アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ある婦人の肖像』――ジェイムズの優しさ(下)(2013/6) アリアドネの部屋アーカイブスより

『ある婦人の肖像』――ジェイムズの優しさ(下)(2013/6) アリアドネの部屋アーカイブより
2019-08-26 16:17:21
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505537559.html
『ある婦人の肖像』――ジェイムズの優しさ(下)
2013-06-01 12:32:29
テーマ: 文学と思想

 若い資産付きの魅力的な女性をまたとない好機と心得る中年の二人の男女の不純な動機、こうした見え透いたジェイムズの何時もながらの極端でもあれば不自然なドラマ設定が、どうして読者に対して説得力を持つのか。ここで初めて小説の最初の頃にジェイムズが序でのように書いたイザベルの幼児経験が生かされてくる。つまりイザベルのような女性においては、世俗的な成功などは評価の基準にならないのである。それは不遇のうちに死んだと云われる父親の面影が影響しているのかもしれない。少々商才に欠いただけと云う所詮は三流の実業家を持つ娘の思い出が、いつの間にか清貧と高雅の理想となってオズモンドの中に二重写しされた残像として甦っていたと云うことはないだろうか。二人の結婚に反対する、様々の不自然さの理由の一々が、逆にイザベルの中でこれ以上ない地上性を超えた有力な理由として浮上する逆説はこのように説明されるのである。彼女の思い出の中で不遇であった父親の残像が聖化されれば聖化されるほど彼女の内面では説得性を獲得するのである。

 先走って云うならば、物語の最後の部分で、イザベルが一切の安穏さの理由を去ってローマの現実に戻るのは、義務感であるよりも、ローマの似非社交界に幽閉されたような身よりのない、孤立無援のデイジーに、自分自身の少女時代を投影していたからにほかならない。彼女の誤った結婚と、それが齎した一連のドラマは結局、彼女自身の自叙伝を浄化すると云う隠された動機が潜んでいたことになる。かかる不可視の動機を納得してこそ、ジェイムズが仕組んだ不自然極まりないドラマの設定も納得されてくるのである。ヘンリー・ジェイムズの偉大なる発見の一つは、人は経済的な理由のみでは動かないと云う点を極めて特徴的に捉えてロマネスクの世界を築き得た点である。

 結果的に結婚生活の実際は、皆が言うとおりであった。ギルバード・オズモンドとは口では清貧廉直のようなことを云うが、人を物のように、つまり古美術のようにしか評価できない美術愛好家的姿勢が卓越したディレッタントの一人にすぎない。彼はイザベルとの結婚で得た軍資金を手掛かりに、念願の社交界に上昇することになるのだが、しかも口では上流階級の拝金主義と腐敗を詰りながらも次は、娘のパンジーを婚姻関係を通じて貴族階級に送り込むことで、待望の貴族階級に連なろうとする野心を隠していたのである。

 病に侵されていまは余命いくばくもないラウルは、遺言のようにオズモンドと縁を切ることを願いながら死んでいく。しかし悪事は露見するもので、オズモンドの妹であるジェミニ伯爵夫人は、パンジーとはオズモンドとマダム・マールが昔愛人関係にあった頃の隠された娘であったことをイザベルの前に暴露するのである。
 こうして複雑な幾何学が、一本の補助線で鮮明になるように、曖昧模糊とした世界が一挙に明らかになるのである。

 ここまで証拠が並べられるといくらイザベルが屁理屈を並べようと彼女の結婚が失敗ではなかったなどと云うことは言えないだろう。この女性の最大の欠点は、自らの非を素直に認めない点にある。彼女が人としての品性などと云うことを持ちだしたいのであれば、全ての物事が露見したとき、彼女のまわりの誰ひとりとして、それ見たことかの議論はしなかった点である。彼女の廻りの関係者の方がよっぽど人品的に優れているのである。
 こう書くと何かこの小説は何のとりえもないように思われるのかもしれないが、そうではない、この小説は自由への応援歌なのである。つまり自由を求めて生きた人間の悪意に翻弄される若い女性の挫折の物語は、つまり極端に紋切り型の不自然な主人公と彼女をめぐるシュチエーションの設定は、実は教養小説ふうの物語的世界での自己完結を人生の観照者ジェイムズが望んでいなかったことを語っている。つまりこの世では、小説とは違って、高貴な意図を持った人間は必然的に挫折すると云う作者の冷徹な人間考察の反映なのである。良き意図を持った人間が幾多の苦難の果てに挫折を繰り返し、それでも彼は最後には報奨金のように成果を受けとる、と云う話には付いていけないのである。否、もっと積極的な云い方をすれば、良き意図を持った人間は必ず挫折するのである。その彼が最後はどうなったかは要らぬお節介であって、その高貴な意図だけを取り上げても偉大だ、とジェイムズは言ってくれているのである。

 確かに、わたしもこの歳になって決算期を終えた現況で周囲を見回したとき、幾人かの志を得なかった人間たちを知っている。長い間、わたしは自分もそうであるのに、彼らの失敗を、そのセンチメンタルな言説ゆえに許すことが出来なかった。人は人生に失敗したとき、思いもかけないような高度な言説や論理を展開する。わたしは彼らの見え透いた嘘が、自らを責めず非を容易に他者に転嫁し得ると云う手前勝手さゆえにそれ以上に許し難いと映じた。しかし物事はそんなにリゴリスティックに考えなくても、ジェイムスの云うように、高貴な意図を持ったものは現世では必ず失敗すると云うこと、それはたまたまそうなったと云うのではなく、そうしたものであること、むしろわたしの主張しているような、失敗を梃子として逆風を跳ね返すような美談、克己的な生き方の方が特殊的であるのではないのか、と考えることは、根本的に人生観や世界観を変えてしまうのである。

 ヘンリー・ジェイムズの文学を読むとは、登場人物たちの行動や思想のあれこれを解釈することではない。読みながら、あるいは読み終えて何時もながら感じるジェイムズの、状況や人物設定の不自然さを難じながらも、むしろこうしたロマン的世界の極端化を通じて分かって来るのは、善人は苦労して報われることはないと云う旧約聖書的な事例である。ジェイムズが偉大であるのは、旧約的な事例を超えて、良き意図を持って失敗し、信ずることの過多ゆえにあらゆる企画が無に化し、信条の根本が揺らぎ始めてきた人間に対して、そうした生き方の方がむしろ自然なのであり、ことによれば人間の偉大さを語る証であるのかもしれない、と云ってくれたことである。

 『ある婦人の肖像』の結末は、未決の状態で筆が置かれていると云われている。イザベルは死の間際のラルフの懇願にも関わらず、イギリスでの生活を切り上げ、未決の課題が山積みのローマに帰っていく。
 その理由は明らかではないのか。それは修道院に幽閉されたようにあるパンジーを開放することであるのは明らかなことではないのか。解放と云っても、単に修道院と云う場所から解放するだけではなく、父親と伝統的な価値観に依存的な体質から解放させると云う、一口には言えない長い試行錯誤と忍耐を要求する課題を前提にしている。
 しかしローマで彼女を迎え得るオズモンドとは本当は誰なのか?また、最終章で強引にイザベルから唇を奪うキャスパー・グッドウッドの変容の意味するものは何なのか?また、マダム・マールは本当にアメリカ大陸に去るのことになるのか。様々な変容の意味を残して、キャスパー・グッドウッドに見られる突然の人格の変容は、その暗い不気味な世界の出現は、亡くなったイザベルの父親がおさんない少女の眼に触れさせまいとした世界、つまり暴力と悪の世界との対峙を暗示しているのではないのか。もし彼女を迎い入れるローマの社会が、暴力と不吉な悪を持って罠のように待ちかまえているのだとするならば、イザベルはほとんど素手でどのように立ち向かおうとするのであるのか。そうした暗い予兆の中でこの一人の若い女性をめぐる物語は終わっている。