アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”ノルウェイの森”における親和性の構造と病理――社会事象としての村上春樹・第4夜 2011-12-24 10:34:21

ノルウェイの森”における親和性の構造と病理――社会事象としての村上春樹・第4夜
2011-12-24 10:34:21
テーマ:歴史と文学

  ”ノルウェイの森” の冒頭部分で、ベルリンの空港に着陸した飛行機内で聴いたビートルズの”ノルウェイの森” が契機となって18年前の回想に浸る場面でドイツ人のスチュワーデスと二回ほど応答する場面がありますね。この場面を読んで、川端康成の ”伊豆の踊子” における下田の別れの場面を偶然思い出してしまいました。共通点は何もないのです。エブリーマンとしてのワタナベ君が誰にでも好かれる人間として描かれているな、と思ったのです。読み進むうちに、出てくる人物ごとにワタナベ君のことを皆が好きになるので、これは幼稚な青春文学としてのセオリーにしても現代文学としては少々特異な存在ではあるな、と思ったわけです。

 評論家の加藤典洋も ”自閉と鎖国” の中で云っていることですが、大江健三郎中村光男といった一部古式の文壇人をのぞいて 批判的言説の少なさに注意を促しています。加藤には ”ノルウェイの森” と云う小説の魅力の不思議さよりも、文壇を含めた当時の文学界の反応の方によりミステリアスなものを感じて一文をしたためているのです。加藤はこの評論の中で既成文壇の非力という構図を結論として導き出すのですが、文壇の存在に対して回顧的に目を向けると云う意味で、見分ける方向が逆ではないかと思うわけです。

 実は、一般にも他者が存在しない小説と云われ、顕著な親和性の構造を持つ物語空間こそが、村上をめぐる当時の文学界の構図であり、またそれを受容する当時の読書人の心理的な構図でもありました。つまりこの小説の冒頭にある一分節が示す飛行機内の涅槃的とも云える親和性の空間は、1970年代以降に顕著になる、普段の平成市民社会下において親しい、異質なものを許容しない同質化社会の構造の象徴的現れだったのです。いわば作者と読者が心理的相似形によってまるで未熟児のように臍の尾で繋がっているという奇妙な構図がここからは仄見えるのです。

 この物語の前半部分で学生寮の同室の相方として ”突撃隊” という青年が出てまいりますね。さんざん作者と登場人物たちに揶揄され罪のない話のネタを提供するのですが、これは見方を変えれば同質化社会なり同質化共同体が排除されるものの存在を存立の必須の条件とすることは見易い道理と云えるでしょう。揶揄の言説が悪意がないので陰湿ではありませんが、感受性を外に出さず人付き合いにおいて不器用なこの青年は、あの漱石の”三四郎” 以来の、地方から上京して青雲の志を狙う類型のなれの果てでもありました。彼が人と交われないのは貧しいい仕送りの中でやりくりをしていかざるを得ない地方出の青年であるからなのです。ファシストまがいの思考の硬直性を日常生活の隅々においてまで偏執的示すのは、劣等感の中で彼が自分自身を何とか保身する術なのです。自らの責任において行為を選択し自由な決断を下すことからくる責任に堪え得ないのです。彼がどもるのは環境との不全を意味しているのですが、地方出身の青年の一部がそうであったように、様々な理由によって脱落し人知れず姿を消して行くのです。“突撃隊” が人知れず寮室から姿を消したことに気づいたときに示すワタナベ君の冷淡さは、彼が他の登場人物との間に育んだ親密さとは鮮やかな対照をなすと云えるでしょう。

 “突撃隊” は何故排除の対象として描かれるのでしょうか。ワタナベ君と違った異質な存在であるからではありません。同じ地方出身の青年であるからなのです。心理的に同形、相似形の関係にあるからなのです。自分と同質の存在者が真摯に生きようとすれば、真剣であればあるだけそのぎこちなさが第三者の目には滑稽に写るのです。同質の存在者が持つイロニーの仕掛けを村上春樹はここでは十分に対象化しては描き得なかったようです。

 村上の同質化社会の外部性に対する嫌悪は、1969年夏以降の学園封鎖の解除と日常化路線の貫徹の時期に、学園に戻って来た活動家の自己矛盾的な行動に対して容赦なく批判の矛先が向けられます。大学解体を叫んでいたものが講義・講座の学生名簿に名を連ねるのはおかしいのではないかと云うわけです。本当かどうか分からないのですが本人の弁によれば、学生活動家に詰めより首根っこをつかんで活動家と仕送りを続ける郷里の母親の存在まで言及し、白状させたと云うのですね。村上春樹にしては随分過激な行動だったのですね。ここでは問題点は二つです。一つは母なるもの、つまり封建的擬制と遺制に対する村上の嫌悪観です。もう一つはこの安っぽい論理で60年代問題を安々と乗り越え得たと村上が信じ得たことです。この大人げない村上の政治の論理は ”ノルウェイの森” の中では緑さんの言説として紹介されています。問題なのは、誰でも言えるような論理を思想的な総括であったかの如く勘違いしていることです。誰でもあり且つ誰でもないエブリーマンとしての村上春樹の面目躍如と云うところでしょうか。村上は当時のある対談で活動家の矛盾をついて、この種の人間と云うものを信じることが出来なくなったと、さも大発見をしたかのように云うのですね。学生活動家が一方では革命的理念を、他方では小市民的な弱さを持っていたにしても、それを人間的に信用が出来ないとまで云う必要があったのでしょうか。私には当時の政治的冬の季節に向かうファジーな心弱き青年像を村上が創造した登場人物の弱さと同じように理解することが出来ます。何れにせよ、これが60年代問題と云う者に対して彼が下した結論と云う事になっているのです。何と云う単純な状況の乗り越え理論であることでしょうか。

 評論家の加藤典洋村上春樹のデビュー時の事情を回想してこのように書いています。

 ”因みに野間文芸新人賞の選者は、秋山駿、上田三四二大岡信、川村二郎、佐伯彰一と年齢もバックグラウンドも異にする批評家、学者、詩人からなっているが、彼らは全員一致してこの作品(『羊をめぐる冒険」)を推しており、その評は、たとえば、「とにかく面白かった」(秋山駿)、「おもしろく読み終えた」(上田三四二)、『この作者の年齢でなければ咲かすことのできない時分の花が咲いている」(大岡信)、「仕上がりの見事さ」(川村二郎)、「歯切れのいい、颯爽たる語り手」(佐伯彰一)、というようにおおむね好意的である。
 ここに特徴的なのは、むしろこれらの評がなんら川本三郎のような「絶賛」といった積極的評価にもなっていなければ、また逆に積極的否定にもなっていないことだろう。
 僕の眼に奇異に映るのは、これまでのところ「既成文壇内部」の誰一人として、この小説を真正面から否定していないということなのである。(”自閉と鎖国” ――村上春樹羊をめぐる冒険』 より)

 文壇で飯を食っているとどうしても視界がそちらの方向を向くのはやむを得ないとしても、村上春樹の非政治的な小説が、もっと大きな規模において70年代の時代変換期の思潮を主張している、大胆な政治的言説であることを加藤は見落としてます。
 60年代の終わりから70年代の初めにかけての時代とは、大学解体であるとか自己否定であるかの過激で独りよがりの言説に上も下も、文壇も平凡パンチの読者も皆うんざりしていたのです。そしてここに、たまたまと云うべきか、60年への時代葬送を語る ”ノルウェイの森”という名の小説が颯爽と現れたとき、自らの存在の根底を見失い、藁をも掴みかねない自信喪失の国民的状況の中で読書界はこの小説を諸手を挙げて受け入れると云う、はなはだ非文学的な状況を想定することが出来るのです。

 隠された政治的メッセージとともに”ノルウェイの森” が語りの現象として示した空間、親和性という名の内部構造こそ、高度管理社会という名の眼に見えぬ支配構造を支える、単位ユニットとしての親和性社会、親和性共同体の到来と、それを内面から支えるアトム的な個人概念の到来だったのです。他者の存在を欠いた親和性共同体の存立の条件には二つあって、一つは戦前から踏襲されている立身出世のカテゴリーや様々な社会的位階に関する様々のヒエラルキー的求心力である。二つ目は異質なものではなく同質なものをその質的な相似形において境界域に排除すると云ういじめの論理です。いじめの対象はとりあえず誰でもよく、誰でもありえ誰でもないエブリーマンであれば条件は満たされるのです。この特性のなさこの匿名性が各ユニットの構成員の猜疑と関心と求心力という負の政治の力学を生む。阿美寮のメルヘンティックなお話しが連合赤軍の山岳アジトを遠い起源としていると云ったら考えすぎということになるのでしょうか。”ノルウェイの森”という一見ノンポリじみた非政治的小説が故意の云い落としという形で秘匿しているあからさまな政治性について思いをいたしていただきたいのです。どうか見えないのであればしかと想像力を駆使して真実を観ていただきたいのです。村上春樹の小説は小説の内容ではなく形式が、時代整合性という意味での社会構造と奇妙に捻じれ癒着的に一致するという見事な政治小説の見本をみることが出来るのです。

 村上春樹と70年代以降の高度管理社会期における同質性の極まりは云うまでもなく京都北部にあるとされる阿美寮です。この何ものにも干渉されず他を傷つけない愛の共同体が持つ薄気味悪さは、ワタナベ君が直子の手を借りて杜の中でマスターヴェーションをするという宗教儀式めいた場面でしょう。未来のなさという意味で死の天使の誘惑とも云える場面ですが、夢うつつのワタナベ君の枕辺に立った 死のヴィーナスの誕生のアナロジーとしても語られる直子の真夜中の儀式においても繰り返されます。能天気のワタナベ君は決して理解しないのですが、ここで確認されるのは愛の死滅、60年代への別れという儀式なのです。

 阿美寮を廻る場面の象徴性は、古くオルフェウス神話やイザナギイザナミの日本神話における冥界下りを彷彿とさせます。つまり冥界の食を食んだものはこの世に帰ることはできないし、詩人と音楽家は過去を振り返ってはならないのです。塩の柱となったロトの妻のように60年代を振り返ってはならないのです。この“ノルウェイの森” を廻る冥界下りのお話しは、冥界の主ともいうべく皺ばかりを文様のように刻んだ年齢未詳の巫女、雌蜘蛛のように天井に張り付いて白い惑いの糸を吐き散らす奇怪な存在プロセルピーナがいるのですが、この怪異なお話しの始終についてはまた改めて語りたいと思います。