アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヘンリー・ジェイムズの文学を読む歓び・『大使たち』について(2013/5 ) 2019-08-26 16:06:24

ヘンリー・ジェイムズの文学を読む歓び・『大使たち』について(2013/5 )
2019-08-26 16:06:24
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505537540.html
ヘンリー・ジェイムズの文学を読む歓び・『大使たち』について
2013-05-21 00:54:11
テーマ: 文学と思想


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・ 『大使たち』を読むとまた世界が広がると云う気がする。最近相次いで読んだ『鳩の翼と』と『大使たち』、小津映画の二大傑作『麦秋』と『東京物語』の、同一時期の一作家における鮮やかな対比を根拠なく思い出していた。『鳩の翼』のこの世を超えた超越的な神話的世界のめくるめくような顕現、『大使たち』の老年期を迎えつつある男のモノトーンの哀愁、優劣を論じるよりもほぼ同一の時期に、全く対照的な作品を書いたと云う作家の多様性と云うか才能の多義性に興味が注がれる。舞台は前者が幻想の海上都市ヴェネツィア、後者が魅惑と誘惑の大都市パリである、しかも四輪馬車の車輪の音が石畳に響く世紀末の、正確に云えばベルエポックのセピア色にくすんだ華麗なパリなのである。

 『鳩の翼』はミリー・シールと云う大富豪の病身の娘とニューイングランド生まれの付添人と、世間知らずの二人を待ちかまえるロンドンの上流社交界と云う名のゴロツキどもの”獲物の分け前”をめぐる物語である。主人公を取り巻くのは悪意の人達と言っていい。『大使たち』は、富豪の一人息子をパリの遊学の旅に出したのだがなかなか帰ってこないので、きっと悪い女に捕まったのではないかと云う郷里の社長夫人の命を受けて主人公が引き戻す為にパリに入るのだが、そこで出会った富豪の息子は素晴らしい青年に成長しており、彼をめぐるパリの社交界の人々も、田舎者の勘繰りを赤面させるほどの素晴らしさで、それを文化の違いとは意識せずに聖なる勘違いをしてしまう男の話である。つまり悪意の人物と呼べるも程のものは登場せず、誤解や聖なる勘違いはアメリカとヨーロッパの文化の差なのである、と云うことが読み終われば分かる仕組みになっている。

 『ねじの回転』・『鳩の翼』によって語り手であるヘンリー・ジェイムズは嘘つきであること、信憑性において信用できない作家であると云うことが予め分かっているので、今回は”適当に”読めた。主人公のストレザーは55歳、企業の上級役員のようであるが、『鳩の翼』のミリーのような、完全に生きられることのなかった生と云う、喪失感を抱いている。大西洋を遥々渡航してきて上陸したチェスターの町で、旅の施設ガイドのようなマライア・ゴストリーとの間の軽妙な初対面の会話でもバルザック等がさり気なく言及されているように、戦前の日本にもいた文学趣味の企業人なのである。それは彼の衒学趣味を云いたい為ではなくて、文学を語ることが出来る人間は人として信用できると云う彼の古風な信念を云い現わすために、つまりこの後彼が示す、相手が高貴な性格だと思い込んだら過剰な信頼をドラマの内外に繰り広げてしまう、お人好しの人物設定の条件として描かれている。その彼が演ずるドタバタ劇だと言ってよい。

 彼は”大使”として、放蕩生活に明け暮れているらしい跡取り息子を連れ帰るためにパリに到着するのだが、彼を迎えたのは世紀末のパリの豪華な社交界である。彼は東西の文化の格差を思いっきり見せつけられ、伝統的な文化の華麗さに幻惑されて自らの文化的後進性を意識こそすれ、ただ単に文化が高尚であると云うだけの理由で降参してしまい本来の役割を忘れてしまうのである。もちろんこう書くと簡単なようだが、実際にジェイムズの文章を読むと彼の勘違いが実は聖なる勘違なのであって、現実性を疑わしめるほどの輝きを持っていることが理解させるのである。この辺は流石ジェイムズと思わしめる叡智的輝きを秘めた文体であり、その魅力は最終的には真実などどうでも良いのではないかと思わせるのどの巧みさなのである。
 ストレザーが正しく任務を追行しえないと知った寡婦の社長夫人は、いたく失望し腹心の長女夫婦と義理の娘の三人を差し向ける(影の主人公たるニューサム夫人が伝聞のみで一度も登場しないと云う設定も優れている)。義理の娘は花嫁候補でもある。そしてあろうことかこの第二陣の”大使たち”を迎えても、彼はかえってパリ社交界の”悪人たち”の方を擁護してしまうのである。
 こうして彼はお役に添うことが出来ないので本国の人たちによって、早く云えば”首”になってしまいそうなのであるが、最後には彼があれほど畏敬と敬愛を払ってきたパリの上流社交界に集う人たちも彼が創造したような志の高い人たちではなく、彼の独り相撲の如きものであったと云う苦いお話なのである。
 しかしジェイムズが提起しているのは、真実と聖なる勘違いはどちらがリアティティがあるか、と云う問いなのである。特に今までに女性経験が豊富だったとは云えない主人公ストレザーは、策略がらみの女性の親切が骨身にしみるほど応えてしまう。ノートルダム大聖堂の暗がりで本作の最も魅力的な女性像ヴィオネ伯爵夫人を殆ど聖女に近い領域にまで引き上げて崇拝しその後セーヌ川を見下ろす高級レストランに彼女を招待させる場面は、風采の上がらないストレザーの鼻の下の長さを計りたいほど滑稽で致命的である。こうした彼の勘違いは至る所に欲しいままの恣意的な幻想やら妄想を生んで、とりわけ女性を見る彼の眼と青年たちに注がれる愛において際立って顕著である。後者について云えば家庭生活の挫折と息子の早世を自らの過失のように考えてきたこれまでの彼の生き方が影響しているのである。もしあの時息子が死なずに生きていたらと云う思いが彼の現実を見る目を歪めてしまうのである。ヘンリー・ジェイムズの偉大さはこれを滑稽なリアリズム小説としては描かずに、聖なる勘違いとして描くところに特徴がある。

 結果としてジェイムズが描き出しているのは、固有な価値観に染まった人間の窮屈な生き方である。ジェイムズの面白いところは偏見からの自由を、古い伝統や規範に拘束させることの最も少ないと考えられるアメリカではなく、ヨーロッパ大陸の最も古い伝統を残しているかに見える貴族社会やブルジョワ階級において、世俗からの自由を見出した点であろう。
 愛は幻想であるのか認識であるのか。意見が分かれるところではあろうが、ジェイムズの聖なる勘違いが顕著に現れる場面は恋愛や愛を描いた場面である。今日の自由恋愛や一夫一妻性の基礎となっているものがアメリカ的家族像、ピューリタニズムの伝統が基になるていることは案外意識されていない。しかしそのような近代的な精神が規範や道徳律と化したとき、それは人間から生き生きした感性を奪い文字通り面白くもおかしくもない型どおりの人間たちを生んでしまうだろう。型どおりの人間とは自分たちが固有でありお互いに個性的であることを競おうとするところに、競いえると信じるところに真の虚しさと可笑しさがる。むしろヨーロッパの貴族階級幾つものマイナス要因を差し引いても、子供の養育は乳母がするものであったから恋愛と家庭像は別々に発達してきた。しかも近代の唯物主義的な傾向は目に見えないものの領域を否定するだけでなく無いものとしてしまうのであるから始末が悪い。しかも古来より愛こそは目に見えないものを見る能力ではなかったのか。ジェイムズの焦点が結べるようで結べない半現実的な映像の背後に様々な不可視の映像を不可思議の人間群像を、神話的な映像や超越性を重ねて描き出す手法こそは失われた人間の全体像の復元の試みなのである。

 最後に『大使たち』の感想を一つ二つ。便宜上現行の岩波版に従って前後巻に分けるならば、主人公ストレザーの同じ聖なる錯覚を描いても、後半の複雑な人間模様を描いた場面よりも前半の方がよい。特にイギリスに上陸したばかりの主人公が右も左も分からずいつの間にか案内役のマライアに連れられて灰色の聖堂と古い城壁を持つイングランドの地方都市チェスターを案内される場面はよい。何となく人生を生き尽くすことはなかったと云う悲哀と喪失感を持っている、つまり自分の人生が他人事のようで一度も主人公になったことがないと思っている老齢期を迎えつつある主人公に対して何と彼女は、そういう生き方でしかあり得なかっただろうし、そんな彼が素敵だ、と言ってくれるのである。後半では意図的にドラマの進行から身を引いて行くマライアに代わってリトル・ビラムが同様の役割を果たす。共通しているのは主人公に取って頼りになる案内役として期待されているのに、肝心なところになると沈黙するか姿を消してしまうのである。これが結果的にはストレザーの聖なる錯覚を助長させてしまうのだが、後に人の長所を述べるのには雄弁でも悪口を云うのは好まない二人の謙譲としての性格が明らかにされるのではあるが。
 それからこの書の魅力を語るには前後二つのクライマックス、ノートルダム大聖堂ヴィオネ伯爵夫人と運命的な再開を果たす場面と、ヨーロッパ滞在の全貌が明らかになり失意のストレザーが一日パリの郊外にフランスの田舎を求めて彷徨う場面がある。前者の魅力については既に書いた。後者については若いころストレザーが親しんだ印象派風の絵画を思わせる。実際にフランスの田舎町と田園を彷徨う主人公は田園の感動を常に額縁入りの絵として鑑賞するのである。ちょうどパリでの人間関係が言外のストレザーの文学的装置によって鑑賞されたように。まるでルノアールの描く水辺の風景のように、蛇行するセーヌ川と田舎食堂のテラス、そこから見られた風景にストレザーは感動するのだが何かが足らないと思う。つまり典型としての何かが。そしてあろうことかそこに小舟に乗ったヴィオネ伯爵夫人とパリの放蕩息子の二人が”絵の中に”出現するのである。フランスの田園風景は印象派風の絵画として、つまり豪華な額縁の中で神話的とでも云える完成形を見せるとともに、清らかな関係であった筈の二人の寄せたストレザーの信頼もまた大きく裏切られるのであるのである。この場面が哀切なのは、印象派風の画業を完成させる画龍点睛とも云うべく、点景の主要人物の書き込みがストレザーの失われた青春の回顧的象徴的出現であるとともに、ヨーロッパに夢を求めたロマンチストのストレザーの人生と云う舞台の終わりを同時に意味しているからである。己が青春に意味を芸術的行為として現実の中に恣意的に読みこもうとしたストレザーの生涯最後の象徴的な試みはかくして壮大な失敗談として完結するのである。しかし単なる失敗談と異なるのは、それが事前に改めて予感されていた失敗談、あるいは裏切られることを承知で舞台に掛けられた象徴的行為であったことだろう。ストレザーの数カ月のヨーロッパ滞在とは、この時期ほど彼自身の長い生涯において純粋であったことはなく、彼が最終的に登場人物たちを憎み切れないのは、利己的利他的の違いはあっても彼らの生き方をとおして自らを幾度も幾度も生き直し反芻していた再現的な行為にあったのである。芸術的行為は現実の世界には何ものも生み出さないことがあるが、人を豊かにするのである。そう云う意味では音楽の世界でバッハが果たしたような役割、つまり贈り物としての音楽、贈り物としての人生と云う意味で、ヘンリー・ジェイムズを読むと云う体験はこれ以上にない人生への贈り物なのである。

 ヘンリー・ジェイムズのような偉大な作家に出会うと、もはや死語と化した感がある人間の叡智的行為と云う言葉が五月の若葉のように俄かに瑞々しさを取り戻すのを感じる。偉大な芸術作品とは、ちょうど愛がそうであるように人をして謙(へりくだ)らせ、謙虚にする。愛とは不可視のものを見る行為なのであるから第一に想像力なのでありクリエイトする力を有するがゆえに創造力なのである。愛にはまた必然的に自己反省の能力が伴うから認識と洞察力の問題である。また愛は愛する対象に謙(へりくだ)りとしての愛なのであるから、行為に関わる問題なのである。ある程度の生涯の見極めを立てながら、ヘンリー・ジェイムズの文学は実際には老齢期に入ろうとするわたしの女性観を根元のところで一変させてしまった。ヘンリー・ジェイムズの文学はちょうど批判期以前のカントがルソーの文学に人間の尊厳を学んだようにわたしに女性なるものへの敬意と云うものを教える。もし英語圏に比肩する作家を探すとなれば、僅かにジェイン・オースティンの文学を想起するのみである。
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