アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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須賀敦子の詩法――須賀敦子のミラノ あるいは霧の中に消えた人々(2009/3) アリアドネ・アーカイブス

須賀敦子の詩法――須賀敦子のミラノ あるいは霧の中に消えた人々(2009/3) アリアドネの部屋
2019-08-26 16:57:16
テーマ:アリアドネアーカイブ

アリアドネアーカイブ
原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505534750.html
須賀敦子の詩法――須賀敦子のミラノ あるいは霧の中に消えた人々(2009・3)アリアドネアーカイブ
2009-03-17 17:56:16
テーマ: 須賀敦子

須賀敦子の詩法
 ――須賀敦子のミラノ あるいは霧の中に消えた人々


 須賀敦子によればご自身のミラノ体験とは「狭く、臆病に奥に広が」っていくものであった。しかし霧が流れる路地に沿ってとぼとぼと歩く彼女の記憶の回廊の道のりは、霧の舞台の中で再会する道、懐かしい人々の記憶に繋がる道でもあった。「ミラノ 霧の風景」「コルシカ書店の人々」「ヴェネチアの宿」「トリエステの坂道」と続く、4部作というよりは日本語による荘重ともいえるイタリア弦楽四重奏は、単なる随筆の集成であるにとどまらず、ある時代を生きた人々の呼吸と、身じろぎと、確かな存在の記憶を伝える。須賀さんの作品がしばしば小説との類縁性を云々されることがあるが、誤解してならないのは、過去の事象や思い出を語る作家としての卓越した表現能力や感情移入の卓越性をいうわけではない。その意味では須賀さんの輪郭のみを描いて内容を省略する手法は、伝統的な意味での小説的手法の具象と骨格性を備えているわけではなく、あくまで「・・・・・風景」とする所以なのである。そこに須賀さんの歴史的証人、報告者としての限界を指摘することはやさしい。しかし随筆家としての須賀さんの本領はそういうところにはないのであって、彼女のイタリア経験が、ある場合は半世紀以上の時間の経過を経みているにも拘らず、記憶は彼女の場合決していわゆるロマンや回顧録におけるような完結性からくる、客観的な統一像を結ぶことがない。須賀さんの霧の道、霧の舞台と霧の記憶の形象の中では、同一人物が何度か繰り返し描かれるわけだが、その複数の群像は、その語られる度ごとに、語られる場面ごとに、あるいは語られる書物ごとに、同一性を保ちつつも微妙にずれていきながら違った光源の中で違った側面を見せる。例えばコルシア書店の主要なメンバーであるルチアという女性と、須賀さんご自身の父親像にそのほんの一例を見ることができる。とりわけルチアという美貌とステイタスを兼ね備えた一人の女性像は、いまだ現存するイタリア社会の貴族制と言うものの存在の理解なしには考えられない、真の意味での貴族制というものを知らない現代の日本人には少し理解しにくい出来事かもしれない。
ご存知のようにルチアという女性の現れの仕方は、「ミラノ 霧の風景の」の最初の部分に、霧の壁に阻まれて進めなくなった車を誘導するために路肩を走る霧の中の人影として、とりわけ印象的な登場の仕方をする人物である、その登場はまるで本の表題の由来ともなりえたかのような象徴性を帯びている。そのルチアは美貌を併せ持つ資産家でもあるわけだが、何らかの形で存在したあの時代のコルシア書店の理念、つまり共同体の理念を共有し、一面において誠実に実務をこなす仲間の一人として紹介される。しかしその彼女はまた、そのブルジョワ的な固有な意識において階級的偏見から脱却できず、同僚のプロポーズをすっぱ抜くという階級意識丸出しの非理念的な存在でもあった。たぶんこうゆうことは戦後教育の旗手である須賀さんの受けた教科書には書かれていなかったのではなかろうか。まして彼女の憧れの欧州でかかる事象に出会うことはたぶん予想されていなかったのではなかろうか。同じテーブルに座しながらまるで透明なカーテンにでも隔てられたかのように交わされる仲間内のゴシップじみた会話に、深く根を張ったイタリアの歴史的階級意識の壁に須賀さんは傷つくのであるが、結局はルチアという女性もまた歴史的理念とその時間的風化に抗う存在として、霧の道、霧の舞台の中の、ひときわ華やかな存在として、その真摯な姿を刻印したまま、記憶という名のミラノの霧の中の花道へと退場していく。また別の本の話なのであるが、須賀さんの幼馴染で後に修道会に一身をささげた女性がいて、死の間際にふとこのように回想する、生きるってただごとじゃないよね。正確な引用になっていないのはお許しいただくとして、長い時間を隔てて再開したこの二人の旧友の間には何も語らずして了解しあうものがあったという。これを包括的と表現すべきか何と表現すべきか、それ以上でも以下でもない須賀さんの表現の確かさ、舞台照明の適度さは、ここではカソリック的ともいえる普遍性を獲得しているのである。
それでは今一人の父親の存在とは彼女にとって何だったのだろうか。ルチアは須賀さんにとって霧の道、霧の舞台の中では所詮は周辺的な存在であったのに対して、この父親像は準主役とも言える中心的な存在であることが次第に明らかになる。たぶん書き出しのころの須賀さんは父親について明瞭なイメージを持っていなかったのではないかと思う。須賀さんの父親は、家庭の外に愛人を作るおよそ存在の重みを欠いた定型的存在――、近代日本の社会が生んだ一つの類型的存在として登場する。しかしこの人物像は後半になればなるほど、須賀さんの記憶の中である種の成熟を遂げるという意味で、ひときわ特異性を持った存在となる。言い換えれば記憶の中で己が人生をもう一度生きなおし、須賀さんの霧の道、霧の舞台の、霧の根幹にかかわってくる存在となる。いってみれば須賀さんの内部における東洋と西洋、実人生と自己実現にかかわる一人の戦後女性が辿った内面的ドラマにおける根源的に対立するものの象徴として、あるいは須賀さん的生き方の、須賀さん的課題の先行的存在として再登場することになる。くどいようであるがここに須賀さん的生き方とか課題という言い方で私が言いたいのは、なにも特別な思想史的な出来事であるとか深遠な個人的な経験といったものを言おうとしているではない。戦後という日本社会の現実の中で、知的な女性は一般にどのような生き方が可能だったのか、その生き方は最終的にどのような方向に収斂しえたのか、という事なのである、女であるゆえの。それはともかく、父親の存在とは須賀さんにとって、ちょうどダンテにおいてヴェルギリウスが占めた位置のようなものを見出す過程でもあった。それは慎ましやかな、須賀さんの父親に手向けたオマージュのごときものであった。「ヴェネチアの宿」の最終章オリエント急行とテヒーカップアンドゥソーサー比喩とは、長い須賀さん的な生き方とその旅程のたどり着いたかりそめの中間点、永遠に終わることのない旅という、一方では銀河鉄道的なライトモチーフの、かすかな近代と呼ばれた時代の余韻でもありえたことの証でありながら、他方では薄明に向かうきれぎれの吐息の、途切れるようでいてその都度かすかに勢いを帯びて余韻の中で反復しながら、輝かしい残照のけぶり中に尾を曳きつつも消えていく、告別のときに臨在した、たまさかの賛歌なのである。
 このように須賀さんの語り口は最初から全体像を語らず、また語る時々によって視角を微妙に少しずつずらしながら語る語り方は、思い出というものが、記憶と忘却という現在から見られた意識の特権性に立脚した理念的構成物であるのではなく、思い出がそれがかつてあったとおりに、かつてそれがあったがままの鮮度においていま一度再帰的に語るという語りの、まれに見る表現者としての現象学的とでもいえる特性を可能にしているのである。須賀さんの過去の事象や思い出の中に再帰する面影に対する謙虚さや受身の姿勢というものは、彼女の単なる個人的な性癖や性格、作家としてのスタンスやポジションにあるのではなくて、思い出というものが決して「思い出」という名の人工的工作物に風化してしまうのではなく、一方ではいまだ血が通った懐かしい存在でありえたことの、つまり過去が記憶と忘却の中で己が人生を今一度生きなおしているというある種の奇跡の輝きにも似た、時間と経験とが現成する原初的生成の現場の、雄弁な証であることを示しているのである。私たちが須賀さんの文章を繰り返し読むたびに感じる色あせない魅力の秘密とは、その出来事の多くが半世紀以上も前の――須賀さんには大変失礼な表現になるのだが――現代史的意義を失った過去の遺物的事象!であるにもかかわらず、過去の思い出が慎ましやかでいてそして溢れるような思いとともに、思い出されるたびことにやはり少しずつずれていきながら、陰影に富んだ彼女の記憶の回廊の中で一人時を刻みつつもその都度違った切り口を見出すという、完結しない過去、完結しなかった須賀さんの人生の、つまりは未完に終わった須賀さんと西洋とのかかわり方の中に、あったようにも思われるのである。