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漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって アリアドネアーカイブスより

漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって
2019-08-23 22:50:04
テーマ:アリアドネアーカイブ



原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12510864899.html
漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって(2015・5)アリアドネの部屋アーカイブ
2015-05-25 23:23:23
テーマ: 文学と思想




 漱石の『こころ』を久しぶりに再読した。
すでに論評化され尽くした感のある本作を再読しようと感じたのは、漱石と鷗外の青春を『三四郎』と『青年』を比較的に読んだことがあったからである。この時の観点は、彼らの青春論より少しずれて、日本近代文学を代表する評価定まったかに見える二人の文豪にとって、近代とは何であったのか、その向き合い方を論じることであった。漱石は近代を、より日本的な特殊的な近代と限定して捉えながら、当時清新でも革新的でもあった自由恋愛と云う行為の姿に現れる象徴性を捕えようとした、日本的近代の具現せる姿としての漱石を捉えることであった。
 反面、森鴎外にとって近代とは世界内存在としての受苦としての実存としての近代ではなく、西洋を特殊西洋的な形態ととらえ、それとは異なった近代の可能性を予見や予感の内に捉えることであった。ただし、捉えるとは言っても鷗外の場合はそこから何か積極的な主張や言説が用意されているわけではなく、失われたもう一つの日本的近代の姿を幻想として哀惜することに他ならなかった。もちろん後者のような鷗外評価は、20世紀以降常に文明文化をリードしてきた欧米的価値観が大きく揺らいだ20世紀以降の、漱石・鷗外が生きた時代と大きく相違する昨今の現代史的事象を踏まえている。単に戦後一時流行った江藤淳らなどの、内在としての近代評価だけでは漱石は論じ得ても鷗外は評価から漏れてしまうのであるが、いわゆる日本の近代化論については別の機会に論じる機会もあろうかと思う。

 さて、漱石と鷗外が同一のテーマをめぐって、二度目の文学的事件としての二者遭遇を体験するのは明治天皇崩御乃木希典夫妻の殉死と云う事態を踏まえてであった。もちろんかかる明治時代の終わりを画する歴史的社会的事件に対して二人の文豪が主題明示的に言及し、それに直截的の表現を与えたと云うのではない。事件は『こころ』の末尾の数ページを読んでも生々しく、未だに事件の臨場性を感じさせるのであるが、社会的制約もあったせいもあり、両文豪の対応は間接的な表現と云う形をとらざるを得なかった。結論を先に入ってしまえば、鷗外のとった手法はいわゆる褒め殺しと云うイロニーに準ずる手法であり、漱石がとった手法は告白態の文法を聴き手であるもう一人の「私」の枠組みの中に語り納め、言語表現として客観化すると云う手法であった。

 両事件に対する二人の文豪の反応については鷗外の方が拘泥もなく、今日からみれば主題性もすっきりしたものであったのを感じる。乃木希典の殉死事件と云う当時センセーショナルでもあれば容易に反論を許さない社会的、国民的事件の反響を、具体的にどの作品に仮託させるかという点では異論があると思うが、まずは『興津弥五右衛門の遺書』であると思う。あるいは『阿部一族』でもよい。同書は、恩義を受けた主君の死に際して家臣の一人である興津弥五右衛門が殉死する、と云うものである。恩義を受けた藩主の死に殉死すると云う経緯を子孫のために本人が書き記すとされたのが、すなわち鷗外によって書かれた同書である。実際の遺書の形をとって書かれたフィクションである。同書によって弥五右衛門の殉死の様子だけではなく、興津家の名前の由来や先祖のこと、さらには幕末明治に至る同族の動静をも知ることが出来る。この綿々と人命を連ね、出生と没年の年月日を連ねる、あらゆる感情を排した純客観的年代記的手法は、後年の史伝もの、とりわけ『渋江抽斎』以降の諸作でより重要になっていく手法である。
(興津弥五右衛門や乃木希典の殉死と云うグロテスクな病理的行為が手強いのは、単に個人的な性向や病理現象としてあるのではなく、病理が制度の形で物象化し、制度として客観されていたことによる。また両者の違いは、年代だけの相違だけではなくて、弥五右衛門の武士道が「主君」と云う可視的な対象をもとに成立した制度であるのに対して、乃木の場合の武士道としての著しい特徴は、神としての「天皇」と云う不可視の制度を対象として、武士道の概念が拡張され普遍化されたたものとして定義されたことによる。乃木を、時代遅れの頑固な老人としてだけ捉えるのではなく、明治期の最大の思想家として批判的に捉える視点が必要であると思うがいかがであろうか。)

 鷗外の近代批評の歴史的手法は、いっけん、不合理とも奇怪とも野蛮とも見える殉死と云う行為の有無を言わせぬ超越性を日本武士道の誇るべき特質として首肯し讃嘆するかに見えながら、細川三斉の殉死に准えて腹を「三文字に切った」と云う残酷とも知的諧謔とも自虐的ユーモアとも云える個所に集中的な表現をみている。笑うべき荒唐無稽やアナクロニズムが、そして残酷さや残虐さや野蛮さが、同時に言語に絶する厳粛であることを文豪森鴎外は遺憾なく表現している。鴎外は乃木希典の殉死が、笑うべき荒唐無稽、アナクロニズムであると同時に言語に絶する厳粛であることを言いたかったのである。言語を超えた表現行為に対しては通常の言語表現では太刀打ちできない。そしてこれ以上に重要でもあれば厳粛な事実は、日本の特殊近代化の歴史が、乃木希典の、ハイデガーならぬ「死への先駆」として、命を粗末にする思想として並々ならぬ影響を持つであろうことへの暗澹たる予感としてあった。

近代日本と日本資本主義が富国強兵の過程で命を軽んじる思想を大々的に必要としていることを明晰人鷗外は見抜き、彼の念頭には見えざる幻想としての敵として常にあった、と思う。さればこそ、あらゆる権威・権力を否定したとも見える鷗外の墓標が持つ意味、鷗外の遺言の意味するものこそは、自著『興津弥五右衛門の遺書』を踏まえ、それに准え、その理念を自らの生涯の終わりに刻印し、文学的抵抗の意味を彼の生涯の集大成として再帰的に確認したものともいえよう。乃木希典の人格と殉死事件が齎した影響は、文豪森鴎外をもってしても、墓標と遺言と云う死の厳粛、後ろ盾を必要とするほど呪詛の力は圧倒的でもあれば強力でもあった。墓標こそは、彼が最期に試みた芸術的抵抗であり、最後の作品だったのである。

 他方、『こころ』を書く漱石は余程複雑でもあれば屈折していく日本近代の縺れていく思想過程そのものに他ならなかった。例えば、Kとは本当は誰であるのか?漱石フランツ・カフカと同時代人であるから影響関係の先後は分からない。しかしカフカの謎をなぞるように漱石の『こころ』もまた、二様にも多様にも読める。Kとな何者なのか、彼の自裁的自殺への真の原因は何れにあったのか。また語り手「私」が親戚や縁故知人から受けたとされる過去の裏切り行為と云うものは、単に金銭的な欲に目がくらんだものの行為だけだと単純化出来るものであろうか。金をみれば人格が一変する、それはいつの世も変わらない普遍的な事実である。しかし「私」の幻想が作り出した半現実の側面もありはしなかったか。「私」の猜疑的性格が増長させたと云う側面はなかったのだろうか。あるいはありもしないものを在るものに変えてしまう恣意性のなぞと云うものがあったのではないのか。謎は行為者の、謎解きをする行為自体が自乗的に生み出すものではなかったか。さらに不可解なのは、素人下宿屋の母と娘に存在である、二人は本当に「私」をめぐる三角関係を知らなかったのだろうか。「私」がそのように書いているのだから読者としては信ずるほかはないのだが、全体の情況を俯瞰的に常識人の眼で見た場合に、如何にも不自然さの感じは残ってしまうのである。

 また、この点については小説作法上の問題もある。小説の中で幾度となく云い張る「私」にしても、これは近代小説に於ける告白態としての「私」、揺るぎない一人称小説態における視座としての「私」と同じものなのだろうか。あるいはわたしは私小説的「私」の形式を逆手に取った、漱石の遠謀的策略であるようにもみえる。わたしは「私」が文字通りの意味では彼の告白を信用できないのである。人間としての「私」は信用できるとしても、告白態小説の主格としての「私」は信用できないのである。自然主義あるいは私小説的な告白態の常套的な体裁をとりながら、それを反語的にも読み替えることが出来る、これは鷗外とは違った意味で漱石なりの近代批評なのである。近代批評である以上に、ヨーロッパに於いて完成された小説的手法とその追従である日本自然主義的小説作法への批評なのである。

 漱石については様々な論点を言い残した気がするけれども、ここではKとは誰であったか、と云う論点だけを簡単に述べておこう。
 家父長的伝統的社会から断絶することによって、経済的基盤を失い、同時に自我の自律を求めながらも自立の根拠をも失うKの悲劇は、日本近代の悲劇でもある。
 漱石の場合近代とは、何か海の向こうの完結した学説なり言説、思想、文化文明をものとして移植することではなく、小説でも語られるKの幼年期の頃より積み重ねられた儒仏教的な姿勢――特には言われないけれども禅的な傾向と習合する形をとっていることに特徴がある、あるいはK以上に漱石の倫理道徳的な背景であったともいえる。単に外から学問的知識として輸入され移植され学習された思想ではないゆえに、転向、と云う事態が起こりにくいのである。転向なり思想的変節が出来ないがゆえに、彼らは『こころ』の世界に叙述されたように、真っ直ぐに自然的過程としての自己崩壊の道を歩まざるを得なかったのである。Kの生き方をみえば安楽に、ほかのようでもあり得たものを強いて自分が破滅するように自己誘導した過程とも願望的自滅とも読める。彼の場合、恋愛とは方便であったに過ぎない。恋愛と云うと、これを過剰に評価せざるを得ない傾向を有するのが近代の特性でもあるが、それを病理性として描くと云う点についても漱石は到底、無意識的であったとは思われない。Kには経済的基盤が無い。素人下宿を開いて平凡で安泰な市民生活を夢見る母と娘にとって経済的基盤を欠いたKを婚約者として受け入れると云う選択肢はなかったであろう。Kは母子家庭の婚活に利用されたのだ、と云えば云いすぎになるであろうか。(『こころ』の世界に敷衍する女性蔑視とも思える表立っては現れない通素低音は、かく考えれば小説の構成を一変させるであろう。罪深いのは母と娘の方なのである。母娘の、あくまで知らぬを押し通す強情は不気味である。)
 Kとは明治の失われた世代を象徴する、その青年群像を翻案したものに他ならなかった。

 『こころ』が持つ問題性の大きさ深刻さは、Kが残した遺言を残して『こころ』以降の、想像されうる物語として展開されなければならないだろう。それは先生の奥さんと語り手としての「私」がその後どうなったか、という卑近な私事の話題のみに限定しない。わたしたちは「先生」が遺書として語り手たる「私」に遺書として残した意義について考えてみなければならない。また、死に場所を最後の自分自身にとっての生涯の舞台であった小石川の「お嬢さんと奥さん」の家が選ばれてあったと云うことをも勘案してみなければならない。小説では僅かに触れられているけれどもKは、その家を住むに堪え得ないほどにも血染めにしてしまっているのである。Kの遺書が何と云おうと何と書こうと、これが古武道の血染め天井の儀式であった側面は否めないであろう。同時に近代青年としてのKの頭脳の明晰さは、封建的武士道の情緒や変態的倫理に同調するには余程理性的でもあった。要するに人生最期の局面に立ったKは、二つの情念と論理の間で最後の揺れを経験したのである。Kは半ば武士道的自制の論理で自らの弱さを克服したかにみえたが、最後の局面で力尽きたのである。
 わたしたちは、Kの自裁的死が、漠とした怨念に絡みととられていたにも関わらず、これと最後の抵抗をドラマとして残したことを評価しなければならない。

 ここでさらに進んで、「先生」の自裁としての死についても考えてみなければならない。Kの死後、雑司ヶ谷の墓地の墓参りを三十五年間欠かさなかった律義な先生が、乃木希典の人士事件を一大契機として一挙に自己崩壊と破滅への道をたどる、その決意の前後に一部終始をしたためた「私」宛ての遺書を書くことでなお命永らえ、ちょうど落日の夕日が日没の前に一時一際輝きを見せ垂直方向への上昇に転じるかに見えるように、なお数日間を「先生」は果敢にも持ち堪える。先生は遺書を書くと云う行為を通して言葉の客観性に賭けたのである。その賭けにもかかわらず、最終的には自らが魔の手に屈すると云う、自己処罰の誘惑の手から逃れることが出来なかった、と云うことなのだろう。
 死を美化するのではなく、先生が三十五年持ちこたえたことをわたしたちはもっと評価してあげなければならないのではないかと思う。西南戦争後戦旗を奪われたことを理由に、死に場所を求め続けていた乃木希典と同じではないのである。

 「先生」が言外に伝えようとしているのは、近代が生んだドラマが呪詛として、Kを、そして先生を、自己目的化した観念が一切を排してなぎ倒して進む、いっけん自然過程としてのロマン主義の自己崩壊、自己抹殺への誘惑の、生ける動態を語り伝えることであった。Kのある意味での奮戦は、反って近代の呪詛と云う怨霊を呼び込み、自らの中から逆に相乗的に生み出してしまう結果になった。近代的怨霊の呪いは外からくるのではなく、内から、「私」の加害性を如何なく証明すると云う残酷で老獪な手段を弄するものだった。次世代の白樺派のような、呑気な自然観を提起すればよいというようなものではなかったのである。近代の呪詛はKを身ぐるみ捉えて傀儡化した。ミイラ取りがミイラにになる。先生もまたそうならないと云えるであろうか。
 『こころ』の意義は実にこの点にある。先生の自死には、Kより申し送られた怨霊の歴史の時間的サイクルをもし閉じさせることが可能であるならば、一応は怨念の円環は閉じられ怨霊は鎮静化された、とは云えるのであろう。先生の最後の捨て身の作戦、秘術は成功したのだろうか。

 「先生」とは近代的呪詛の過去形であり、「私」とはその未来形である。近代の呪詛はかかる形で世代間で受け継がれていく。先生の死が乃木希典殉死のコンテクストで読みこまれるとき、先生の願いは微妙な緊張状態に置かれる。同時に夏目漱石の文明批評家としての抵抗も、明晰さを裏切って混沌としてくる。敵味方が分からなくなり、また自分自身も分からなくなる。しかし、少なくとも自分のありのままの死を記録として残すことは、死に屈した在り様を客観的に伝えることだけには終わらないだろう。それを言葉として言説として他者に伝えることは、どう受容するかと云う「私」のあり方に関わる問題を提起するはずである。漱石はそう期待した。しかし実態は必ずしもそうはならなかった。夏目漱石を聖人化する受容としての読書経験の歴史は、それを裏切り相反するものが確かにあった。

 『こころ』は近代が持つ自然的過程としての自己崩壊と自己抹殺の誘惑の無惨さを描いたものである。近代と云う時代が根源的に持つ呪詛性の手強さを描いたものでもある。漱石は文学者として、それを偽りなく言語化することによって、事実とは異なったレベルに転調しようとした。言語と云う一段と違ったレベルで、もう一度の敗者復活戦がありうることの可能性を暗示した。そして漱石は近代と呼ばれた緊張感ただならぬ時代思潮の中で討死にも似た生涯の閉じ方をした、とも云える。

 夏目漱石とは誰なのか。彼は近代と呼ばれる時代の途上で死んだ。近代との闘いは消耗戦であり同時に自らが近代の毒に染まることなしには抵抗そのものがあり得ない自己矛盾の負の自乗作用の果てに、捨て身の乾坤一擲が持つ自浄作用に最後は期待せざるを得ない屈折した価値観が支配する奇怪な世の中であった。夏目漱石は果敢にも近代を内側から乗り越えようとしたのである。その姿勢は近代文学の王道と評価されて良い。

 他方、もう一人の同時代者としての森鴎外は必ずしもそうではなかった。夏目漱石の憤死に至る一連の戦国模様を遠く望見しながら、死への誘惑が大勢を占めるであろう日本近代の行く末を、微妙な直観で予感していた。彼はライバルとしての漱石の生き方を敬意を持って思い浮かべたが、自分と漱石では何が違ったのだろうかと考えた。近代とは歴史過程としては日本の必然的な過程ではあったかもしれないが、近代と殉死するつもりは彼にはなかった。彼は何時の頃からか近代を外側からみる手法を確立させていた。近代史的過程が必然であり、避けることのできない成行きであり運命であったにしても、人間の言語や思惟能力と云うものはそれより幾分広いものなのである。文学や言語能力は時代よりも幾らか幅が広いのである。彼が近代との殉死を免れたのは、自然、という観点を最後まで持して手放さなかったからに他ならない。自然とは彼の場合人間的自然の意味である。

 彼は、好んで、懐古的にではなく、近代的モデルとは異なった人間群像に注目した。なぜ有でなければならないのか、無であることもできたのではないのか。彼には発想の転換があった。なぜ近代でなければならないのか、それ以外でも良かったのではないのか。近代と云う時代はわたしたちを本当に幸福にするものであるのかどうか、よく考えてみなければならない。3・11以降わたしたちは感慨を深くする。わたしたちが日本近代史を学び、今日鷗外を読むことの意義はそのような点にあるように思う。