アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カントの"啓蒙とは何か”にみる職業的知識人の誕生(2010/ 10) アリアドネの部屋アーカイブス 2019-08-25 22:46:22

カントの"啓蒙とは何か”にみる職業的知識人の誕生(2010/ 10) アリアドネの部屋アーカイブ
2019-08-25 22:46:22
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505535356.html
カントの"啓蒙とは何か”にみる職業的知識人の誕生
2010-10-10 22:36:43
テーマ: 文学と思想

 カントの"啓蒙とは何か”にみる職業的知識人の誕生


 カントは啓蒙について簡明な定義を与えている。啓蒙とは、人間が自らが招いた未成年の状態から抜け出ることである、と。カントは未成年の状態にあることの居心地の良さについても語っている。つまり自分であれこれと判断することの放棄である。カント死して二百年後、これは切実な政治的課題として甦る事になる。実存主義的な意味での、自由であることの重荷についてである。カントは啓蒙の時代の後に、もうひとつの野蛮が,つまり ”文明としての野蛮”(全体主義)あることを想像しただろうか。


 この書で最も興味深いのは、理性の公的な使用と私的な使用のカント的区分である。
公的な使用とは、ある人が学者として、読者(平和論の注視者に発展)である全ての公衆の前で、自らの理性を行使することである(世界公民的立場)。私的な使用とは"地位または官職に就いている者”として、理性を行使することである(私的ならびに職権的立場)。


 つまり大学教授や役人が官職・役職のしからしめるべきものの立場で語ることは理性の私的な使用に該当する。また司祭が教区の会合で語る訓示等も、今日企業家が語る訓示同様私的な在り方を超えるものとはならない。これは問題が起こると学識経験者と称した者に”公的”な所見を尋ねるわが国の知的風土とは逆になっていて大変に興味深い。


 ”啓蒙”文書について、あえて注釈を挟まねばならないとするならば次の二点であろう。

ひとつは公的な在り方をする主体とは誰かということ、もうひとつは対象とされている公衆とは誰か、と言う問いである。

 この問いに答えるのは実は容易ではない。公的な主体とは、”永遠平和のために”などを読めば、まずは世界市民のあり方であろう。しかしこれは単なる理念としての消極的概念ではなく、カントの場合公的存在が同時に”職業人”であることに最大の特徴がある。

 公衆とは、カントの生きた時代、プロイセンと言う宮廷官僚と教権制度と言う、カント流に言えば徹底的に理性の私的使用に根ざした世界があり、民衆はいまだ中世のまどろみの中にあった。数年後に控える隣国の革命と言う事態は予感としてすら焦点を結ぶことはなかったが、身分も資産もない一介の病弱な青年が大学教授にまでなれたように、伝統的なヒエルラキー支配の裏側で脈々と、世論と言うものは形成されつつあったのである。

 公衆とは行為者としての民衆であると同時に注視者としての読書階級のことでもあった。カントは歴史上初めて公衆を相手に対価を得て生活する自由主義的職業人の第1号となったのである。なにものにも捕らわれることなき理性の公的な権威において語るというカントの経験がなかったならば、後年職業としての政治と学問について語り、もうひとつの歴史的野蛮に直面したウェーバーのヴァイマール期における政治的経験もなかったであろう。
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