アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シュレンドルフの『テルレスの青春』

シュレンドルフの『テルレスの青春
NEW!2020-01-13 18:17:46
テーマ:映画と演劇


 ローベルト・ムジルの同名の小説の映画化である。戦間期のドイツ、ギウナジウムが舞台である。男子だけの寄宿舎で繰り広げられる、凄惨なリンチの場面など、ナチスユダヤ人の関係を重ねて描いたことは明白だろう。ムシルの原作は当時、発禁処分を受けたという。

 それにしても、全編モノクロームの不気味な映像である。
 人の行動を規定するものは経済的な要素が基本的な認識だと言う学説が根深く存在するが、ある種の人間にとっては、経済的条件以上に、人の魂を手に入れてそれを思いのままに操るという行為が無限の快楽を与えるらしい。
 同様に、いじめに理由はいらない。いじめそのものに快楽を感じる人間がいるからだ。いじめられる側も関係性のなかで、状況そのものをひさめ、惨め、悲劇的とは観ぜずに関係性の壁を絶対化していく。多くのいじめの事件があるたびに、語られる類似の事柄である。

 この映画の怖いところは、人は関係性のなかで、つまり極端な加害者か被害者へと分岐する極限的な状況を体現した場合は、――いじめいじめられると云う極限的な領域では、時として善悪の観念が喪失する、と云う「発見」である。
 いじめの世界の解きがたさは、いじめの世界が非日常的ななにものかに属しているという点に我々凡人の感受性が思い当たらない点だろう。つまり、何事もなく普段に暮らしている私たちの日常の世界からは、いじめの世界は解き難い謎として現れるほかはない、空間的不連続性の存在である。つまり光が水面で屈折するように、二つの世界の存在と界面の特異性を思い当たらないと云う日常的理性の無意識性にあるだろう。正常性バイアスと云っても良い。
 非日常性とは、この映画のなかでキーポイントのように語られる「無理数」や「超越」の問題に似ている。映画の主人公が直面した課題とは、彼が語るように、無理数虚数のような実在ではない概念が、何故それに立脚した数理や数学に基づいて実際の橋梁や建築と云った強固な構造物が建設されるのか、と云う不条理とも云える問いがある。私は数学が苦手だから、この問題を映画の少年以上に上手く要約することができない。

 この問題は、たまたま私が吉本隆明の『共同幻想論』を読み返しているからそう思うのだろうけれども、私たちは国家や宗教、法律と云う、実在ではなく幻想的な領域に属するものなしには生活を滞りなく行うことができないと云う人類史の過程のなかにある。共同幻想とは、私たちが自分たちの利便性のために仮に生み出したものであるにもかかわらず、ある意味で国家や法律、宗教と云うものは、私たち人民に対して生殺与奪の権利を持っている。表面は道徳者面をしたり冷静な科学者や温厚な教育者の表情を取っているけれども、かかる日常的時間性が非日常的な空間へと界面的屈折を遂げる局面では、気が付くと、私たちは共同幻想に取り込まれ、場合によっては一体化し、完璧に共同幻想の世界の外側に出て思考すると云うことができなくなっている。

 映画の主人公の少年が抱いた無理数虚数に対する疑問は、私にとっては「超越」の問題として考えると分かり易い。非日常性は日常生活に対して「超越」として顕れるが、超越の外側に出ることは可能だろうか。抗いがたい非日常性を定義するために、一旦は外側に出て俯瞰的な視座に立たなければ全貌が見えないと知っているにも関わらず、「超越」の外側に出るとはどういうことを意味しているのだろうか。

 それにしても怖い映画である。人生のある場面において、それが非日常性の方向にある偶然から振り子が振れた場合に中間域が陥没し極端なものだけが迫り出してくる世界に遭遇する。そういう世界に遭遇したときにひとは中途半端な立場を取ることが原理上許されない。加害者か被害者化のいずれかを選ばなければならない立場に追い込まれる。そうしてこの映画の少年が理解したように、非日常性の関門を潜るとき、ちょうど神話の中で死の穢れに触れるたときのように、善と悪の区別そのものが溶解していく。かって数百万人規模のドイツ人とユダヤ人を見舞った運命は、かかる善悪の彼岸のなかで加害者と被害者に分岐していったのではなかったか。
 かかる負の無限循環から如何にしてひとは脱出するのか、できるのか。それは私たちのものの考え方を根底的な基底部分で規定している共同幻想と云う領域的世界を、その外側から見ると云う行為は如何にして可能か、と問うことと同義なのである。

 近代の鳥羽口に立ったドイツの偉大な哲学者インマヌエル・カントが「超越」の問題に直面して、物自体は知りえない、と喝破した十八世紀の事情と少しも変わらないのである。
 私はこの映画を観ながら、同時に哲学的思考を援用して考えながら、知識を用いることの幸せをこの齢になって実感する。たかが哲学、言葉の問題に過ぎないと云う人もいるのかもしれない。しかし、何百万人と云う人間が言葉ゆえに殺戮された人類史の秘密に<言葉>はいま触れている。たった一人になっても、同調者がいなくても、深夜夜が更けるままに一人呻吟しつつカントのように苦しみつつ考える、そして一人の人間として人類史の真夜中の午前零時、ひとり孤絶した氷のような人類の英知にひとり触れる!幸せな経験ではないかもしれないけれども、かかる人間的時間を他に代えようとは思わないのである。