アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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回想のヴァージニア・ウルフ”灯台へ” アリアドネ・アーカイブス


回想のヴァージニア・ウルフ灯台へ
神谷美恵子”こころの旅”

川崎修”アレント――公共性の復権森まゆみさんのことなど、そのた雑感
2010-01-30 12:25:00
テーマ:文学と思想

現代思想家のシリーズものの折り込み書評のようなものの中で思いがけない記載者の名前を見出すと面識はないのに、あらこんなところでと、こちらの意図が見透かされたような気持ちになる。森まゆみさんについては、最晩年の須賀敦子との交流を回想した回想録を通じて、それから市井の囲炉端活動家としてかすかに噂を聞き知っている。

”ハンナ・アレントが世を去った1975年、私は大学の政治学科にいて、西洋政治思想史を学んでいた・・・しかし1200人もいる学部に女子は四十人弱しかおらず・・・私はひどく居心地が悪かった。なによりもまず、自分の存在理由、そして居場所を見つける必要があった。・・・大方の女子学生は、今と同じような就職氷河期の中で・・・(種々のモラトリアムに傾斜し:髙田)・・・少数の果敢で正直な女子学生は、運動や恋愛に挫折し、自らを傷つけていた。そんな中で、群れをなすことなく、女性であることを否定せず、この学生時代を<生きのびる>ことができたのは、ローザ・ルクセンブルクシモーヌ・ヴェーユ、そしてハンナ・アレントのおかげである。”(”生活をはげます思想”1998.11月)

”たとえば私は(自分と三人の子供を食べさせるために)せっせと原稿を書いている。ごはんを造り、洗濯物を干す。これは(労働=レイバー)だが、私は(食べるためにだけ)書くわけではない。自分が考えるために、また自由な創造活動として、書きたいものを書く。たとえ原稿料が安かろうと、(仕事=ワーク)となるものを選ぶ。・・・しかしそれだけでは十分ではなく、私は建築の保存を訴え、不忍池の地下駐車場をつくるのに反対し、学校や教育を考える(活動=アクト)にもかかわってもいる。”(同書)

アーレントの有名な、<仕事ワーク>、<労働レイバー>、<活動アクト>のやや難解な概念区分をこの上なく平易に説明しえているので感心したのでここに引く。それからここには典型的なスチューデントアパシーのありようも語っていて興味深い。70年代の中ごろに政治的季節の残滓を斯様にも引きずっているということが、意外に感じた。

私は人間の行動様式を別様にも考えてみる。
仕事ワークとは、人間の目的定立行動、すなわち目的と手段の系において考える合理人の行動様式のことではないのか。より歴史限定的に考えれば、カントの純粋理性批判で描かれたような近代主義的合理的理性の範疇を描くものではないのか。
労働レイバーとは、仕事ワークという行動様式の系が、例えば資本主義という名の流通と消費のシステムの中に組み込まれたときに発生する特殊歴史的様態ではないのか。ここからマルク主主義的な労働概念や自己疎外、物象化現象とかが射程に入ってくる。

活動アクトとは、社会というシステムを支えたのが19世紀においては階級であり、20世紀では大衆や群衆、人民多様に定義づけられるにしても、その同一性の論理から漏れ出ていくもの、排除の構造を絶えず相対化する視点を保持しうるもの、異化の論理であると考えたい。

ここから例えば需要と供給、費用対効果というような経済的範疇による言語の普遍主義化を是認するのではなく、需要デマンドと必要ニーズはどのように違うのか、ニーズとは単に供給に対応する必要というようなことではなくて、自らに欠けているものを理解するという意味での反省的諸作用でもあるとするならば、需要と供給との一般的経済学的諸範疇の論理とは違った系における、人間的活動の一様態であることが了解されよう。またここからニーズをあらしめるものがシーズであることも了解される。需要デマンドと必要ニーズの定義上の違いを理解することが、単なる商業的な興行的活動と異なった人間的諸活動の行為・行動における、”公共性”を理解する鳥羽口となろう。

さて、アーレントである。
川崎修さんの概説書を読んで、アーレントの生涯の全容を要領よく追跡しながら、全体主義社会などいう過去の話題がにわかに現代性を帯びるのは後半の藤田省三アーレント論を引用する場面である。
全体主義とは――

”「難民」の生産と拡大再生産を政治体制の根本方針とする”(”全体主義の時代経験”みすす書房1995年)

――体制なのである。
藤田が全体主義に与えた定義は、超法規的な警察的治安権力の乱用や画一的大衆操作の手法などの一般的な説明を超えて、ファシズム時代下における市民の実存的な基盤の喪失と時間性における流動化現象を説明しえていて、この著者をして最良のアレント全体主義論の要約と言わしめている。

さて、全体主義は完全に過去のものになってなってしまったのだろうか。
21世紀の初期の我が国の昨今の雇用状況は、古典的な終身雇用等の古典的な雇用形態が崩れ大量の非正規雇用者を生みだし、社会の”外”に追い詰められたものの疎外感が新たな種類の犯罪を生みつつあることで話題になった。

正規雇用者の出現と従来型の雇用制度の崩壊によって生み出された新たな”難民”の出現に対して、昨年の年末年始の日比谷公演の設置された避難村などのいわゆる”かわいそう”的な発想が意外に本質的な議論へと発展し論議が交わされることはなかったようだ。労働の非正規性という非常的手段を通じて達成されるコスト削減効果は、税金を払い納税するという健全な市民階級を崩壊させるという意味では、反国家的な行為なのである。18世紀以降の国民国家の良し悪しは議論もあろうけれども、21世紀型の企業のスタイルというものが少なくとも国家やそれを背後で支える共同体(社会)と親和的ではありえないという暫時明らかになりつつある現実を、もう少し国策レベルで(例えば中曽根康弘のような人たちによって)論じられることがあってもよかったのではないだろうか。

たとえば竹中平蔵=小泉的発想によれば、これ以上の法人税率のアップは企業の国外移転を加速化さ日本経済を空洞化させるという。企業は自己の経済的自存か国家への忠誠かを問われることになる、というわけだ。しかし企業が株主や海外の投資家の意思をも代弁しているという意味では国家の一員たる意識の如何を問題にしえるのだろうかという議論もあるだろう。いわゆる企業の国際主義論である。それなら企業が100%グローバル企業に徹することができるかといえば、20世紀が生んだもう一つの特質に注目せねばならない。民族主義テロリズムの結合である。

グローバリズムが自存の根拠としている経済合理性とは一見冷徹なレアリストであるように見えながらその実人間は合理的な選択をするものだという甚だ漠然とした性善説に基づいている。かかるお人好し的経済合理人の発想と世界観に挑戦したのが、先述の民族主義テロリズムの結合である。経済合理性が合理性と必然性を信奉するとするならば、テロリズムとは不意の中断と偶然性の結合である。企業が国家の外で法人税の多寡の妥当性を検討するというのであれば、海外でかかる紛争に巻き込まれたときちょうど中世における僧兵のようなものを自前で抱えるという覚悟が企業にはいるだろう。

経済合理人の発想は自分が合理的に行動するから他もそうするに違いないという思い込みである。合理主義とは内部の論理的蓄積がある臨界点を境に外部に非合理を出現させるシステムである。これはウェーバー流にいえば”魔力”の呪力から解放された近代人が陥ったもう一つの”魔術”であった。彼は常々”悪魔の狡知”ということを語ったが彼の予言は的中した。合理主義はある種の臨界点を境に非合理主義的な世界へと反転する。文明はもう一つの野蛮を生みだす。全体主義と高度管理社会とである。

この問題はいつかまた改めて考えてみたい。
さて、ひとはある選択肢の前に立たされた場合、イデオロギー的な選択を極力禁忌するのであれば、市場原理と経済合理性の論理に従うというのが本当に唯一の判断になるのであろうか。私の経験からいっても営利企業に長年身を置いた人間にとって、正当な理由もなしにみすみす経済的に不都合な方途を選択すれば企業倫理だけでなく個人的な倫理のレベルにおいても居心地の悪いものを感じるであろう。こうした習慣や慣習は長年日本人に身に付いたものであり払拭するのはなかなかに困難なのであるが、アーレントは”思想”とまでは言わないけれども、そうした既成的なものの考え方にほんの少しでも”外部的”な風穴、視角をたがえたものの考え方があれば違った風に現実は見えてくることを教えるのである。

”人間の矜持”

という風に久し振りに彼女に言われてわたしは身が震えるような緊張感にとらわれた。わたしは長いこと忘れていたものを思い出したような気持ちになった。ハンナ・アーレント逝って35年、達成された思想としての質は仰ぎ見るほどに華麗な存在である。反面アーレントとは森さんの言うように何時も共に伴走者のように隣にあって、違った風に考えれば別様でもありうるのではないか、たとえ如何ともなし得ぬ理由から行き詰まったとしても、たとえ自分は駄目であっても複数性の原理に助けられることもありうる相互性、互助性の原理を説く”公共性”の提唱者、わたしたちを励ましてくれる存在なのである。


川崎修 ”アレント――公共性の復権現代思想冒険者たち 第17巻 1998年11月第一刷 株式会社 講談社
#哲学