アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カポーティの”あるクリスマス” アリアドネ・アーカイブスより

カポーティの”あるクリスマス”
2009-11-20 12:17:53
テーマ:文学と思想

今年は暖かい陽気がいつまでも続いて、それからある日気がついたら晩秋の乾いた落葉の葉音を聴いていた、という感じで、ほかのあるお仲間の方が“クリスマスの思い出”を紹介されていたからといって考えてみれば唐突でもないのであった。12月はついそこまで来ている。“あるクリスマス”は、トルーマン・カポーティの最後の作品、“クリスマスの思い出”とペアをなす作品である。

カポーティという人については、そんなに知らないのである。
映画“カポーティ”をみると馴染みの薄い対象であっても、一種毒々しいまでのリアリティが貫かれていた。その点秀逸なのは50年代の古いモノクロ映画“アラバマ物語”である。隣家に越してきたという設定になっている利発な――やや利発過ぎると言うべきか、そんな少年が、カポーティの少年時代を、さもありなんというほどの実在感をもって描かれているのである。ハーパー・リーの原作も優れているのであろうし、ロバート・マリガンも確かな観察眼を持っていたのであろう。心理学的には多動性の“躁”状態、実は幼年期に安定した人間関係がしっかりと築けていないことからくる、切ない幼年期の防御反応の一つなのである。

カポーティという人は、実際に彼を知らなくても、性格的に全然重なるところのない私のような人間にとっても、“風聞・伝聞”次元の情報であっても、その人物像のリアリティを信じさせてしまうというのは凄いことだと思う。作者自身のリアリティ、言い換えれば典型性が非常に高いのである。作者自身の実在感がフィクション性を帯びて現実性を凌駕しているのである。

“あるクリスマス”は村上春樹訳に山本容子の美しい銅版画を入れた美しい本である。絵本の中に文字がまるで星屑のようにばらまかれた感があるこの小冊子は、出張先に向かう列車の中の徒然に、15分ほどで読んでしまえる本である。しかし読後感は、凄い。

“あるクリスマス”はある意味で“エデンの園”の物語である。幼年期を至福の時と呼ぶならば、という意味でだが。年譜によればカポーティ少年は、若くして結婚し離婚を経験した不幸な両親によって母の実家に預けられたが、“アラバマ”の田舎は、保守的である反面宗教と信仰、神話と自然が豊かな交歓をなす揺籃の地であった。

幼いカポーティ少年はしっかりと“深南部”の神話的な星座にしっかりと守られて生きていたことになる。それがたまたま、ニューオリンズで金持ちになった父親から突然のクリスマス週間を一緒に過ごしたいという招待を受けたことから、自分が今まで受けてきた幼年期の恵みというものが如何ほどのものであるかを、“対象認識的”に意識せざるをえなくなってしまうのである。

物語の最後で、ともに一緒に暮らしたいという父親の願いに気付かないふりをしてバスの車窓の人となる少年に初めて心の痛みという現象が生じる哀切な場面がある。少年は自分でも説明できない感情の芽生えにとまどう。

何もかもが不自然としか思えなかった――一緒に暮らしたいという父親の願いも含めて――父親の暮らす享楽的な街ニューオリオンズの旅から帰ってきて、だいぶ落ち着いたころ少年は初めてこう書く。

“とうさんげんきですか、ぼくはげんきです。ぼくはいっしょうけんめいペダルをこぐ練習をしているので、そのうちそらをとべるとおもう。だからようくそらをみていてね。あいしています、パディー”

少年がペダルを漕ぐというのは、ニューオリオンズで父親に買って貰った、ペダルを漕ぐと進む飛行機の型をした幼児用の高級乗り物兼玩具の車のことである。

村上春樹は失わざるを得ない幼年期の眼ということにふれて、カポーティにおける幼年期の意味を、至福的な時間的意味を、高名な児童文学の書き手でもあったチャールズ・ディケンズに比較しているが、信仰をもった者とそうでない者との差は歴然だろう。

子供は誰しも幼年期に至福的な時間を経験する、といわれる。人間の成長に伴うアイデンティティの形成史は、絶えざる神話的時間の成熟と喪失の自然史的な過程として現れる。この点を理解するのにさほどの困難はない。

しかしチャールズ・ディケンズの――“クリスマス・キャロル”などの――場合は単なる自然史的な過程には終わらないのであって、不具なもの、不運なもの、あるいは正常なものの領域から逸脱しつつある境界域にあるものに対する親和性非常に強い。不運なもの、恵まれない者こそいっそう神に近いという認識がディケンズにはある。そこに彼の宗教性と倫理性の由縁がある。

少年パディが初めて感じた心のいたみ、少年に儀礼的な手紙を書かせた裏にある痛みを伴った感情とは、神に見放されてあるものの、ヒリヒリとする感情だった。

両親から引き離され、母の実家と親類縁者の保守的な環境の中で少年パディはもちろん孤独であった。しかし自然と信仰に囲まれたアメリカ“深南部”の共同体的喜怒哀楽の感情のモザイク文様の中に、近代人のヒリヒリする感情はいまだ未知のものだった。それは作家トルーマン・カポーティがこれから彼の人生の中で生涯学んでくはずのものなのであった。


トルーマン・カポーティ ”あるクリスマス”
 村上春樹訳 山本容子 銅版画1989年12月15日第一刷 
株式会社 文藝春秋 定価1300円