アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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回想のヴァージニア・ウルフ”ダロウェイ夫人” アリアドネ・アーカイブス

回想のヴァージニア・ウルフ”ダロウェイ夫人”
2010-02-15 17:54:33
テーマ:文学と思想

灯台へ”と同じく四十数年前に読んだこの小説のことは、移動する物語的舞台の至る所で鳴るビック・ベンの時を刻む音のほかは、完全に失念していた。"灯台へ”の場合は詩的形象や形式美のゆえに若い文学愛好家の眼を驚かせたが、”ダロウェイ夫人”の場合は読む者の側の人生経験が熟成するまでは味わうことができなかった。ヴァージニア・ウルフ時に45歳。

登場人物の個性なり思想なりの問題を超えて鳴り響く詩的交響曲!反響し、交叉する、時の交響曲

一言でこの小説を形容すればこうなるだろうか。舞台は20世紀初頭のロンドン、イギリス上流階級のダロウェイ家で開かれる晩餐会、光高き初夏の6月の朝から夕べまでの一日を描く。登場人物は多いが、主要人物はダロウェイ夫妻と娘のエリザべス、クラリッサ・ダロウェイの昔の恋人ピーター・ヴォルッシュと旧友サリー・シートン。家庭教師のミス・キルマンと従妹のエリー・ヘンダーソン。そしてもう一人の主人公セプティマス・ウォレン・スミスとその妻ルクレッイア、セプティマスの主治医のサー・ウィリアム・ブラッドレーである。その他総理大臣にから使用人に至る雑多な数十人の登場人物を擁す。

クライマックスは最後のダロウェイ家の晩餐会であろう。階段を上がって入場する絢爛たる人物絵巻と時の変容。規模は異なるが優にプルーストやランぺドゥーサの”山猫”を想わせる壮麗さと意外性を秘めている。時の交錯だけでなく、セプティスマの自殺と生の再生という、生と死が入れ替わる有名な場面も用意されている。

イギリス上流階級のスノップ性を風刺してはいるがそれだけの小説ではない。物語の最後の場面にリチャード.ダロウェイが自分の娘とは意識せずに若い娘の美貌の面影に耽る場面がある。ようやく意識がかえって彼はそれが自分自身の娘エリザベスであることに気づく。エリザベスはこの小説の中で何度か水の精とユリの花に例えられる。去りゆく最後の二三の客を残して閑散とし始めたホールで向かい合う父と娘のシルエットを、まるで印象派風の名場面のような”瞬間”を、あるいは間遠く見据えながら、クラリッサの旧友サリーとピーターの二人は、遠い昔の青春の日に記憶を手繰りだすような会話を交わす。ここに明瞭に姿を現すのは”歳月”である。

「リチャード(ダロウェイ)はよくなったわね。あなたのおっしゃるとおり」とサリーは言った。「あの人のところに行ってお話ししてくるわ。おやすみなさいって言ってくるわ。頭なんてたいして重要なことじゃないのね」とロセッター令夫人(サリー・シートン)は言った。「心と比べたら」。
「ぼくも行きますよ」とピーターは言ったが、ちょっとの間そのまま座っていた。この恐れは何だ?この恍惚感は何だ?と彼は自問した。ぼくの心を並はずれた興奮でみたすものは何だ?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 なぜならそこにクラリッサが立っていたから。

セプティマスの死が告げられて、死が生へと変容する過程でこの青春のオードのような場面が出現する。”ロセッター夫人”という形容とは、サリーが結婚によりクラリッサより一段下の階級である実業家の階級に属していて、それ以後疎遠になっているイギリス階級社会の現状を含意している。

小説を読むことの楽しみ、そして生きて在ることの歓びの確信、読んだ後と前ではほんの少しばかり人生の間口が広がったように感じさせる小説、ヴァージニア・ウルフの”ダロウェイ夫人”は間違いなくそうした小説の一つである。このような小説に出会えたことの偶然と幸運を感謝の念とともに思いだすことができる、そういう稀有な経験を与える小説である。


”ダロウェイ夫人”ヴァージニア・ウルフコレクション 近藤いね子訳 1999年5月第一刷 蠅澆垢構駛