アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11-03 10:35:49

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの
2012-11-03 10:35:49
テーマ:文学と思想

 村上春樹に『蛍』と云う短編がある。あらすじは長編『ノルウェイの森』の前半そのままで、学生寮の生活の描写、そして中央線の中で直子と再会し、四谷から飯田橋へのお濠端を歩くところの描写が続き、『ノルウェイの森』にそのまま採録されている。違うのは、寮の同室者から貰った瓶に入った蛍を屋上を逃がして、闇の中にか弱く点滅する光を纏綿と余情豊かに描いた点だろうか。つまり、『ノルウェイの森』との異同は別にしても、村上春樹は書こうと思えば伝統的な日本の小説の文体でも書けたと云う事を語っている。

 一読して『蛍』の散文としての完成度の高さに注目してしまった。長らく村上のことを素人っぽい作風の作家だなと思いこんでいたので、余計にそう感じたのかもしれない。村上によれば、発表誌が中央公論であったので多少意識したのだと云う。

 『ノルウェイの森』との違いは、どう云えばいいのか、作者の目線の違いと云えるだろうか。『ノルウェイの森』では唐突に前半で姿を消す、寮の同室者――”突撃隊”と綽名され、さんざん酒場の馬鹿話の中で揶揄される対象が、かなり丁寧に描きこまれている。書かれている事象や出来事は同じなのに、描く作者の目線が何とも温かいのである。酒の肴にもならない『ノルウェイの森』の突き放した描き方ではない。

 自分の生き方を人生の早い時期に一途に定め、規則正しい生活、きちんと整えられた部屋、つまりモラトリアム期と云うものに無関心な青年像は確かにあの時代に於いても、後の村上ワールドの青年たちと同居していた、古いタイプの青年群像である。彼が身に付けたリゴリズムなり形式主義は、変貌を遂げつつあった定めなき時代に対する不全感の現れに過ぎない。それは近代以降の日本の社会が持つ二重構造が齎した都市と農村の関係、田舎から出てきた青年の不適応観とも云っていい。彼が生涯を奉げたいと望んだ領域が地理学であったことを、人生と云う名の地図に向き合う不器用さと対照すると何ともイロニカルものがある。

 この人物の人間描写を読みながら私は『中国行きのスロウ・ボート』や『貧乏な叔母さんの話』を思いだした。特に『中国の・・・』で描かれた、ふとアルバイトで知り合った中国系の女子大生とのささやかなダンスパーティと山手線の循環をペーソス溢れる場面を忘れることが出来ない。
 中国人の少女は、義理でダンスパーティに誘ってくれたのだと信じている。語り手は結構自分では充実した一日だと思っていたのに、在日と云う環境に長年晒された少女の気持ちとのちぐはぐさが、何とも悲しい。クライマックスは山手線の外回りと内周りに分かれて、少女を反対方向の電車に乗せてしまって慌てる場面である。語り手は責任を感じて、山手線が一周して来るのをプラットフォームで待つ。再会した時のばつの悪さ。少女は日本人の善意を信じながら、半ば仕組まれた悪戯ではなかったかと云う疑念を払拭することが出来ない。

 少女はこの小説の中でどのように紹介されていたか。
”彼女はとても熱心に働いた。僕もそれにつられて熱心に働いたが、彼女の働きぶりを横で見ていると、僕の熱心さと彼女の熱心さは根本的に質の違うものであるような気がした。・・・・・彼女の熱心さはもう少し人間存在の根元に近い種類のものであるように見えた。うまく説明できないけれども、彼女の熱心さには、彼女のまわりのあらゆる日常性がその熱心さによって辛うじてひとつにくくられる支えられているのではないかといったような奇妙な切迫感があった。”

 彼女の熱心さ描写するくだり、「彼女」を「彼」に代えれば、そのまま『ノルウェイの森』の”突撃隊”に奇妙に該当する。彼らが感じる不全感は、在日であるからでも田舎者であるからでもなく、変貌を遂げつつあった日本社会の変動の波間で浮き沈みを繰り返していた、もう一つの60年代の青春なのである。後年の村上のホップでリッチな雰囲気が置き去りにしたものがここにある。もちろん、その極限には神戸の病床で一度でいいから自分の足で立って潮風を嗅ぎたい、そうすれば自分を取り巻く積年の謎も解けるかもしれないと夢想する、ラジオ深夜番組の少女もいる。初期の村上春樹がであった原風景は、そうした夥しい小さき者の死なのであった。物理的に死ぬ事だけが何も死なのではない。

 短編『蛍』の主人公は、”突撃隊”である。
 『ノルウェイの森』では、何時の間にか小説の中から姿を消し、回顧されることもない。あれほど酒の肴にもならない話の種としてしばしば憂さ晴らしの対象程度の認識として人気があったのに、痕跡として彼は如何なる記憶も村上春樹の脳裏に残さないのである。
 変貌する戦後の社会の波間に消えた、小さき者の死の典型を彼の中に私は見る。小さきものの命の命運に無関心ではいられない、後に功成り名を遂げた村上春樹が見失ったものとしての人間らしい人としての視線を感じる。
 一方、短編『蛍』の中では、体調を崩した”突撃隊”を語り手は手厚く介抱する。”突撃隊”は語り手に恋人がいるのを知っているので、恋人へのプレゼント用として、庭園で捕まえた蛍を語り手に送る。しかし、恒例になっていた土曜日には空しく寮の待合室で電話を待つだけの語り手には送るべき相手はもはやない。そこで寮の屋上から放してやった蛍の弱弱しく点滅する様を闇間にじっと凝視するほかになかったのである。
 村上春樹は”突撃隊”を自身と同じ目線で描いている。親しいと云う訳ではないけれども、人生のかりそめに出会った独身寮の同室者、”突撃隊”を描くエピソードは、『蛍』と『ノルウェイの森』では事実のレベルとしては何も違わないのに、私たちはそこに作家村上春樹の、イロニーとしての「成熟と喪失」、の物語を読むことが出来るのである。

 『蛍』は、”突撃隊”が退寮するところまでは描かれていない。