アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「星の王子さま」と「夜間飛行」を読む、あるいはアンダルシアの風のように アリアドネ・アーカイブスより 2009-04-29

星の王子さま」と「夜間飛行」を読む、あるいはアンダルシアの風のように
2009-04-29 12:15:34
テーマ:文学と思想

星の王子さま」と「夜間飛行」を読む、あるいはアンダルシアの風のように

いまさらこの本の魅力を語るっていっても、野暮の極みですよね。女優の岸田今日子さんが何度も読むのはもったいないといって書棚にしまってしまった、というのもわかるような気がしますね。わたしの古い友人にこの本がとても好きな人がいて、なんでも最近は海外で一人野良犬を育てて里親を探すというボランティア――そんな洒落たことばが相応しいのかどうか知りませんが――のようなものをやっていて、本人は全然自覚していないのでしょうけど、そこで流れていく時間が、そこはかとなくあわれで、時間の質感というものが大変にているように感じるのですね。

海外で!女だてらに一人で!知人が一人も無いところで!どうしてそうなったのか、ちっとも分からないのですが、時間がたちすぎていまさら聞けないということもあるのです。だってむかしむかしの親友ですからね。それにこの本のテーマが、大事なことは語らない、ということであるわけなのですから、ルール違反をとがめられることにもなりかねないわけです。でも、もともとが動物のお世話をするのが好きで、生まれたときから人を非難するという概念を学ばなかった天使のような人ですから、たぶん笑ってすましてくれるとは信じていますが。

この本は、同じ作者の「夜間飛行」と合わせて読むと大変いい感じですね。
人間の愛と死が、男と女の世界という風に描かれています。単純でくっきりとした性格はこの本に類まれな品位というものを与えています。この品位というものは、たぶんヨーロッパの貴族社会の普遍的なあるものからきているようなきがします。作者サン・テグジュペリは何といっても南フランスのとある伯爵家の出自をもっているのですからね。ヨーロッパの貴族というだけで憧れを持ってしまう私には困ったことです。でも、皆さんは困らないでください。それと彼の出自のことはあまり言いませんね。マイナスの要素になると感じているのでしょうか。貴族であるということの本当の意味は、いってみれば人との付き合いや明日のご飯のことを心配するといったこの世の約束事を学ばなかった、ということなのです。もう一つは、生まれた時から比較されることのない、絶対、の感覚を学ばずして身につけていることでしょうか。これが、高貴さというものの定義です。そして同様の魂の高貴さというものが、世俗の約束事を遙か眼下に相対化して生きてみるような時間経験を強いられたパイロットのようなひとたちにも稀におこりうる経験であることをこの本は語っているのでしょうか。

ですから「星の王子さま」こそほんものの貴族なのです。あるいは貴族以上の王族なのです。ですから人生の生き方というものをとんと学びませんでした。彼には人生というものがわかっていませんでした、あるいは分かる必要もありませんでした。パイロットの家で彼女を待っている、あのランプも、あの食事も、あの花束も・・・

作者サン・テグジュペリは大西洋を往復する中で、両側の大陸の何処にも安住の地を見出せませんでした。そして大戦を挟んだ両方の世界のいずれの時代にも安住の時を見出せませんでした。彼の行き方は自殺志願者のそれでした。冒険者の生き方ってそうですよね。でも「夜間飛行」はそんな荒々しい男のロマンティシズムを描いた行動主義の文学ではないのですね。その背後には、女性の嘆きと悲しみがありました。その無言の抗議には正当な権利と義務が備わっていることをあの冷徹なリヴィエーですら認めておりました。ファビアンの妻が語る、――夜の卓の上のランプの家庭的な光の名において、相手の肉体を求める肉体の名において、希望の、優しさの、思い出の名において語っているのだ」ということを、偉大なリアリストのリヴィエールは理解していました。理解しているだけでなく、その正当さの根拠を覆すだけの論理を自分は、あるいは誰も持っていないことを知っていました。

星の王子さま」は、命の、生きてあるということの、二つとない個性について語った神話の世界のようなものですね。ささいなことがらが偉大な神秘性を秘めているように、この本のあの有名な場面で狐は語ります。――一あんたの一本のバラは地上の5000本のバラのひとつと実は同じものなんだけれども、その一本のバラのためなら死をも厭わぬほどの存在になりえるということを。――あんたが、あんたのバラをとてもたいせつに思っているのはね、そのバラのために、時間を無駄にしたからだよ。」「かんじんなことは、目に見えないんだよ。」肝心なことは、こころで聴くんですよ。

そうして、私は異国で、ひとり、捨てられたといっては拾ってきて犬の世話をする、奇特な、古い友人の孤軍奮闘振りを思ってみるのでした。子犬のために「時間を無駄」にするだけでなく、場合によっては命の生殺与奪の判断すら強いられる、そんな過酷な限界状況に直面することすらありうるのです。だって生命にかかわるということは生半可なことでは済まないのですよね。むろん、それを上回る喜びと哀しみというものはあります。

里親に差し出されるまでの子犬たちとの日常、そして出会いと別れの日々、それに対応するものは「夜間飛行」のりヴィエールがファビアンの妻に向かうまなざしににています、――優しくて苦労性のファビアンの妻を知っている。貧しい子供に貸し与えられた玩具のように、この愛はほんのしばらくだけしか彼女に貸し与えられずに終わったのだ」と。
そして、旅立ちの日、子犬を里親に送り出す日のアンダルシアの朝は、つぎの引用がもっとも相応しい。

夜間飛行という、不安の葛藤をおして就航するヨーロッパ便の夫に、妻はある日言う。
――あなた、たいそうお立派よ」

スペインの丘を渡る風の音までが聞こえてきそうである。