アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヘンリー・ジェイムズの小説作法(2013/5)

ヘンリー・ジェイムズの小説作法(2013/5)
2019-08-26 16:24:00
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505537543.html
ヘンリー・ジェイムズの小説作法
2013-05-23 14:09:38
テーマ: 文学と思想

・ 古色を帯びてはいるもののヘンリー・ジェイムズの文学は依然として現代文学における”事件”である。現代英米文学圏最大の小説家という評価に留まらず、文学史的事象として論じるにはあまりにも生々しすぎるのである。新参の読者の一人としてその特徴を書いておこう。

 いままでこのような読み方がなされたのか、評価がなされたのかどうか、ヘンリー・ジェイムズの文学の新参ものとしての読者としての恐縮しながらのものの云い方なのだが、ヘンリー・ジェイムズの小説の最大の特徴は作者と読者の関係にある。しかもその関係には固有な揺らぎが見られる。揺らぎと云い変動、変化と言ってもよいのだが、通常変化や変動は小説世界の中でしか起き得ない小説の内部空間での出来事である。言い換えれば小説とは奇想天外か紆余曲折かは別にしても何かが起きて貰わなければ困るのである。それを起承転結と云ったりするのだが、ある意味では読者は紆余曲折に満ちた奇想天外の筋の運びに興味を持って読み進むのだが、ジェイムズの場合の揺らぎとはこういう意味ではない。小説とはフィクションとして何事を語ろうとも自由だがしかし最低の約束事として作者と読者の信頼関係が失われてはならない、と云う点がある。当たり前のことを何を云うかと云う気がするが、驚くべきことにジェイムズの小説では三分の一ほど読み進んだ段階でこの関係がおかしくなるのである。
 つまりこう云うことである。――通常作者と読者の関係は神の座にも比すべく特権的位置の神聖さは別としても情報量に於いて圧倒的な格差がある。だから登場人物の一人ひとりについて作者から紹介を受けるときも、この人は善い人ですよこの人は悪い人ですよと云う情報を信じ、その情報の信頼関係の上に物語的世界を築き上げるのである。ところでジェイムズが作者として必ずしも信頼が置けないと感じられる所以は、彼の小説を読み進んで行くうちに彼が云っている善い人悪い人の区別が次第に分からなくなるのである。これは作者が嘘を云ったり責任逃れをしようとしていると云うよりも、作者としても一応登場人物の何人かについては初対面の印象を信じるほかはなかったとい云う意味であり、それ以上にそれぞれの登場人物たちの個別の評価については、信頼できると思われた登場人物たちの一々の言説や評価を信じて、それを読者に伝えただけだと云う事情が次第に明らかになるのである。つまり作者としては手持ちの情報量を伝えたのであるから誠実であったと云わんばかりなのである。
 この辺はたまたま読まれていると云う意味で現代日本文学の村上春樹辻仁成などと比べてみると分かりやすいだろう。『ノルウェイの森』ではルフトハンザ航空で飛行場に着陸する間際にビートルズの曲を聴いて感傷的になっているのを見てドイツ人のスチュワーデスが親切に”御気分が悪いのですか?”と声をかける。これを何でもないことのように書いているのが流石は村上春樹であって、要するに言わんとしていることは主人公の”ワタナベ”君は信頼できるよ、物語を読み進めば必ずしも常に規範的な行動をとったとは言えないけれども苦しみ悩んだ人間と云う意味で少なくとも誠実と云う概念を裏切りはしなかったよ、と云う意味である。これが辻仁成の『冷静と情熱のあいだ』ではもっと凄くて、駈けだしの絵画修復家見習いにあろうことか遥かに年齢も上の敬愛おくあたわざる修復美術研究所の女流の大先生が”ジュンセイ”君に恋をしてしまうと云う想定が一方にある。つまりかかる奇想天外なことが起きて不自然ではないほど”ジュンセイ”君は誰からも好かれて当然である、と云わんばかりなのである。勿論このことが重要なのではなくて、おしなべて日本の作者が言外に主張しているのは、主人公の性格は保証するから安心して興味を持って読んでね、と云う事だけなのである。表裏がないと云う意味では凡そ日本の小説家と云うものは登場人物よりも素直なのである。ところがジェイムズの世界においては、作者-主人公-読者の関係が必ずしも不動のものとは云いかねるのである。ヌーヴォーロマンやニューシネマのように最初から疑わしいよと言ってくれればいいものを、二三百ページも読み進んだ段階で読者はある種の苦々しさの認識とともに自分の早とちりやら見通しの甘さなどを認めなければならないと云うのは辛い。最後まで読んで得られた起承転結の果てなる結末なかばに唖然としながら、ヘンリーよ!あなたのまなこは何処を見ていたのですか、あなたの目は節穴だったのですか、何を持つて善いとか悪いとか云っていたのですか、などと泣きごとを並べてもいまさら遅いのである。最後まで読ませたヘンリー・ジェイズムの方に、一本なのである。

 ヘンリー・ジェイムズが編み出した登場人物たち相互よる相互批評と云う方法は、物語的世界だけに限定されずにとりわけ作者や読者をも巻き込んでしまうところに凄さがある。読者が作者に信が置けないと分かっても最後まで読むのは、やはり英米文学圏にその名を知られた大作家なのであるから登場人物たちの何人かよりは信頼できると云う理由からに過ぎない。それに読者とは物語的世界の端役以上に手持ちの情報と云うものをも持たないので、ちょうどフランツ・カフカの『城』の”K”のように、情報的提供者に出会うたびごとに最敬礼し、彼らに対する信頼を悲しいまでに披露してみせなければならないのである。信頼できるものが何一つない世界で他者の好意だけを宛てにする生き方と云うのは辛い。

 こうした読者と作者の関係が歪んだ世界文学史上未曽有の事態を描き出すためにジェイムズが選び出したのが、あの朦朧態の文体であった。近代小説家は事実を描く。事実を通して真実を描こうとする。ところがジェイムズの描き出そうとする世界は最初は明瞭だと思えた事実が心理的陰影の波動の強弱に解消していく物語である。通常ジェイムズの意識の流れと云う手法は、事実を成立させようとする根拠を求めようとする文学であり、史実が成立しようとする手前の未決定の意識を描く文学なのである。その為にジェイムズが用いたのが、心理の襞や両面を綿綿とうねりくねりしつつ舐めるような湿度の高い文体である。小説の主調音は朦朧態の文体であると言ってもいいのだが、朦朧態の文体と語りの間に最小限度の会話態の、通常の三人称客観法とでもいえそうな描写が挟まれ辛うじて読者に物語の進行、その理解を助ける。しかしヨーロッパの上流階級の世界とは、ちょうど源氏物語の世界のようにあからさまに聞いてはならない世界なのであり、威厳には敬意を持って応えると云うのが慣習法、不文律なのであるのだから、ずけずけと問答しているようにみえても何一つ明らかにはならないのである。

 さて、そんなに意識を捏ねまわさなくても我々が生きている現実と云うものはもっと単純なものではなかったか、と思う読者もいるのかもしれない。あるいは上流階級に生まれなくて心底良かったと思われる読者もおられるかもしれない。結果的にはそうだろう。鶏が先か卵が先かと云う議題に似てくるけれども、通常われわれが現実と云う場合の日常的恒常性とはわれわれが生まれおちる前からあったのだから最初からあったと思いがちだが、実は氷山の一角のように一旦ものごとが上手くいっていると思われる間は水のように透明で空気のように気にならないのだが、いったん日常性の歯車が狂い始めたところではそうとも言えないのである。確かに思い返してみれば、人生にはジェイムズの世界のようなものがある。それは日常性の異常と云ってもいいし日常の中に潜む異常、二重化された現実と云ってもいい。ジェイムズの文学的世界を自分自身の現実と似ていないと断言するものは、多分人生経験が足らないのである。

 日常性の恒常的普遍性を疑っても見ないと云う生活態度は目立って立派で高貴な態度であると云えるのだが、その人は幸せなのである。われわれは日常生活の人間関係や利害得失を複雑だと嘆くけれども、そうした日常的恒常性を前提とした喜怒哀楽、性格、信条、誠実であるべき道徳心のあれこれなどの生活態度は無前提に成り立っているわけではなく、まことに頼りないこの世と云う儚い約束事の上に成り立っているのである。法律によって規制されているわけでも強請されているわけでもないのであるから、ある日日常と云う編み物にほころびが生じる。そこでは複雑と思われた人間的関係や諸価値がいとも簡単な単純性の中に解消される。単純なことが善いとは限らないのである。そこには機微、人間的な躊躇いや躊躇と云った実は最も人間が人間である由縁をなしていた曖昧さを入れる余地がない。そこは真空のように人が住めないのである。
 
 長々と書いてきたが実はヘンリー・ジェイムズが描こうとしたのも日常の中にある不条理である。あるいは日常ななかにある異常と云ってもいい。ジェイムズの文学に劇的事件が少なく、際立った悪人が出てこないと云うのはよく言われている評価である。確かにいっけんしたところ悪人に該当する人物は一人もいない。目的-手段型の悪役が一人もいないのである。しかし悪が描かれなかったかと云うと必ずしもそうとは言えない。ジェイムズに『鳩の翼』と云う作品があるが、ストリンガム夫人と云うニューイングランド生まれの清教徒らしい人物が出てくる。利害損得の渦巻くイギリス上流社交異界の中で唯一純粋無垢のわれらがヒロインミリー・シールを守護し保護すべき立場にあるのだが、彼女の厳格な道徳観は悪に手向かうjには余りにも非力であったと云うべきなのである。しかし嘆くばかりでは済まないのでこの年配の手弱女は健気にも運命に立ち向かっていこうとするのだが廻りを見出したとき何一つ彼女を励ますようなものが見当たらないのである。薄命の美女ででもあるのならば白馬の騎士も現れそうなのだが十人並みの器量に堅物ときているのだから男性の同情を買うこともできない。元来ひとの悪口を云うことのできない彼女はそれを漏らすことすらでず一人心に秘めて事態に対峙するほかはない。あらゆる見方も信頼性をも欠いたところでたったひとりであると云う孤独、フランツ・カフカとともに現代文学が描いた最も荒涼とした風景の一つと考えて良い。

 ここまで書いてきてこの風景に読者は何か思い当たらないだろうか。例えば胸に手を当てて人生に一つや二つ決定的に人間的な信頼を裏切られたと云う経験はないだろうか。あるいは自らが裏切った方に加担したことはないだろうか。そうした人間が巻き込まれた風景にどこか似ているのである。もちろんそうした風景を感受する感性があるのならば、と云う条件が付くのだが。
 あるいは統合失調症と云う病気がある。わたしが云うのは遺伝的なものや器質が生みだす病ではなく人間関係が全体として生み出す病と云う意味で正確には統合失調症症候群と言ってもいい。わが国の優れた臨床医・木村敏が明らかにしたように統合失調症とは日常性の病である。失調と云うと明瞭さとか明晰さとか何事かが失われるような語感があるが、そうではなく日常生活の微妙な語感や感触といった前五感的な感覚的認知が失われるのである。1+1が支離滅裂に3や0になるのではなく、1+1が何時も”2”でしかない世界が現れるのである。失われているのは明晰さや論理的帰結に従ってものを考えると云う仕方ではない。正確さが正確さでしかない世界である。日常生活に表情を与えるもの、明晰さや明瞭さ、そこにものがしっかりとある感じ、実在感の背景をなすもの、そうした先-言語的な日所些事の一齣の詳細の一つ一つが妥当に感じられる以前の、気配、躊躇(ためらい)、躊躇(ちゅうちょ)、そうしたファジーなものの一切が失われるのである。
 つまり、事象や事実が成立する手前の陽炎のような心理的なたゆたいを描いたジェイムズの意識の流れの世界とは、人間が人間であることが確かめられる、そこでしか人間が人間ではあり得ない、最も人間的な世界だったのである。