アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルセル・プルースト 時と永遠(2018/1)アリアドネの部屋アーカイブス

マルセル・プルースト 時と永遠(2018/1)アリアドネの部屋アーカイブ
2019-08-25 22:23:08
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505574101.html
マルセル・プルースト 時と永遠
2018-01-11 11:42:27
テーマ: 文学と思想
2018・1

 たとえばプルーストには無意識的回想と云う時に関する有名な考え方があってよく云々されてきた。過去を知ろうとするときに、わたくしたちの認識と云う作用は、本来的にものごとか完了している段階で最良の成果を発揮できる機能である、という風に見えない手で設計されている。ところが愛であるとかその他のこころを満たすような超越的な経験は決して過去完了形のような形では語ることができない。つまりわたくしたちの認知とか知性とか理性的認識と云う形式では、いま生じつつある生まれ出ようとしている生の経験や、継続される限りに於いて生命的経験が可能な、進行形の人間的経験については語りえないのである。しかしながらわたくしたちとこの種の生きた経験を繋ぐものについては、わたくしたちの認識や知性が及ばないにしても、五感のなかでのより下位のものたち――より原始性を持った味覚、嗅覚、触覚と云う形態であるならば、その片鱗や断片をある程度再現することができるかもしれないと云う。一杯のティーカップに浸したマドレーヌやベネツィアの踏み石のエピソードなどはその例だと云うのである。この見解は、視覚主導型の認知の構造に対して、味覚等の原始性を帯びた下位の諸感覚の方が総合性をより残存させている、と云うことなのかもしれない。
 過去は、五感のなかでもより下位の原始的な感覚のなかに保存されていると云うのだろうか。ここに下位の五感とは、より身体性を帯びた所作的認識のごときものとして発展的に考えることも可能である。たとえば身体的所作が、たとえば客観的‐観察系におけるニュートン的な三次元的な空間に関わることで、幾何学的座標系には歪が生じる、という意味である。それでは歪や襞や隈の吹き溜まりのなかに時間は保存されている、と云うことをプルーストは言いたいのだろうか。
 
 他方過去は老いに向かって進行する時間性のドラマの中に炙り出し絵のように顕現することもある。最終巻『見出された時』のなかで、大団円でオデットの孫娘に引き合わされる場面がある。娼婦の身から大公夫人の身分にまで成りあがった老いの斜面を急激に降りつつあるオデットの面影のなかに、初恋の人ジルベルトや、現にいま自分の目の前で引き合わされつつある孫娘の面影が微妙に震えながら重ね合わされて顕現する。これを三代にわたるの親子孫の系譜だから似ているのは当然だろうと考えるのか、それとも三人それぞれの容姿と様態のなかに、過去‐現在‐未来が同時に表現されていることからくる、時間の神秘を観照できるか否かの違いなのである。この違いは大きいし、同時に人生経験の偉大さと悲惨の分岐点にもなる。
 肉体的形相を遺伝学的に、あるいは骨相学的に考察することも大事だが、ひとりの人格のなかに表現されている時間の重層性を理解する中で、過去が、必ずしもリアリズムの美学やや自然科学の認識論が理解するような形で、過去とはもうないものだと云う単純な理解の仕方が一元的に正解であるとは言えないことを理解することも大事なことなのである。
 後者、つまりプルーストが『見出された時』のなかで発見した独創的な時間についての見解は、同時に時間性の美学として、つまり現在‐過去‐未来にさらには近過去、近未来、現在過去、未来完了形など、様々な時制の間を漂いながら、ごく普段に利用しているわたくしたちの時間に対する接し方や処し方を重ねることで無限のコマ組の組み換えが可能となる。つまり認識とは静態的な三次元あるいは四次元の時計的・空間‐時間的座標系における理性的数学的認識にかえて、様々な時に関する時制を重ねることからくる、――シネマムーヴィーにおけるコマ廻しに似た――動態としての認識、動態としての美学が可能になるのである。現在のなかに過去と未来が同時に再現し、過去のなかにも未来が、未来のなかにも重層的に重なるものとしての、現在および不空の過去が重なりつつ、夢の世界の出来事のように微妙にずれる、このずれ型のなかで近代主義的な静止画像的な美は止揚され、時と時制の混沌のなかで美は、異安打買ってないような形で、動態としての美を出現させるのである。動態としての美の認識とは、感受する我々の歓声が歪み、時と永遠性のなかで震えていると云う意味である。
 この考えは近代小説における、人間の個性よりもイデアルなものとしての経験を重視すると云う考え方に繋がる。例えばプルーストの影響下に書かれたと思われるヴァージニア・ウルフの初期の傑作『ダロウェイ夫人』などは、近代自然主義的リアリズム論が金科玉条とする「生き生きとした人物描写」などが問題になるのではない。この小説のテーマは人間的な経験としての、死と再生のドラマなのである。
 同じようにプルーストの『失われた時を求めて』もまた、人間的な経験としての死と再生のドラマである。なぜなら主人公「わたし」はオデット婆さんの孫娘の若々しい美貌に魅かれたのではなく、彼女のなかに一族が系譜的に辿った民族の全伝統を感受し、血の伝統と伝承のなかに生き生きと保存されている時の観念、伝統と伝承のなかに常に生きつつあると同時に耐えずにし抗いつつ生きる、死と再生のドラマを繰り返す、永遠と永劫性の、夢と時の戯れをこの日この時の瞬間のなかに見たことであった、とも解されるからである。