アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴェルテルという人間性――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その2(2014/2)アーカイブス

ヴェルテルという人間性――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その2(2014/2)アーカイブ
2019-08-24 22:16:14
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505539228.html
ヴェルテルという人間性――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その2
2014-07-02 10:05:05
テーマ: 文学と思想
2014・2)


 作品の文体としての眼と云うものを仮構するならば、人間ゲーテや作品の語り手として現れてくる作家としてのゲーテは愚かである、という感じがする。作品を通読して得られるヴェルテルの人間性は、悪く言えば、新婚の家に入り込んで自らの思慕の思いのままに恣意的に行動をすることを憚らない世間知らずである。現代であれば、ストーカーの準候補生ということになるのだろうが身分の高さと性格ゆえにロッテの家から訪問を遠慮するように度々懇願されているけれどもヴェルテルはこの好意を裏切る。一方、これを描く文豪ゲーテの眼差しは子供を見つめる親の情愛に満ちた眼、肉親の眼であって彼の常識のなさを知らないわけではないのに、ヴェルテルの心情を批判するものはまるで人類とロマン主義の敵とでも言わんばかりの溺愛ぶりをみせる。しかし描かれた作品として文体の背後に透かし彫りのように現れてくる形象としての作品自体の意志は、人間ゲーテや作家ゲーテとは正反対に、冷静でもあれば冷徹でもある。ヴェルテルの死にざまを描いた最後の場面等は、とてもロマンティックなどとはうかうかとは言えない。彼の独りよがりの性格は最初から書き忘れられているわけでなくて、ゲーテの仄めかしのように小説の冒頭部で披露される過去のヴェルテルの女性遍歴の一端を知るに及んでも、ゲーテは最小限の情報提供は行っているのであり、不誠実とは言えないだろう。ヴェルテルの物語を感傷的に読むとすればそれは読者のせいであると云うわけだ。ゲーテによって描かれる過去のヴェルテルの姿とは、かなりの年月に渡って年上の女性を成果や打算とはかかわりなく純粋に愛し、その死に至るまでの期間を見守った、臨終と愛が一体となった極限としての愛の異様な経験であり、いま一つはかかる不幸でもあれば宗教性をすら感じさせる恋愛が持つな経験を他方で補償するかのように、無垢な乙女と関係し、もの足らなく感じて捨ててしまった、と云う経験である。つまり愛が持つ至高的な経験は丁度ある種の感性を破壊し、高山病が齎す身体的な病理のように、日常世界の方向への下山の道筋を失わせ、あらゆる世俗的な関心を喪失させてしまうものなのである。その結果、日常性や世俗の人間関係は何か本質を失った上辺だけのもの、虚飾に満ちた仮面のようにその裏側に背徳を隠し持た唾棄すべきもののように映じるのである。ここから彼の、世を呪い告発する予言者のような非寛容のまなざしが成立する。そしていつの場合もそうであるが、人は苛酷であり残酷であればあるほど、他方でこれを保証するかのように、無垢な子供たちや乙女たちの世界であるとか、純粋なるものとしての自然賛歌などを詩人の如く口にするのである。もっと言えば、これが無防備な子供たちの世界や乙女に対する共感に留まっている場合はまだよい、これが社会に爪はじきされかかっている異常者や反社会的なボーダーラインに生きる人たちへの病理的な共感に近づくと、正常と異常の間は混同され、場合によれば犯罪者の下地となる可能性すら生まれる。元々愛とか宗教的な経験と云う超絶的な物事は本来倫理的、道徳的であるとは限らない。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』はかかるロマン主義が齎した病理の経験であり、他方ヴェルテルの自死はそうなる前に残された最後の理知の力で、あるいは自らをくびきから解放するために自己制裁を加えて一連の騒動をおしまいにしたということなのだろうと思う。「騒動」などと書くことはゲーテに失礼だろうとは思うが。

 ヴェルテルを死に至らしめた原因は幾つかあると思われるがそれは作家ゲーテが読者に信じさせたがったような理由では多分ないであろう。形象かされた作品としての『若きヴェルテルの悩み』は作家ゲーテあるいは人間ゲーテよりもよほど公平なのであり、通常の純愛の物語とは少し違っていることを仄めかせてもいる。先にも書いたように、この青年には生きることや人生の諸経験を無価値に思わせるような超絶的な経験の持ち主だったことが履歴的に語られている。かかる宗教的でもあれば至純のものへと高められた死の厳然の前に何が云えたであろうか。彼のその後の女性遍歴は一面、この世とは隔絶された死と愛とが一体となった超越としての経験がもたらした空洞、この体験の前ではあらゆる生の経験が無意味と化すような心の中に生じた巨大な空洞を埋め、補償するための徒労にも似た行為であったとも見えるのである。

 こうした段階に置かれた人間が通常取りがちの行為は、精神と云う自らの城、内面のカテドラルに閉じこもり超然と世間を見下して生きる態度である。しかしヴェルテルのナイーヴさはそれを許さなかった。かれの直接の死の原因は、実はロッテへの失恋の経験であるよりも、彼が彼の生きうる場としての世界――ヴァイマルの貴族社会でもあるのだが――からは正式なメンバーとして除外されているということを見せつけられた、あの光栄ある晩餐会の場面である。俗世界や世間への軽蔑にも関わらず、共同体社会の正式のメンバーかから排除されてあるという認識はヴェルテルの生存の最終的な根拠を破壊するのである。この時期を境にヴェルテルの眼差しは憂愁や詩的なロマンティシズムとは異なったもの、ある種の反社会性へと変質する。

 こうした公式の場面では、一方で彼を終始甘やかしてくれた貴族社会の友人や知人たちですら内輪ののようには対応してはくれない。社会的な建前が優先される中で彼は異質な部分として、異物として排除されているという差別の構図をまざまざと経験する。今まで差別する側にはあっても自らを差別される側に置くと云う経験のない彼にはこれは相当に応えた。つまり、貴族社会の俗物性を見下すと云うスタンスを何故かこの時は取れなかったのである。彼の内面に、それと拮抗し抵抗しうる実質のようなものが何も見当たらなかったのである。彼の内面に卓越するものがない、つまり彼は自分に絶望して死んだのである。

 人は人の愚かさを笑うことができる。しかし愚かさを演じることが必要でもあればそれが唯一の価値ある行為である局面も確かに人生には存在する。有意な青年とも成り得たであろうにと云うゲーテの嘆きはこの作品の隅々まで満ち木霊している。愚かであり愚かさを演じる局面とは、愚かさを客観的に批評する立場が不自然と感じられるある人生の一時期の自分自身の立場でもある。人は少年時代の気持ちを忘れるとよく云うけれども、それは物事を正確にみると云う世間知を知ることによって失ったある大切なものごとのことなのである。

 『若きヴェルテルの悩み』の読後感としての正しさとは、ゲーテがこの時期近代の行く末について思いめぐらしていたことであり、他方、個人のレベルとしては愚かな行為あるいは愚かさを笑うと云う行為が不自然な場合がやはりあると云うこと、翻って考えるに自分はその持ち場を持ちこたえなければならないし、持ちこたえるであろうと云う不撓不屈の人間ゲーテの意志を感じることなのである。

 芸術的資質と市民性の問題は、ゲーテの後継者であることを自らに任じた『トニオ・グレーゲル』に於いて再度取り上げられることになる。