アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”ノルウェイの森”のまとめ――社会事象としての村上春樹・第9夜 2011-12-26 15:56:29

ノルウェイの森”のまとめ――社会事象としての村上春樹・第9夜
2011-12-26 15:56:29
テーマ:歴史と文学

 誰しも中年になれば一つを生涯の神話が欲しくなるところである。とりわけ恋の神話を。この間の事情については、三島由紀夫折口信夫のかこつけてユーモラスに、イロニーに満ちた ”熊野詣” という短編をものにしている。余りの辛辣さゆえに、書いたものが三島であるからさもありなん、というこことで是認されたのである。村上春樹には、この種のイロニーとか、自己を客観視することとは無縁の才能の持ち主であるから、この種の小説を書くことはできない。

 語り手 ”僕” か経験した、ツズキと直子の物語はあまり深刻に受け止めなくても良いのかもしれない。”筒井筒” のような青春の神話的時間を想像することはできるだろう。同時に誰もが現実にはありえないということも知っている。だから小説として読むのである。この小説が筒井筒の遠い昔のお話しとは違うのは、そこに語り手の ”僕” という第三者を介在させ、他の介在を許さぬ排他的な愛の共同性というものを想定した。つまり夏目漱石が ”こころ” で描いたような二組の愛の形をトリアーデの形にダブらせたのである。こうして愛は求心と嫉妬による排力という力学的力動性をもつことになった。つまり愛の強度の高まりが静止した状態においてこそ力のつり合い式から得られる束の間の平衡、移ろいゆく時に抗うものとしての愛の特権性というものを実現したのである。このことは愛の一般論としては次のようなことも意味した。つまり青春とは愛の理想形を求めるものであるから、愛と友情の理念がどちらがより精神的に高いかと問う前に、愛が同時にこの二つを兼ね備えればよいのである。こうして愛と精神とを同時に求める青春時代と云う人生の固有の時期における愛の至高性として、歴史上繰り返し求められ描かれ、かつ生きられた神話性の領域に入り込んで行くのである。

 ツズキと直子と ”僕” の物語が事実あったかとか村上の経験として過去にあったかとかはどうでもよい。誰しもこれが物語であったがゆえに信じるのである。ツズキはなぜ死んだのか。理由は簡単である。移ろいゆく時の観念が恨めしかったのである。生涯の中で一瞬でも、いまここに生きているというこの時間と空間とに切り取られた固有な場所をかけがえのないものと感じるならば、死んでも良いと思わせるものなのである。生の最高の横溢が彼に死をもたらした、と云ってもいいほどである。荒唐無稽などと野暮に考えないで物語の約束だから信じて良いのである。彼の死は、また、次のようにも考えられる。先述の、漱石の ”こころ” でその可能性が一度は吟味されたように、愛と友情とがその至高性において腕比べをするとき、自分自身の存在を無ならしめ、相手に譲るという謙りの選択肢が可能であるならば、理念としては愛の金メダルを獲得することができる、青春の観念の理想主義においては自分自身の輝かせる最もよい解決の手法なのである。

 宗教や哲学と呼ばれるものが元来ロクでもないのは、この種の観念性を植え付けるからである。本人はそれで良いとしても、残されたものは堪らない。ジッドの ”狭き門” と堀辰雄の ”風立ちぬ” は人間の観念性が如何に人の生を蝕んでしまうか、という物語である。残された直子と語り手のその後の生き方を規定する後ろめたさの感情はここに起因する。村上春樹が言外に語らないこととは、直子をめぐる三角関係である。ほしいと云えばいいものを、愛のトリアーデなどの観念性で飾ろうとするからおかしなことになるのだ。ツズキの葬儀を境に合うこともないと思っていた二人が偶然にも遠く郷里を離れた中央線の車中で再会するとき、二人の今後を生きる愛の形もまた、最高の瞬間を生きた愛を追悼する巫女的な女性に奉げるセレナーデであり巧妙なワタナベ君のアリバイの証明でもあった。村上春樹は大変に古風なのである。あるいは文学の興行師・村上春樹が用意したお客様向けのサービスの一種である。

 しかし愛の記憶は如何に至高のものであろうとも時の浸食作用を受ける。モノセックスの愛のトリアーデの時代が終わり、青春後期の性と云う新たな性の問題に直面した時、二人が直面したのが愛と性をどのように一致させるかというこの時代に固有の考え方であった。あるいは愛の放物線と性の放物線を一致させたいと願ったのである。それは自らの存在の自尊を揺るがしかねないような、深刻な信仰に似た問いであった。もともと一致するとは限らないものを、早急な規則と現実の一致を求める時、生きることはその都度観念性によって断罪された。日々が責苦となるのである。こうして直子は一方では過去の余りにも眩しすぎる残照との落差ゆえに、他方では愛の観念性のリゴリズムの中で、死に追い込まれていくのである。

 直子たちが抱いた愛のリゴリズム、愛の観念性は、村上のこの小説がたまたま政治的冬の時代の到来と重なったがために、本人も意図しなかった政治的メッセージと重なった。二人の愛のリゴリズムが、全世界を覆った学生運動の観念的ラディカリズムと重なって感受されたのである。黄金の60年代の記憶を語り、過去に殉じて死んだ直子に奉げるレクイエムとして書かれた ”ノルウェイの森” という小説は、自己否定や造反有理、あるいは大学解体のイデオロギーにうんざりし、過去との決別を図っていた国民的思潮とメディアの要請に一致したのである。ここに大規模な、村上の個人的な意図を越えた国民的大合唱の、仕組まれた作為としてのシステムが発動したのである。文壇と文学は無力であった。言葉は軽かったのである。

 語り手の ”僕” ワタナベ君が如何にして、愛と云う名の自閉的地獄から生還したかについては語ったので省略する。通過儀礼としてのレイコさんが果たした性の巫女としてのおぞましさについても省略する。 ”ノルウェイの森” のクライマックスで演じられる性と再生の儀式は主人公を違った世に再生する。それが緑さんと主人公を隔てるガラスの壁が持つ意味である。あるいはまた、なぜ性描写が必要なのか、この作家は少しも理解していないようもである。ものがあらゆる観念性をはぎ取られたそのものの姿としてザッハリッヒに現象するとともに、それが同時に物神として神秘化されるという19世紀の思想家が語った言説がここではそのまま該当しているのである。古来有名な物象化ということに自覚的でないから余計にやり切れないのである。それを美しい観念性ととして粉飾しようとするとき、頽廃がある。

 小説 ”ノルウェイの森” についてはもうあまり語りたくないので、簡潔にに示す。この小説は色々書いてあるけれども、冒頭のベルリンに着陸する飛行機内の場面と、最後の電話ボックスで緑さんと応答を求める場面に全ての卓越と卑下が表れている。
 主人公の ”僕” は着陸態勢に向かう機内の窓から夜景の様子を眺めながら、”また、ベルリンか”、と呟く。つまり、この旅行なれした主人公は社会的な成功者なのである。そしてたまたま聴いた一極が18年前の記憶を思い出させる。語り手とスチュワーデスとのやり取りからは、”初めから同情と好感を前提とした”(渡部直己) この作家の小説手法の典型的見本を見るかのようである。この37歳の人物は18年前のワタナベ君のその後の姿と云うよりも、永沢さんの後身と考えてもおかしくないほどである。つまり、俗物になり果てたのである。
 そして有名な最後の場面なのであるが、ハッピーエンドにしないところにこの小説の卓越はあった。常に自分自身を偽ってとうか、中心をずらして生きてきたワタナベ君が初めて愛を語る場面である。いまこそ君が必要なんだ、とまで言う。しかし長い沈黙があって相手はそれには応えずに、”あなたは、いまどこにいるの?” とだけ尋ねてくる。ありふれた日常的な挨拶のごとき問いかけが、エブリーマンとしてのワタナベ君には、”あなたは、誰なの?” と聞こえてしまう。これは宗教的回心とでも云って良いものが生じているのである。日常的な挨拶が哲学的問いに聴こえたときに彼自身の変化が生じていると考えるべきだろう。しかしその時はその意味をを意識的には捉える事が出来ずに、18年も経って偶然の連想から、初めて自分自身の空っぽさの由来について、自閉というも愚かな中身のない空洞であった自分自身に気づく、という次第がここにはある。
 ワタナベ君は、まるで純真な子供のように緑さんを呼び続ける。四方を閉ざされた電話ボックスと云う60年代の懐かしい風景の中で、その声はどこにも届くことはない。そんな過去の思い出を、18年後の ”僕” が思いだすというところで、つまり記録フィルムがちょん切れるように、不意の切断という形でこの物語は終わる。つまり18年間無駄に空費したというお話なのである。 ”あなたは誰なの?” という問いかけの形でワタナベ君に訪れた問いは、同時に作者その人の現在が問われる問いでもあった筈である。実存の核心に迫る重要なドラマは作者の閾値の外側で演じられるという構図がある。小説のエンディングが持つイロニーに作者本人は気づいていない。