アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラスの新約と旧約の時代――『苦悩』をめぐる会話・2(2013/12) アリアドネーカイブス

デュラスの新約と旧約の時代――『苦悩』をめぐる会話・2(2013/12) アリアドネーカイブス
2019-08-26 16:48:35
テーマ:アリアドネアーカイブ

アリアドネアーカイブ
原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505537859.html

デュラスの新約と旧約の時代――『苦悩』をめぐる会話・2
2013-12-22 18:29:30
テーマ: 文学と思想

・ http://ts4.mm.bing.net/th?id=H.4964188817195827&w=111&h=152&c=7&rs=1&pid=1.7 http://ts3.mm.bing.net/th?id=H.5042829698859538&w=111&h=152&c=7&rs=1&pid=1.7 http://ts3.mm.bing.net/th?id=H.4897062796855394&w=211&h=150&c=7&rs=1&pid=1.7

――『苦悩』のテーマは極限的な状況下での、加虐と被虐の独特の関係だと思うのですが、『太平洋の防波堤』や『愛人』などを読んでみても、デュラスの場合は単純ではありませんね。上の兄と下の兄がいて対照的に描かれているのですが、シャム双生児のように似たところもあります。一方は狩人のように加虐に徹し、他方は被虐に徹すると云うか、現実には大変だったでしょうけれども、何か一途さというか、無用性と云うか、実存的な意味での根拠のなさと云う意味で、似ているのですね。そして、始原からいがみ合う事を運命ずけられた兄弟と云う意味でカインとアベルのような、時間を超えた伝説的永遠性をこの二人に感じるのですね。カインとアベルの兄弟の物語の背後には旧約聖書と云う大きな枠組みがあったように、ここでは自然の不可抗力的な力でインド洋の絶えざる海水に浸食されるほかはないか細い干拓地を守るために、神が与えた不条理に挑むシジフォスの末裔のような、力なき老女が登場します。彼女はあらゆる人間的営為が徒労にすぎないことの象徴であるかのように、二人の兄弟と妹マルグリットをも含んだ、家族全体をこの世の地獄の底に引きずり込まないではおかないようない蟻地獄のような、呪われた刻印を受けた旧約の神の再来のようなのです。
――母親は上の兄だけを愛し、下の二人は現地の子供のように育てます。現地の子のようにと云う意味は、米を食べ、ジャングルや川で採取した果実類や魚介類がある時期まで大事な栄養源であったらしい、ほったらかされた育て方をされた、と云う意味です。フランス文化と伝統とは絶縁された、無関係に育てられたと云う意味です。二人は何時も一緒であり、共通したものの感じ方をするようになるのは当然でしょう。二人は意味もなく理由もなく自分たちに暴力を振るう上の兄を憎みます。家庭内暴力が極限に達したとき殺されないで済んだのは、事態を悟った母親が上に兄の帰国を急いだためにほかなりません。その費用等がどのようにして購われたかは、『愛人』に描かれている通りです。
――母親が特定の子供だけに愛情を注ぐと云うのはよくあることかもしれず、これだけを取り上げて特異であるとか異常性云々は言えないでしょう。むしろ加虐と被虐の関係が狩人と狩られる犠牲の獣との、太古の血の匂いのする始原的関係のように、何か宗教的な儀式めいた神話性において甘受されていた、ということが問題なのですね。つまりマルグリット・デュラスと云う感性の受容性の様式の中において彼女の思春期初期の経験が、深く宗教的な脈絡の中で回想されていると云うことが大事なのですね。下の兄は別として、妹は兄から理由のないサディックな暴力を受けて、そこにエクスタシーを感じていなかったと云えるのでしょうか。むしろ『太平洋の防波堤』などを読むと、兄が妹を虐める口実に、妹が性的に早熟であると云う言い方をしている場面が頻出してくるとなると、この問題は全面的に彼女の記述を信じることはできず、決しておろそかには考えられないことなのです。
――マルグリット・デュラスの旧約時代の、『太平洋の防波堤』時代の経験と、『苦悩』に描かれたレジスタンス運動時代との関係でいうと、加虐と被虐の相対性と均衡性が少しずつ重点を移動していって、一つの決着をみると云うのが「ムッシュウX 仮称ピエール・ラビエ」だと思うのですが、それは被虐-加虐の構図が一対一の実証主義的な関係にあると云う意味ではなく、ナチの暴力主義的なパリ占領下にあって、『太平洋の防波堤』に描かれたかれたような基礎的な経験がなければ、あのような捻じれた関係、倒錯した愛と暴力性が一体となった病的な作品は書けなかっただろう、と云う事を言いたいのです。
――やがて、加虐-被虐構図の相対変位の位相変化が加虐性の優位において描かれたのが、「アルベール・キャピタール」と「親独義勇隊員テル」だと思うのですね。加虐と被虐の関係は、それが旧約的宗教的構図の中にあるとき、ちょうど振り子運動のように両極を交互に移動する習性があるのですね。これは倫理とは無関係です。ある時は加虐者として、ある時は被虐的な人間像として現れるところにこの問題の恐ろしさがあります。マルグリット・デュラスはこれが倫理の問題でないことを十分に理解していました。それが分かっていたからこそ、一言の抗弁も言い訳も彼女の口から漏れ出ることはなかったのです。しかし、これは彼女の中に癒やし難い傷痕を残しました。それは、他に代えがたい肉親の死がもたらした経験をはるかに超えて永続する永劫の、破壊的な経験だったのです。たびたび引用して恐縮なのですが、大事なところなのでもう一度読み上げてみますね。

デュラス:「大戦中にユダヤ人の身にふりかかったことに覚えた痛手から私は全然立ち直っていません。私は自分の身にふりかかったことからは立ち直りました。私は子供と兄を喪いました。レジスタンス運動で、ラーヴェンスブリュック、アウシュヴィッツ強制収容所で、十四人の友達を喪いました。でもユダヤ人の全般的な運命にくらべれば、そういった個人的喪失の傷の方が治りかたが早いのです」

――ご覧のように、デュラスが言っているのは私情を超越した普遍的人類への愛などと云う聖者のような事を言っているのではなくて、レジスタン期の歴史的経験が自分自身の経験として、単なる客観主義的に言表できるような経験ではなくなってしまったと云う事を言っているに過ぎないのですね。その経験とは、最愛の夫ロベール・アンテルム、絶望の底から願い続けた夫との関係をも破壊するほどのものであったと云う事なのです。とはいえ、彼女が夫を愛していなかったならば、あのような献身的な介護が出来たでしょうか。デュラスが夫に離別を告げなければならない辛さは、デュラスが小説に表面上書いているような、文面に現れた限りでの意味とは違ったものであったようです。
――わたしがレジスタンス運動期のデュラスの時間を、例えば「ロベール・Lを待ちながら」と記入したのは、新約聖書時代のキリスト教徒がそうであったように、近未来的にこの世に再来するであろうキリストの降臨を待ち望む永遠の待機状態の中にあると云う語感を滲ませたいたいと考えていました。
アウシュヴィッツの悲劇は神を見失った現代人が犯した罪などではなく、深く宗教的な構図の中でのみ起こりうる悲劇であったと云うふうにわたしは考えているのです。つまり『太平洋の防波堤』の中で描かれた加虐-被虐の構図が自然状態として考えられているかぎりに於いてそれは、孤立した単なる事実としての数えることのできる残虐行為の一つであるに過ぎないのですが、それが何か固有の宗教的な感受性の受容様式のようなものによって受け止められると、根本的に異なった現実が出現するのだということです。
――デュラスにとって、ロベール・アンテルムを待つ時間は祈ると云う行為を超えて、祈りの硬度が悲しみとなって氷の結晶として凍結するような経験でした。その経験の中でアンテルムは神話になったようにみえたのですが、実際にはこの世に肉体を持った存在として帰って来るのです。デュラスを戸惑わせたのは神話として完結しなかった、と云う事もあったでしょう。それ以上に、異常なとも思える奇跡が起きたのは、医者も匙を投げたような骨と皮だけに近いような「アウシュヴィッツの現実」が、その「物体」が、彼女の献身的な介護の所為もあって、息を吹き返して来るのです。まるでアンテルムの蘇生の過程は、まるで決定され確定された二人の離別の象徴のように、あるいは悪意ある皮肉のように、鮮明に浮かび上がって来るのです。それは秘められた内面の、禍々しい、悪意ある、もう一つの、キリストの降臨劇だったのです。
それゆえ、彼女は後に回想して、この時代についてこのように語るのです。

デュラス:「私にとって、戦争は、『アルベール・キャピタール』で語ったあの情景のあった日に終わった。そのあと、強制収容所からの帰還があったけど、もう殺意は消えてしまっていた」

――つまり決定的な峠は越えていた、もうその時はリアリティもなくなっていた、と云うわけですね。映画『かくも長き不在』などに描かれていたような、夫を待つ哀切極まりない物語すら及ばない、異なった現実の着地点に彼女は戦後一人立っていた、と云う事なのですね、あらゆる理解と感情移入を拒んで。それがあの人間が物体に還元される『辻公園』や『モデラート・カンタービレ』や、人格の人格との間の関係の間に溶解と化学的変容が起きる『アンデスマ死の午後』の夢幻能の如き気味の悪い文体の誕生でしたでした。殺されたいほどの欲求と死のエロティスムをを持って戦後を生き、その干乾びた老醜ただよう亡骸を引き摺っていくアンヌ・デバレードとはだれだったのでしょうか。
 これがわたしが彼女の新約の時代について言いうること、彼女について推測することの全てです。