アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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二通りに読める”ノルウェイの森”――社会事象としての村上春樹・第2夜 2011-12-23 16:36:35

二通りに読める”ノルウェイの森”――社会事象としての村上春樹・第2夜
2011-12-23 16:36:35
テーマ:歴史と文学

 ”ノルウェイの森”は、ベルリンの街に着陸するルフトハンザ航空の機内で聴いたビートルズの同名の曲を思いもかけず聴いて、18年前を回想するという物語です。物語の主人公ワタナベ君は18歳でしたから語りの段階としては37歳と云うことになります。この作の発表年が1987年、村上春樹の生まれが1949年ですから、半ば自画像的な背景は最初から作者によって仕組まれているとも云えるわけです。

 よく云われるのは、黄金の60年代の追憶として読もうと云う読み方ですね。黄金の60年代とは、東京オリンピック、新幹線、ビートルズ日本武道館でのコンサートツアーですね。その時、高校生だったワタナベ君には無二の親友とも云えるツズキ君がいて、彼には ”筒井筒” のような関係の直子と云う幼い恋人がいて、しかも三人で運命共同体のような時代を生きたと云うのですから、漱石の ”こころ”のような、トリュフォーの ”突然炎のごとく” の幼年版のような趣もありますね。そして、家も裕福で学業も優秀で欠けたるもののないかのようなそのツズキ君があっさりと自殺してしまうのです。物語はその一年後東京に上京したワタナベ君が、これも上京して東京の女子大に進んでいた直子と偶然中央線の中で再会し、過去の呪縛にとらわれたじめじめした紆余曲折の果てに直子も自殺してしまう、というお話ですね。ツズキ君や直子が ”黄金の60年代” の象徴であると云うのはお分かりでしょう。人は満ち足りているからこそ自殺するのです。望む何ものも存在しないがゆえの時の至高性ゆえに死を選択すると云うのは、ストア的な立派な生き方です。三人で築きあげた愛であるような友情であるようなこの世のものとは思えない時の経過に対して、ツズキ君はあのファウスト伝説の主人公のように、”時よ止まれ、おまえは美しい!” と云ったのです。ツズキ君の死に不可解な理由などありません。

 しかし本人はそれで良いとしても残された者についてはどうだったのでしょうか。ここまで生き方の純粋さの典型を示されてしまうと、死ぬ以外に生きることの意義、生きることの選択肢の幅が全く閉ざされてしまうのです。それでツズキ君の愛と友情の片割れであるワタナベ君と直子は彼の葬儀を境に、時と所を変えた中央線と云う偶然の移動空間で出会うまでは深い沈黙の底に息を潜めるように生きていたのです。直子の死は、三人が築いた秘儀的な時間、青春と云う名の超越的な時間に奉げられたレクイエムであることは明らかでしょう。直子は、一つの時代の終焉に、まるで 明治時代の乃木希助のように、あるいは ”こころ”の先生のように殉じて死んでいくわけです。
 ”ノルウェイの森” はこうしたノスタルジックな、よくある定型的な恋愛小説として読めます。同時に、”1969年” と云う年号がまるで記号かシグナルのように意識的に繰り返し語られることによって、あの時代世界に吹き荒れた学園紛争とベトナム反戦の時代に対する村上春樹の私的な応答というものを言外に語っているのです。しかも、この場合注意したいのは、意図的に年号がプロパガンダ的に繰り返されることの執拗さと、言外に語られない空白がもたらす、奇妙な不整合性なのです。後段で、もうもう一人のヒロインである緑さんという女子学生によって通俗的な時代論評が語られはするのですが、あの熱かった時代背景が意図的に作者によって云い落される点です。逆に、それだけ村上春樹の拘りは深く執拗であった、とも云えるわけです。少し話が脇にそれてしまいましたね。話しを元に戻しましょう。――

 こうした定型としてのロマンティックな読み方を、例えば竹田青嗣にならって超越のロマンティシズムと名付けておきましょう。”ノルウェイの森”が数多くの読者を獲得した背景はこうした読み方を必須の条件とするのでしょう。あるいは作者・村上春樹が心の一方で望んだ読まれ方でもありました。そしてこれだけのことであるならば、ロマンシリーズにでもあるような少女趣味の物語で終わっていた筈です。村上春樹は、超越のロマンティシズムとして読まれることに対してアンビバレンス、愛憎両価でありました。

 ここに、もう一人のヒロイン緑さんと云う人が登場します。若いに関わらず、かなりな苦労人として設定されています。ワタナベ君を死の誘惑から救う救世主のような役割を負わされているのですが、最終的にはワタナベ君は緑さんの方を選びます。もちろん純粋な理念の人である直子はワタナベ君の私的なあるいは世俗的な動機とは無関係に毅然と超越的な死を選んでしまうのですが、ここで念が入ったことに、駄目押しのようにキズキ君と直子の死が儀式として巫女性を持った女性によって再現されるわけですが、そのグロテスクさはまた別の機会に論じてみようと思います。

 こうして幸か不幸か、ワタナベ君は死の淵から救い出されるわけです。ここのところは講談の ”牡丹灯篭” を思わせる怖さがあります。作者が自覚的に書いていないだけに、よけいに怖く感じるのです。ワタナベ君は、家も一軒家を用意し、長年住み慣れた独身寮も出て、緑さんに初めて愛の告白のようなものをします。それがあの有名なラストシーンに連なる場面なのですね。

 作者はあの60年代の四方ガラス張りの電話ボックスという小道具を、孤独の空間として実に上手く使っています。大事な話がある、いまこそ君が必要だ、なにもかも最初から始めたい等と云うような事まで云うのですね。ここで愛を受け入れてハッピーエンドで終わっても良かったと思います。しかし作者・村上春樹はそれを望みませんでした。長い沈黙があって、緑さんはまるで無関係に、このようなことを遠い受話器の彼方から聞くのですね。

 ”あなた、今どこにいるの?”

 この一言が持つ反響は凄まじいものでした。”僕はどこにいるのだ?”とワタナベ君を通じて村上春樹自身がここでは語ります。37歳の作者の素顔が露呈してしまって、20歳のワタナベ君の白い仮面が衝撃で、こう、ずり落ちてしまうのですね。修羅能における小ぶりの面から額と頤の一部が食み出て薪の鈍い光にほのみえるように、中年の誰とも知れぬ37歳の男の素顔の一部が露呈するのですね。

 ”僕は今どこにいるのだ?”

 ここは疑問符をつけて語るべきではないのです。物語の中でワタナベ君が述べる述懐なら疑問符でいいのです。37歳の素面の男が述べるならば、ここは疑問符なしに、こうでなければなりません。

 ”僕は今どこにいるのだ。僕って、いったい誰なんだ”

 こう云われて初めてワタナベ君は、改めて自分の周囲を見回し、自分自身の孤独の位相のようなものに気付くのです。あなたはどこにいるのというありふれた問いが、ワタナベ君には、あなたは誰なのか?と云う普遍的な問いとして聞こえてしまうのですね。一種の宗教的な回心のようなものがワタナベ君に到来しているのだと考えないわけにはいきません。

 ”僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた。”(”ノルウェイの森”最終段落 より)

 誰にでも好かれるエブリーマンとしてのワタナベ君が初めて自分の実態に気が付く場面です。誰でもあり得るし誰でもありえない無人称としての自分自身について。そしてワタナベ君自身が物語の始めから終りまで、思惟なき空っぽの空洞だった、と云う事について。ちょうど ”羊をめぐる冒険” のなかで主人公が影から置いてきぼりにされるように、ここでは村上春樹自身がワタナベ君から置きされれてしまう場面ですね。 

 村上春樹は、しばしば”ノルウェイの森” 以外の作品においても、底なしの井戸を隠喩として語っています。作者の自意識としては自覚的に語られないことが、物語作者の形象的認識としては、つまり仮構されたフィクションとしては語られ得る、という物語性の不思議さというかイロニーがここにはあります。作者の人間としてのセンスが物語作者には影響を与ええないと云う例証がここにはあります。
 小説 ”ノルウェイの森” の物語としての卓越性は幾つかありますが、その中でも最大のものは、作者によって創造された作中人物が作者その人の世界観なり人生観を乗り越えてしまった点にある、と私は思うのです。