アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『サガン 悲しみよこんにちは』(2017/7) アリアドネの部屋アーカイブスより

映画『サガン 悲しみよこんにちは』(2017/7) アリアドネの部屋アーカイブより
2019-08-26 16:32:47
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505566373.html
映画『サガン 悲しみよこんにちは
2017-07-12 07:36:53
テーマ: 映画と演劇


 こちらはジーン・セバーグ主演で有名な『悲しみよこんにちは』の方ではなく、没後四年目の2008年に、サガン自身の生涯をドラマ化した映画である。
 彼女は生涯に二十の小説を書いたと云われるが、この映画を観ていると、二十一番めの作品が彼女自身によって演じられた彼女自身の死であったことが理解できる。彼女は自らの死を生きたのである。

 若干十八歳で『悲しみよこんにちは』によって、センセーショナルな形でデビューして以来、様々な紆余曲折の過程を経て、晩年は一転して孤独のなかに死ぬ。あれほど愛されることを求めて情感と資産のありったけを蕩尽し尽くした彼女にして、最後は家政婦にひとり看取られるだけの孤独な死であった。彼女は人を愛し、主としてロマネスクな雰囲気のなかに人をゴージャスに招待した割には、誰も彼女を救ってはくれなかった。彼女が恨みつらみを述べないのは、そもそも彼女の愛や行為と云うものが最初から、見返りを求めるようなものではなかったからである。

 この映画を観ながら漠然と「戦後」と云う時代について考えた。ここに云う「戦後」とは、終戦後の平和な社会体制の維持が未だ盤石ではなく、過去の破壊と惨禍から立ち直っていく過程で感じるつかの間の過行く不確かな不全感を、アンニュイとも自由とも感じるそんな両義的な時間だった。
 やがて時代は冷戦の世界構造的枠組みの中で高度成長期の足取りは自信に満ちたものになる。平和を盤石と感じる時代思潮のなかで、彼女は次第に過去のものとなる。
 冷戦構造の枠組みは尚も維持しながらも変質し、平和の裏側にあるおぞましきものの存在を、例えばヴェトナム戦争などによって告知するが、かかる現代史的な問題意識においても彼女は追い抜かれてしまう。20世紀以降の戦争を特徴づける核や化学兵器を駆使する地獄絵が持つ不気味な無機性は、彼女のアンニュイやロマンティスムに馴染まないのである。
 彼女に残された資産は、スキャンダルだけとなる。アルコールとコカインにまみれ、ギャンブルの刹那のなかに身を沈める、そうするほかはなかったのである。

 過去の栄華と末路の悲惨さ、どこか小野小町の伝説を思わせる彼女の生涯から幾つもの教訓談を引き出すことは可能だろう。処世術のあれこれを反面教師として有意に学習することも可能だろう。しかしそのような教訓や悔悟談は特に彼女の生涯から学ばなくてもよい、むしろもっと他に適当な素材は広い世間に山のようにあるはずだ。むしろこの映画を観ながら感じたのは、フランソワーズ・サガンは、愛について語る十八、九世紀のフランス文学の伝統を踏まえた最後の作家であった、と云うことを今更ながらに感じた。もはやこれ以降、愛することに於いても愛されることに於いても、愛についてこれほどの全幅の信頼を帯びて語られることは絶えてなくなるのである。

 処女作に全てがあるとは良く言われることであるが、『悲しみよこんにちは』とはどのような作品であったか。サガンを思わせる自由奔放で蠱惑的で小悪魔的な娘が、父親の愛人に嫉妬し、彼女を死に追いやる、という無残なお話である。むしろこの話を無残と感じないところに作品のヒットと、それ以降彼女が自らの登場人物に重ねて生きざるを得ない重苦しさがあった。
 彼女の作品が読まれなくなったのは、彼女の小説が持っていた、こうした時節柄のモードであろう。フランソワーズ・サガンは彼女の登場人物たち以上に、サガネスク(朝吹登美子の命名による)を彼女の実人生と云うキャンバス上に、豪華にも華麗にも演じてみせたが、彼女の凋落とともに時分の花は無常の風に花を散らした。
 フランソワーズ・サガンの文学が滅んだのは、実はこうした側面、こうした読まれ方である。

 十八、九世紀以降の偉大なるフランス文学やヨーロッパ文化の伝統を踏まえた、愛を信じた最後の作家として、彼女はいまこそ再評価されなければならないような気がする。彼女以降、愛がもはやこのような形で語られることはなかった。
 『悲しみよこんにちは』とは、センセーショナルな素材だけが優先する、若者向きの、反抗期に固有の反道徳性を掲げた作品に過ぎないのだろうか。いままでの読まれ方はサガンの小悪魔的なキキ的側面に焦点を当てて、もう一人の主人公アンヌについては多く語られることは少なかった。雄弁に描かれているわけではないが、アンヌの人間像の背景には、過酷な運命を高貴な諦観のなかに感受するシェイクスピアの『オセロ』のデズデモーナ、『冬物語』のハーマイオニを彷彿とさせるものがある。
 サガンが生きた時代は、小説の不可能性の問題があった筈だ。『悲しみよこんにちは』の主人公のセシルが、古典的な人間像の代表であるアンヌを稚拙な罠に嵌め死に追いやるのは、古典的な小説の時代が終わったことを意味している。意味しているだけでなく、文学的犯罪に自らもが加担し、ぬけぬけと何らの心理的な負い目を感じることもなく生き延びると云う点に、現代と云う時代を描いている。
 『ある微笑』が描いているのは、古典世界像の崩壊の後に残るものとしての、孤独、というテーマである。文学とは、自らの言葉を音調を固有な語りとして受け取ること。それに比べれば人生上に生じる紆余曲折などは、モーツアルトのワンフレーズにもしかなかい、というお話である。
 『一年の後』のベルナールが、書けない作家であることは折節に語られる。彼が書けない作家であるのは、才能の質もあるだろうけれども、時代思潮としての文学の不在、というテーマが横たわっている。小説が書けないとは、もはや古典的枠組みを前提としては語れない、という意味である。
 『ブラームスがお好き』が特異なのは、小説的ロマネスクの伝統的な枠組みを虚構と見据えた上で、現代の「伝説」として語っている点だろう。古典的枠組みの小説の不可能性の上に立って上書をした、反小説である点だろう。
 むしろこれ以降、文学が辿った歴史は、もはや文学を疑うことなく自明のものとする、極めて楽天的で且つ楽観的な文学観が支配する読書界か、あるいはマルグリット・デュラスのように、伝統とは切断されたところで、非情な無機性の美としての愛を語ることであった。デュラスがインドシナと云う植民地出身の作家であることは象徴的である。
 二人の戦後の現代フランス文学を代表する作家がとった、68年のパリ革命に対する反応も対照的であったことも興味深い。

 今日から見るサガン像はわたくしの眼には、流行の先端に立つ寵児と云うよりも、時代遅れの武器でじりじりと押されながら、途方に暮れながらそれでも現代と云う時代に対峙した最後の古典主義作家、というイメージが徐々に復元されて来る。
 フランソワーズ・サガンはいまこそ再評価されるべきではないのか。彼女の文学が読まれなくなったのは彼女の咎でも不名誉でもなく、むしろ彼女を遇することのできない我々の方こそ問われているのではないのか。文学とは、かって何であったかの醍醐味を忘れた我々の方にこそ!

 最後に、映画について簡単に感想を述べる。
 作家に関するドキュメンタリーでもなく、文芸映画でもなく、その間の伝記映画として、シナリオは原作と作者自身の生涯を読み込んで実に良く組み立てられていて、流石にフランス映画と思わせた。
 特に素晴らしいのは、モノローグの場面で、原作のフレーズと映像作家の語りが見分けがつかないまでに縒り合され、繊細なタピスリーのように織り込まれており、日本人には到底造れない映画だと思った。第一、こんなモノローグが似合う女優さんが見当たらないのである。
 また、サガン十八歳から六十九歳までを演じたシルヴィー・テスチュッドと云うそっくり女優さんの熱演も見ものである。彼女はこの映画でセザール賞を受賞していると云う。