アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

支配の政治力学としての宗教――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その3(2014/7)アーカイブス

支配の政治力学としての宗教――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その3(2014/7)アーカイブ
2019-08-24 22:19:13
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505539229.html
支配の政治力学としての宗教――ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』・その3
2014-07-02 14:18:39
テーマ: 文学と思想



 一神教は危険であるかと云うあるシンポジウムの問いかけの中で、キリスト教の固有性は神の御言葉と受肉化の思想にあると思った。十字架上の死で終わる子なるイエスキリストの物語も、受難、受苦として、受肉化思想の転回点であることは明らかである。また御言葉を聖霊の形で伝える受胎告知と処女懐胎と云う奇怪でもあれば神秘的な、凡そ日本人の常識を逆なでするような教説もまた、正統的なカトリシズムからの度重なる懸念と逡巡にも係らず是認されたことの背景には、キリスト教が、絶えず時代の変化に対して教義の解釈と再解釈を通して時代の変化変遷にに対してどのように望みどのように対応するか、受肉思想の新たな教義解釈の展開としても読むことが出来る。興味深いのは、通常無神論の宣揚と旗揚げを告知する近代から現代に至る思想史的な過程においても、いっけん、キリスト教的世界像の衰退であるかに見えて、キリスト教の現代的意匠による変革としても読むことが出来ることである。例えばルネサンス期の先駆を開く予見的出来事として語り伝えられたガリレオ・ガリレイ裁判の主題は科学と宗教的迷妄との闘いとして要約されることがあるが、ここで無前提のものとして据えられている近代の科学観、すなわち科学とは体制や政治的イデオロギーに関わりなく、ちょうど純粋幾何学や数学的真理がそうであるように、普遍性を持つと云う考え方が、疑うことを許されないものとしての神学の唯一性の、現代的な再生であることは明らかだろう。支配の力学の巧妙さは、一見、わたしたちの予想や想像を超えて、不可視の目に見えない形で自らの意思を貫徹するかのようである。そうした宗教が擬制として持つ支配の力学の持つ威力を、単なる操り人形としてのヴェルテルの行動を通して描かれたのが『若きヴェルテルの悩み』であると思うのである。

 キリスト教の神は有からも無からも世界を創造したわけではない。御言葉を通して世界を創造した、あるいは御言葉の中で恩寵に包まれて世界は誕生したのである。同様に、ヴェルテルの悩みは原因があり結果があると云うのではなくて、火のないところに煙を見る人間像に固有の無からの創造と云う側面がある。人の良い疑う事を知らぬロッテも最後はヴェルテルの企みをおぼろげながら察知してこのように言う。

「ひよっとすると、私を所有すると云う可能性のないことが、かえってあなたのこの願いを魅力的にしているのでは?」

「気がきいている?」と彼(ヴェルテル)は大声で言った、「なかなか気がきいている!多分アルバート(ロッテの夫)がそのせりふを造ったのでしょうね?政治家だ!なかなかの政治家だ!」
(・・・中略・・・)
「いやはやその言葉は」と彼は冷たく笑いながら言った、「印刷させて、全国の家庭教師たちに推薦してもらいたいくらいだ。」

 ヴェルテルの下品さ!ということについて今まで誰か語っただろうか。これが世間体と夫の眼を憚りながらも庇い続ける若い一家の健気な夫人に対して彼が語る言葉などである。品性の質として、ヴェルテルは遠くロッテに及ばないのである。むしろここに垣間見れるヴェルテルの姿は、後のデマゴーグの政治家たちが活躍する権謀術数と権力闘争が跳梁する世界をすら彷彿とさせるものがある。

 元来、キリスト教における神との契約思想とは、一神教としての神の卓越を強調しながらも、ある程度は「契約」と云う言語が示すように、言葉を介在させた平等の理念が前提されていたと考えられる。キリスト教の契約に基づく思想が、神概念の卓越による神秘思想や神権思想に行き着かなかったのはこうした理由による。
 かかるキリスト教がいかなる段階から変質し始めたかは詳らかにしないが、少なくとも受肉の思想をめぐる苛烈な論争の時期にあったことは容易に想像できる。一つは、神の子キリストをめぐる教義の段階に於いて、神とキリストと精霊とが三位にして一体であると語り異端を排除した時期、そして目に見える形で三位一体の思想を民衆の目の前に目に見える形で告知した受胎告知と処女懐胎の時期に於いて。通常はこの時期をバロックの時期であると考えられている。

 変化したのは、知恵の実を齧ることに於いて罪を自覚すると云うキリスト教の言説だった。罪の自覚を通じて、外側からは擬制としての宗教的組織と世俗の権力の共同体が、内面からは罪概念の誕生と告解と云う儀式のサイクルを通して図られた、人が人を支配すると云う方程式であった。原始キリスト教にはなかったものが、あるいは微小で目立たなかったものがヨーロッパの社会に根付いていく過程で、根本的な変質を経験したと云う事だろうと思う。

 『若きヴェルテルの悩み』を読みながら感じたのは、絶対的に得難いものを、逆転的な大転換の発想をもぅて至高のものを得る、罪概念を通しての支配の力学である。
 死とは何なのだろうか、死の概念が持つ絶対的な響きを前にして、日々の生きる日常的些事などは何事であると云うのだろうか。キリスト教と王権は結託して、死を利用することで支配を可能にしてきた。ヴェルテルの死ぬことの意味は何であったろうか。彼のロッテへの思慕は叶わぬ恋のレベルであって、このような理由で人は死にはしない。彼を決定的な死へと追いやったのは、貴族社会の社交と儀礼云う、生活の基盤そのものの喪失であった。基盤喪失は彼を境界域へと追いやり、境界域こそ守護するものとしての神と教会の領域なのであるから、ヴェルテルが宗教的な心性の中に生きるということは必ずしも彼自身を高めたわけではなかったのである。

 ヴェルテルは、ロッテとその夫に、言外の死を暗示する形で受難劇の一面での加担者と云う役割を負わせることになった。彼が死んで、死ぬことがもはや取り返しの利かない、修正にできない出来事として完成すると同時に、ヴェルテルを死に追いやった加担者として、生き残ったものは誰もが自らの原罪を自覚する、そうした構図、そうしたストーリーになっていたはずである。
 死は何ものかの完成と云うよりも、死と云う究極の事実を踏まえることで等しく罪ある子らと云う形で無垢であるべき人間を原罪の頸木につなぐ、原罪を通じて人を人として支配する政治の力学として利用しうること、キリスト教に限らず凡そ宗教と云うものが大なり小なり持つ、キリスト教が背負った原罪の姿なのである。