アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鳩の翼の蔭で アリアドネアーカイブスより

鳩の翼の蔭で
2013-05-16 14:45:50
テーマ:文学と思想

 

 

 


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                                     ブロンズィーノ≪ルクレッツィア・プッチ≫
                                作中、ミリー・シールに似ていると例えられる。
                                ミリーはこの絵画にある種の啓示をうけ、ルネサン                                ス絵画の王女のように豪奢な死を死んでいく。

・ 読書の楽しみは終わりと云うものがなく常に未知なるものの領域に触れると云うことがある。文学作品には固有の主題があり固有の年代にしか理解できない作品と云うのもあるけれども、それが既にふれたヨーロッパ言語の再帰し再現する意味――RE-、に基づくものであるとするならば、芸術作品に賞味期限と云うものはなく、そこにつつきせぬ意味を読みとることが出来る、マルセル・プルーストの固有な言い回しを借りれば読者はそこに自分自身を読みこむのだというように。例えばわたしの場合は『鳩の翼』の意味を理解することは出来なかった。生涯も終わり近くになって、ちょうど主人公のミリー・シールが残された時間をカウントしながら生きたように、その生き方に重ねながら、そんな彼女の気持ちをくみ取りながら、遥か東洋の果てで、遥かな時を隔てて、まるで手つかずの領域に初めて触れれでもするかのように、同時に自分自身の時と真実に、読書の楽しみはふれる。

 映画『鳩の翼』の幕切れは残された二人の愛の儀式でもって終わるが、前途の多難であることをお互いの瞳の中に暗示して終わる。原作にない映画の痛烈な表現は愛の蘇りを必死に願う最後の愛の儀式のさなかに、すまなかったと云うマートンの述懐に対してケイトがそれを自分のことと誤解して肯う場面がある。二人の見た現実の違いをまざまざと描き分ける場面である。もちろんこの場面のイロニーは、例の豪華なヴェロネーゼ風の宮殿を背景にしたジャン・ルイダヴィッド描くところの≪レカミエ夫人の肖像≫を参照した場面と対になっているのだが、この物語を読み終えた者にとっては愛しているとかしないとか、二人が結婚するのかどうか、そんなことはどうでもよくなってくるのである。流石にジェイムズの原作の方はより自覚的であって「しかし彼女は扉の方を向いた。そしてこの時の彼女の横に振った顔が別れだった」とある。

 ピューリタンの伝統を濃厚に残す19世紀待つから初頭を生きたジェイムズにとってアメリカとは何だっただろうか。あの読みにくいわが国の源氏物語を思わせる朦朧態とも云える『鳩の翼』の文章を読みながら、流石にジェイムズにとってのアメリカの意味を考えた。アメリカの現実とは、ジェイムズにとって、例えばヘミングウェイのように一語で名指せるものではない。映画『鳩の翼』がヴェネツィアの運河を横切る星降る夜の波紋を描いたように、現実が現実性を得る前の手前のたゆたいを朦朧態の中に描いた、現実とは必ずしも明瞭ではないのだ。流石に映画の方はジェイムズの朦朧態を描きつくすことはできなかったが、シーンとシーンとの間の極端な省略を断行することによって、つまり根本的に媒体が異なった映像を用いると云うイロニーを別の発想に転換しながら、映画表現が映像詩流れに近づくことによってジェイムズの朦朧態の文体と釣り合うに足るものを見出そうと努めたかの如くである。つまり映像の詩と化すことに寄ってジェイムズが描こうとした等価の現実をスクリーンの上に再現しようとしたのである。

 ジェイムズに取って彼の朦朧態の文体とアメリカの即物主義的な現実とは何の関係もないものだった。アメリカの現実とは、そのピューリタン的な伝統から本質だけを抜き取られて、一方ではものがただあるがままの植民地的現実、他方では驚くほど公明正大でもあれば因循姑息な形式主義的な道徳的な規範だけが残った。現実と自分自身を繋ぐ有意な関係を見出せなかったジェイムズは狂気の世界に追い込まれていく。狂気か、若しくはひと世代前のポーのように独自の幻想的な世界を城壁の屏風のように立てまわして芸術至上主義の孤塁を守るように生きるのか、何れかの道しか残されていなかったのだろう。伝説的なポーの生き方は現代人ジェイムズの必ずしも選び得る道ではなかった。

 こうしてヘンリー・ジェイムズは一方では自らの退路を断ちながらヨーロッパに向かうのだが、ここでも姑息な外交術が跋扈する皮相なヨーロッパの上流階級は彼の意に沿うものではなかった。他方、伝統的なイギリスを離れてあらゆる価値の転倒を目指しつつあった大陸の伝統はどうかと云えば、フランス革命後の倫理なき自然主義実証主義はジェイムズと志を同じくするものではなかった。こうして大陸の新思潮からも押し戻されて、戦略的妥協として仮に踏みとどまったのがロンドンと云うことなのだろう。アメリカにないものを、アメリカからは失われたものをヨーロッパに求めたジェイムズだが、ヨーロッパにもそんなものは最初からありはしなかった。かって人間が礼節と云うものを知っていたころの伝統に対応するジェイムズの朦朧態の文体が、それと釣り合うような現実などこの世のどこにも存在しなかった。アメリカとヨーロッパの差は、平板な現実を虚飾や儀礼に仮託させて粉飾するかいなかの違いに過ぎない。むしろアメリカ的無垢さの中に古代的理想は宿るのではないのか。こうして現実に復帰する如何なる道も閉ざされたジェイムズはお伽噺と云う完結せる物語世界の中に統一的な世界像を結ぼうとするのである。作家ヘンリー・ジェイムスの誕生である。

 失われた人間の全体像とは何だろうか。宇宙開闢以来この世に存在するものを、無機物から有機物をへて最終的な進化の過程のゴールに哺乳類としての人間を仮定するとき、それは本当に進化の最終段階なのか。無機物と有機物の違いは、そこで生命が生じたか否かにある。有機物の世界に於いて植物からアメーバを経て人類に至る諸過程を巨視的に概括するならば、物質的なものと精神的なものとの拮抗関係にある。進化の道筋に添って有機体の歴史は物質的なるものに対して精神的なるものの領域が増大し、最終的には哺乳類の最高段階である人間に於いて両者は等量のものとなる。つまり天地創造時に神が人間を造った意味は人間に於いてこそ、精神的なものと物質的なものとが釣り合っていると云う意味である。つまり人間存在に内在する均衡の論理によって宇宙の釣り合いも保たれているのではないのか。これは創造者である神ですら知られることのない宇宙の秘密であった。神はただ単に最後の審判を下せばよいと云うものではない。宇宙の均衡の秘密を握っている人類の側からの働きかけがなければそもそも神の企画すら成就しないのではないのか。

 ともあれ、こうした形而上学はジェイムズの文学とは当面無関係である。しかし人間を宇宙の均衡の中心に置くとは、ちょうどヤジロベイの左側に無機物から有機態を経て、哺乳類の中に於いては精神的なものと肉体的なものとの配合比に応じて静止する中心点を人間として定義する場合に、ヤジロベイの右側の世界の存在が気にならないだろうか。人類の誕生が宇宙的進化の中間点であるとするならば、残された右半分の空白、沈黙の過半の世界の意味するものは何なのだろうか。それは見えないからと言ってないものではないし、均衡の原理としては可視的な左側の世界を支えているのものである。
 一つの仮定としては、中心点より少し右に寄った世界、つまり精神的なものと肉体的なもののバランスが精神界の方へと卓越した微小の領域とは天才の世界かもしれない。それがもう少し右へ行くとそこは聖者の世界が開けるのかもしれない。そして最終的には両者のバランスが、極限値として肉体的な条件がことごとく失われて精神的なもののみになる、それはキリスト教の世界では天使たちの世界と名付けているようである。そして更にその右側に広がる世界とは、ちょうど左側の世界が原子を経てニューロンの如き非物質的な世界を示すように、暗示と黙示と象徴の世界がひろがる。われわれが現実と呼んでいる世界の両端は理性の光が届かない、その極限は哲学と呼ぶほかはない世界なのである。

 ジェイムズはこの世のこの世性を描くことに飽き足らず、お伽噺と云うい形で右側の世界に踏み込んで描こうとした。目に見えないものを視覚の条件を満たさないがゆえに存在しないと断定することはかえってもう一つの偏見と無知文盲の世界に導くであろう。現代の科学が一種のスコラ的な独断に陥っているのは、唯物論や価値からの自由を主張することによってもうひとつの教条主義に陥ると云うパラドックスにある。レアリズムは目に見えないものの世界については洞察力を持って言外に暗示するか、幻想と云う方法を使わなければ完結しないのである。不可視のものを描く、ジェイムズの朦朧態の文体と映像詩はそのための得られた選択肢である。

 鳩の翼とは何か?わたしには飛翔しようとして果たされなかったイカロスの翼としてのミリー・シールの思いであるように思われる。鳩が翼を閉じるとはjこの作品ではミリーが死んだことの同等の意味で用いられる。翼が閉じられた時マートン・デンジャーが見たものは大きく広がった幻想の翼であった。翼はどんどん追いすがるように広がってやがて物語的世界の全領域を覆ってしまう。『鳩の翼』は遠い遥かな昔の記憶が嗚咽のように甦る輝かしくも哀切な愛の物語であるとともに翼の影に蒼褪めた不気味な作品である。