決できるはずだ、と考えていた。

須賀さんはエマウス運動に最後まで係れなくなった頃から、実生活における行動という側面に対しては臆病になっていた。臆病などころか、この時ばかりはあの慎ましやかなという印象を常に作品では与えている須賀さんが、感情的とでもいえる反発の仕方をしたのである。ナタリアが身をもって示した行動に対して、ナタリアほどの人が、という権幕であった。

須賀さんには分からないかもしれないが、ナタリアには人間として譲ることのできない部分というものがあったのだと思う。とりわけ、子供に関することは須賀さんには理解しにくかったのではないかと思う。ナタリアには頼りなく子供の手を引いた、明日をも知れぬ夫を追っての気の遠くなるようなベスカーラの日々の記憶があった。

ナタリアのお母さんは随分素敵な人ではなかったかと想像される。理学博士の夫の嘆息と権幕と大勢の家族や友人知人の間に挟まれて、若い人たちプルーストを話題にするような人であった。『ある家族の会話』は、大戦前のトリノの人々と彼らの雰囲気と、いつもその中心にあった母親の記憶に捧げられている。