アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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文学における妹の力 アリアドネアーカイブスより 2009-04-11

文学における妹の力
2009-04-11 00:46:59
テーマ:文学と思想

文学における女性的なもの、というとフェミニズム関係のものがありますが、我が国においては、柳田の妹の力、などが有名ですね。森鴎外安寿と厨子王ではあまりにも健気ですが、島崎藤村の夜明け前の長女像というのは記憶に残るものであって、世間体を憚ることなく発狂した父親を庇い通すところは、さすがに長女だという気がしますね。理屈ではないのです。長女であるということは、家霊、実は家つき娘である、ということが関係しています。

谷崎の細雪は華やかな女の世界なのですが、遠近法の消点に男の世界が隠されています。有名な京都の花見は在りし日の父親への追慕の気持が隠されていますし、蛍狩りや箕面山紅葉狩りはけして雪子を幸せにしない男性的なものの不在が隠されています。また物語の狂言回しともいうべき幸子の夫・貞之助にしてからが非個性的であるがゆえに、かえって父親的なものの不在を象徴しているのです。

そこで細雪の長女はだれかということなのですけれども、通常は鶴子ですね。でも、分家した芦屋が実質的な槇岡家雰囲気を語り伝えているというのであれば、長女は幸子ということになります。細雪に描からた彼女は、親なき家の主のように何彼と妹たちの世話を焼いたり本家とのとりもち役に徹するわけです。いわば崩壊しかかった家門を必死に支えようとした伝統的な日本女性を彷彿とさせます。

話はあちこち飛ぶんですが、オルコットの若草物語というのが、意外と細雪に似ているのですね。初期のアメリカ開拓者村にあった秘密の花園を守ろうとした人々の物語なのです。細雪が滅びゆく船場阪神間の文化の儚さを描いたように。そうゆう意味では王朝的な優雅さを描いたという世評は少し少なめに評価した方が良いと思うのですよ。一方若草物語においては父親は現実に存在しています。しかし何時も勇敢に闘った療養中の父親として、家族の語りの中だけの存在として、決して姿を現すことはありません。

若草物語の父親は、実際は生活能力のないぐうたらなのです。その父親を表面に登場させずに、なにか父親が戦場から帰って来さえすれば、貧しさともその他の悩みすべてから解放されるかのように、母親を含めた一家五人の娘たちは類まれな建国神話を語るのです。父親の不在を守りとおそうとする決意ゆえにこの物語は美しいのです。ちなみに次女ジョゼの心を射止めるのは父親のような男性でした。

ローラ・インガルスの大草原シリーズもまた、父親と娘の関係を語っています。父親はここでは逆遠近法のように出ずっぱりとなります。ローラが注意深く隠していたのは伝道者としての一家の生活でした。それがないとまるで西へ西へと行くことに憑かれたロマンティックな父親とその家族の物語のように読んでしまいます。須賀さんの父親もそういうところが感じられますが、実際はどうだったのでしょう。

天はこの家族に、これでもかという程の試練を与え、全てを奪ってしまいます。まるで旧約の世界のようですね。しかしこの父親は如何なる時も果敢であり、騎兵隊のように勇敢でありました。ローラには父親の足跡の跡を追って生きることは当然のことのように思われたのです。ローラが父親から得たものは人生においてより困難な方を選ぶというキリスト教徒の選択肢であり、果敢なプロンティアスプリットでありました。

ここに描かれた家族の姿は、宗教的な背景を除いても、後のファミリーと呼ばれるものの原型となりました。家族が歴史上はじめて誕生したのです。その背後には、隠されたキリスト教というものの伝統がありました。いはば20世紀型ファミリーとは、意識するしないにかかわらず、祭壇を失った教会のようなものなのです。日本人にはキリスト教が根づかなかった、というような牧歌的な次元の話ではないのです。

ローラ・インガルスの10巻の本は児童文学のジャンルに分類されるような軽めの本ではなくて、アメリカの開拓生活にかかわる素晴らしい叙事詩であると思うのですが、でも異教徒の私には納得しえないところが残りますね。この苦難は本当に必要なものだったのでしょうか。ローラの姉が失明するのも、ローラの希望のよりどころであった長男を亡くすのも、そうは書かれていませんが貧しさというものがあったような気がします。

ローラの家族たちの背後にあった宗教は、通常のキリスト教ではなくて霊的な感性に満たされた超俗的な、個人の実存を問題とするような宗教ではなく一種のコロニーを形成するようなものでした。そしてほかならぬ若草の父親が目指したのも、そうした激越な理想でした。必死に希求された宗教の理想と現実、二人のアメリカの女流作家が隠しおおせたと信じたのは、そんな父親の秘められた生活だったのです。

話があちこち飛んだ暁にはいつも須賀さんのところに戻ってくるのですね。須賀さんには実は恨みがあるのです。彼女のミラノものにはイタリアを踏み台にしたようなところがあるので許せないのです。このことは別のところで書きましたのでこれ以上書きません。

須賀カテドラル!巨大な須賀的人生の地獄篇、浄罪界編にかかわる二枚のタブロー!

あの世に行った須賀さんは、どうも地獄と極楽の間をつなぐ舟守のような仕事をしているようなんですね。彼女は記憶という名の浄化作用でもってひとりひとり浄罪界の方向にいざなっているようなのですが、なにせ行列ができるほど登場人物が膨大なので、このままいくとどのくらいかかるかわかりません。

さて、そのことに関してなのですが、最初に彼女が救ったのは父親だったのは、本当にビックリしますよね。あの須賀さんにして、このの身びいきはどうしたものでしょう。もともと身びいきはイタリア人のお家芸のようなものらしいのですが。ヴェネチアの宿に描かれたカップアンドソーサーに比喩とは、世界環境世界に憧れてやまなかった阪神間ボンボンの夢だったのですね。そんな夢に憑かれた男を、須賀さんは何か大層なことのように描いたのでした。一時期須賀さんの心の友だった鈴木敏恵さんが、わたしはヴェネチアの宿はけして読まない、といったのを思い出しますね。哀しみは、あの頃の喜び、追悼の言葉としては素晴らしい命名の仕方であると思うのですね。

オリエントエクスプレスという名の銀河鉄道の夜は、彼女にはどこまでもどこまでも続いているように思われました。アルプスを越えてアルザスへ、あるいはツール―ポアチェを経てシャルトルへ、その先にはパリがあり、ブルゴーニュがあり、暗いフランドルの海がありました。深い考えをもった人になりなさい、という厳然たる響きが!少女のころの彼女の脳裏に響いておりました。どうしたらフカイガエノヒトになれるのですか?その日少女をとらえた一途な気持を考えると、いまでも涙がでます。

その厳然たる響きは、今度はヨーロッパと日本という名前の回廊の石畳にも反響しておりました。もちろんあの娘は放心したように日常の大事な約束事をわすれてしまうという母親の嘆きも聞こえてまいります。フランドルへの道は、彼女の満たされなかった伝道の生活の象徴でした。自分はフカイカンガエノヒトになれたのだろうか。意識が途切れる閾を越えたとき巡礼姿の彼女を先導したのは、あるいは父親と幼友達の影であったかと思うのですが、この点でもわたしはいまでも納得いかないものをかんじているのです。