アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヘンリー・ジェイムズのリアリズム論(2013/5) アリアドネの部屋アーカイブスより

ヘンリー・ジェイムズのリアリズム論(2013/5) アリアドネの部屋アーカイブより
2019-08-26 16:21:52
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505537544.html
ヘンリー・ジェイムズのリアリズム論
2013-05-24 11:42:58
テーマ: 文学と思想

ヘンリー・ジェイムズのリアリズムが通常の方法とは異なっていると云う点について先に言及した。近代小説は言うに及ばず文学が成立するための最小の条件、唯一の条件とも言い換えて云い、作品の背後には作者がいなければならない、固有の音調で語る確かさを持った固有の語りで・・・・・という前提が、小説を読み進むうちで半ば前ほどで怪しくなると云うのが彼の文学の特徴である。

 ここから云えるのはジェイムズが嘘をついたり予め責任逃れの予備工作をしていると云う意味ではない。ジェイムズもまた、わたしたちが日常生活で経験するように、取りあえずは当てにならない初対面の印象を大事にするのであり、利害関係にある関係者だけでなくその反対の位置にある”第三者”の意見をも参照しながら、次第次第に事件や事象と呼ばれるものの朧げなる画像を紡ぎあげていくのである。

 ここから単純に云えるのはヘンリー・ジェイムズの文学は多義性の文学であると云う結論である。つまり様々な解釈が可能である、というのである。しかし文化的多元論とジェイムズ流の多元的不可知論とは本質的に異なる。多元論とか解釈における多義性とは、真理と云うものがあって、それがわれわれの認識能力を超えたものであるのか否かは別としても、わたしたちの見方が様々な条件の制約下にあるために偏った解釈しか成しえない、あるいは真理は一度一挙に全体的に把握することは不可能なので、部分的認識に甘んじるが、あるいは部分的認識の複合的集合として集成することで真理らしさに無限級数的に、”量的に”接近することも可能かもしれないなどとと考えたりするのである。

 ジェイムズの文学における多義性なり不可知論は上記の良くある言説とは余程異なっている。真理と云うものはないのである。作者は嘘つきなのである。そこまで悪ざまに言わなくても、作者が描かれた小説的世界の登場人物の世界観なり人生観、そこから帰結する個々の具体的行動における解釈や観方に影響を受けていることは明らかなのである。ジェイムズの文体が読みにくいのは、意図して書かれた朦朧態もどきの息の長いうねるような文体のせいもあるのだが、一つには作者が語っているのか登場人物が語っているのかの区別、あるいは登場人物の思ったこと、観念的な連想を語り手が語っているのか不明瞭である、と云う点にもあるだろう。そこからは読み方によって様々な読み方が成立するのだが、そこから読者にとって最も好ましい解釈を選択して良いのだとか、様々な複数の読み方を可能にするところが融通無碍のジェイムズの器量の大きさを示すものであって、そこに文学の偉大さがあると云うようなしたり顔の教訓を付けくわえる所謂文学の玄人の方々もいらっしゃるのだが、読み方としては間違いなのである。

 ジェイムズの文学には真理と云うものもなければ事実と云うものもない。現実とは昔の写実主義の作家が考えるように、われわれがこの世に生を受けた時から予めセットされたようにあるのではなく、それは言語や文化や慣習と云った先‐言語的な行為に囲繞されたわれわれが共同主観的な行為として、その都度、必要に応じて紡ぎあげ染め上げる行為に他ならない。一本一本の縦糸横糸はあり得ても、恒常性と云う意味での現実と云うようなものはないのである。あると思うとするならば、ちょうど約束事の世界で何度も何百回も繰り返しているとそれが現実性を帯びたものとして感じられ、虚構と実在の区別が利きにくくなる事情と幾分かは似ている。もちろん人生とは約束事の集成だといってもゲームと同じなのではない。手続きは同じでも現実が厳粛なものであると感じる感受性はものごとを論じる場合に最低限度の条件としては必要だろう。
 ヘンリー・ジェイムズの文学とは云わば現実や事象を形成する手前の、縦糸や横糸の描き模様の未決の様々な様態を描く文学だったのである。予め真理なるものが確固としててあり、それがわれわれを取り巻く偶然的なあるいは必然的な条件ゆえに様々な解釈が可能だと感じられるところに多元論なり相対論が出現する。ジェイムズの不可知論がこれらと異なるのは、予め”本当はどうであったか”と云う場合の”本当”が不在なのである。現実が形成される一歩手前の未決の、様々な多様な勘労性を描きながら、そのどれか一つがたまたまと云うか或いはそのれ持つ宿命的な必然性ゆえに、地上界と云う現実的世界に浮上し、”現実”と云う名を僭称するようになるのである。
 分かりやすい言い方をすれば、通常のリアリズムは”現実を出発点として”ある。ジェイムズの文学は、”現実”が成立しようとするその現場を現成するがままを描く。現実とは描かれるべき対象などではなく、人間の行為が関わり紡ぎあげる芸術作品の如きものである。ジェイムズの多元的不可知論とは、ああでもこうでも解釈できると云う野次馬のような相対論や多元論の世界とは無縁である。