アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ――いわゆる意識の流れについて アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ――いわゆる意識の流れについて
2010-01-23 20:52:04
テーマ:文学と思想

40年前に”ダロウェイ夫人”と”灯台へ”を読んだ。とりわけ後者の形式美には驚嘆させられた。当時は意識の流れと呼ばれる手法がよく判らず、小説が音楽のようにも書きうること、小説に非本質的と思われるあらゆる内容を捨象した純粋小説の試みを見せられて、当時大いに驚いたものであった。

ウルフの”波”についてはまた別に書こうと思う。昨夜から読み始めて今日の午前中お出かけの途中立ち寄った喫茶室で63ページまで読んで、40年前と違う手ごたえを感じていた。

意識の流れとか内的独白と呼ばれる手法は、なるほど主観―客観という認識論的な構図の外に設定される神の如き視座を否定し、ひたすら登場人物の内観に徹するという意味では、認識論的には独我論であるとする説明が多いのだが、どうもそうではないらしい。

”波”をして一見顕かなのは、小説の文体が詩的言語に近づいている、ということなのである。独我論写実主義かという文学史的説明では、せいぜいのところ一人称小説の徹底化か認識論的相対主義の説明に行きつくだけなのである。われわれ人類が近代史という過程で成熟させてきた形式――いわゆる散文という形式が真実と対峙する場合に最適か、という問いもまた含まれている。

物事をけっして説明しようとはせず視覚的な豊饒の象徴イメージの奔放な洪水とも言えるウルフが創始し創造した一種絢爛とした文体は、むしろ散文としての小説の死を意味しているようにわたしには思われる。リアリズムの否定などということではなく、当時ウルフが生きていた内的時間の水準――それは正常と異常、正気と狂気の狭間を生きる強靭さを意味したのだが――においては散文では意味をなさなかったのだと思う。

かってウルフは”灯台へ”において闇夜を照らす一条の光を捉えた。その光を”波”間に追って59歳のウルフはウーズ川に身を浮かべた、オフィーリアのように。大いなるものの顕現の先触れとしてまず美が滅んで見せねばならない。彼女が生涯の苛烈な格闘の末に幻視したものこそ、驚くべきストア派的な確信であった。

”この本を書いたことでわたしは私に敬意を払う”(ヴァージニア・ウルフ