アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ミラン・クンデラ” 存在の耐えられない軽さ ”1984年刊 アリアドネ・アーカイブスより

ミラン・クンデラ” 存在の耐えられない軽さ ”1984年刊
2009-12-22 01:08:37
テーマ:文学と思想

<存在の軽さと重さ>
表題を雄弁に説明するものとして冒頭に次のようにある。有名な件だが、再度引用してみる。

”もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況のしたでは素晴らしい軽さとして現れうるのである。(改行)だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか”

この難解な開幕の辞にもかかわらず、われわれは素直に読んでよいのではないかと思う。この物語は、人生の半ばにして達人とは人間関係においてほどほどの距離を造りうる”強き人”であると達観したトマシュという名の有能な外科医が、人生というものは端的に生きることであること、存在と自分自身の間に距離がないということだと理解するに至る物語である。存在と自分自身の間に距離がないとは、人間では不可能なことであって、この物語ではカレーニン命名された犬の存在が象徴している。それゆえこの決して読みやすいとはいえない小説の末尾の大事な部分で、作者はカレーニンの死の様子をかなり丁寧に描いている。主人公のトマシュとテレザの死を伝える間接的な手法による簡素さとの相違は際立っている。

トマシュが”存在の軽さ”を代表し”強き人”であったように、もう一人の主人公テレザは”存在の重さ”を代表し、”弱き人”の象徴である。それゆえプラハの春以降のチューリッヒで日々に決着をつけるために書いたテレザの手紙のモチーフは、テレーザには存在の軽さ、つまりトマシュのような男の存在が耐えられない、というものであった。題名はここに由来している。

<愛と性と>
この物語は男と女、愛と性の分離に関する物語である。強き人であるトマシュにあっては愛と性は最初から分離している。一方テレザにとってはそれは共産主義社会の中で無名性に貶められた自分自身に固有の名前を与える存在論的な行為に他ならない。愛と性が分離したものとして考えられるのは何もトマシュが哲学なり美学として選びとったわけではなくて、人類が経てきた長い婚姻生活の歴史からくる、――男は女を選ぶべきもの、女は男から選ばれるべきものという歴史的経緯から必然的に帰結するものに他ならない。トマシュはそれを何か男の美学であるかのように考えているが、かかる性愛感は所詮歴史的な理念的な工作物にほかならず、またしてもそこで出会うのは存在と自己との不意一致である。愛と性、存在と自己が分離したままである限り、生そのものを自体的に生きる、つまりカレーニンや――場合によっていはテレザのような、存在と自己が一致した生き方は不可能である。
”存在の耐えられない軽さ”は”軽き人”であるトマシュが、存在の”重き人”によって、生きるとはどういうことなのか、それは生と愛の間に距離がないだけでなく、自分と恋人の間にも、自己と自己の存在の間にも距離がないとはどういうことかを学ぶ、一種の愛の存在論を学んでいくドイツ風教養小説としても読むことができる。

<政治性によって反転する存在の軽さと重さ>
この物語は、本来は存在の軽さがよいのか重さがよいのかという話ではなかったはずだ。存在が重いものであるにせよ軽きものであるにせよ、上記に見たような愛の存在論プラハの春という歴史的な動乱の時代を経て、どのような歴史的検証を受けたかを問う物語であったはずだ。

愛と性の分離という命題にトマシュは何か男と女に関する永遠の課題があるかのように頭脳を使って考えるのだが、それほどの難問とは思えない。プラハの春以前のトマシュたち”反体制派知識人”の生き方が、つまり存在の軽さと思っていたものが共産主義体制下では実は存在の重さだったのであり、亡命という選択肢を選ぶことによって保ちえると考えた信条が、自由主義チューリッヒの日常的時間の中では”耐えられないほどの存在の軽さ”として現れたという歴史のイロニーなのではなかったのか、この点に関する限り、どうも原作者のクンデラはあいまいである。

テレザは何故”弱き人々の国”プラハの現実に帰る道を選んだのか。プラハの弱き人々の世界に共に生きることが彼女にとって”存在の重さ”として感じられたからである。チューリッヒの日常的な時間の中ではかって母親たちによって体現された共産主義者の日常的時間が、存在の軽さとして、言い換えれば固有の自己をはく奪された存在の匿名性、存在の無名性と等しいことをテレザが見抜いていたからに他ならない。それゆえ彼女にとっては自由主義世界に生きるか共産主義社会に生きるかという問題は解決策にはなりえなかったのである。

この小説には二人に劣らず重要なサビナという女性の画家が登場するが、ジュネーブの日常的な時間の中で彼女とフランツという大学教授との間の恋愛が不首尾に終わるのも、フランツの真剣な性愛や恋愛観という”存在の重さ”が、自由主義的な世界の時間性の中では”たえられない存在の軽さ”として現れるというイロニーに他ならない。このイロニーは終生サビナが亡命という選択肢によって逃げ回る限り、パリにおいてもアメリカのフロリダにおいてもロスアンジェルスにおいても付きまとうことをやめない。限りない亡命生活の彼方に自己を失い続けるサビナにとって終生解決できない問いとは、”自分とは何か?”という問いであったはずだ。

<密告社会における愛と性>
プラハの春という政治的事件が真に恐ろしいのは、あれやこれやのソビエト軍の蛮行や政治的統制の在り方にあったのではなく、プラハの春の終焉後に生じた密告社会の現実である。現行体制に同化できない人間は外敵に、とは権力や暴力という手段で弾圧されるだけでなく、プライバシーまでもが完全に国家の支配下に落ちる。テレザのたった一度の情事も二重三重に仕組まれた政治工作員の仕業である。能天気のトマシュの女性遍歴もそのいくつかは政府に筒抜けの”情事”である。なぜこの秘密警察の監視行為が怖いかといえば、トマシュとテレザという二人の間にわだかまる”愛と性の不一致”という彼らの長き間に論議の的であった愛の存在論を十分熟知しえたもののリアクションであったことだろう。

言い換えれば二人のプライバシーを徹底的に貶めることで、二人の性愛観にくさびを打ち込み、道徳的失墜によって、一般市民から反体制容疑者を徹底的に孤立へと追いやるのである。

<二人の死は事故死死だったか自殺だったか、はたまたそれ以外の死か>
クンデラの描き方はどちらでもとれるような結末を用意している。テレザの愛の象徴がカレーニンという名の犬の存在の終焉と一致すべきものであったこと、テレザの愛読書が”アンナ・カレーニナ”であったことは暗に自殺をほのめかしたものと考える。とりわけ最終章は隔てるものの無くなった愛の至福を描きながら至る所に死が影を落としている。むしろ死を予感した”末期の眼”であるからこそ、初めてトマシュとテレザの間の静寂、愛と性の終わりない闘争に終焉がもたらされたというべきなのだろう。

しかし私はこの小説の映画版を見ながら、二人の死には政府工作員の関与を捨てきれないことを書いておいた。スターリン体制後の共産主義社会では、つまり秘密裁判という特技が使えなくなった後は、交通事故死とというものがもっとも普遍的な政治的粛清の手段として常套化した事実があった。
このへんは別に私としてもこだわる必要もないのだ。共産主義社会ではありそうな話であることをほんの少しでも記憶にとどめておくだけでよい。

<結末の不自然さ>
クンデラが追いつめられた二人のために用意したのがチェコの片田舎の田園生活であるというのが、”自動機械の神”めいて納得しがたい。なぜ彼ら西洋人は文明に失望すると、とびきりのカードでもあるかのような”自然への回帰”という舞台設定を持ってくるのであろうか。自然の素朴さであるとか、カレーニンのようなど動物としての自体存在であるとか、良く考えた末の過程の結論としてではなく、思いついたように持ってくる結論が持つ感傷性はやや安易だし、納得できない。

共産主義社会とは都市の政治機構や官僚制を支配しただけでなく、生産と消費という、人間である限りの人間の原存在様式をも支配した。そこに生きる人間の意識構造に変質が加えられた以上、自然が文化や文明とは無関係とは考えられない。共産主義がもたらした人と人との関係が、人間と自然の関係をどのように変え、村落的なあり方の中で 農業的なあり方と人間関係をどのように変えたかを描かねばならなかったはずである。

<第五番目の登場人物である”私”とは何か>
この小説の特色は同一の事件が複数の登場人物によって幾度か反芻されるだけではなく、”私”なる第五番目の途上人物によっても繰り返し反省的に描写される。人生が一度だけで繰り返しえないものであるならば、少なくとも小説的世界の外部に作者が”超然と在る”ことは許されない。つまり通常の小説の実名で決して姿を現さない”作者の眼”というものは欺瞞であると言っているのだ。つまりクンデラの小説では舞台の背後に隠れていた演出者を、半ば強制的に舞台に引き出し、白日のものとし、有限なものとしての存在者としての、その責任性の証を視覚化したものに他ならない。作家的な良心を示すものだろう。


ミラン・クンデラ” 存在の耐えられない軽さ ”千野栄一訳 1998年11月25日 第一刷 株式会社 集英社