アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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スノビズムと言う名の時間論――プルースト断章・Ⅰ アリアドネ・アーカイブス

スノビズムと言う名の時間論――プルースト断章・Ⅰ
2010-09-27 16:34:50
テーマ:文学と思想

プルーストの”失われた時を求めて”の最終巻”見出され時”お末尾には、人間をして、時の中に場所を占める巨人族のようなものだ、という表現がある。人間を実存としてあらしめる存在の形式であると看破したのは遠くはカント近くはハイデガーだが、プルーストの小説の中で人間存在の形式を表現する動態として繰り返し使われている技法には、例のスノビズムがある。

スノビズムとはとりわけプルーストによって有名になった概念であるらしいのだが、通常それは歴史的概念として理解されているようだ。しかし”失われた時”の全編を埋め尽くしているのがスノビズムの多様な様態であるのであるから、これは語られる対象ではなく語る手法の中に離れがたく埋め込まれた内在的な形式であるとするならば、スノビズムとは人間の存在の形式なのである。人間を人間としてあらしめる固有な形式なのである、と言ったら言い過ぎになるだろうか。

スノビズムとは、外から人間たちに貼り付ける名辞のようなものではなく、人間が在ることの形式、そこでしか人間でありえないような形式であると、どうやらプルーストは理解していたようである。だから巻頭の”スワンの家の方”でルグランタンなる奇妙な中産階級スノッブを描くときですら、かれがレオニ叔母を介護するときマルセルの母やその他の肉親に対して無償の友情を示したかと言うことについても、プルーストは書き忘れなかったのである。

プルーストの場合は、スノビズムと言うべきではなく”汎スノビズム”と言うべきかも知れない。事実”失われた時”という時の巨大な建造物事態が二本の鐘楼、ゲルマントの方とメゼグリーズの方という志向的スノビズムの道程を示している。マルセルの人生遍歴は主要な二本の道、すなわち二本のスノビズムの延長線上に沿って多様に展開し、ここで経験した希望、愛、失望、呻吟、そして絶望と言う、20世紀初頭のパリの地獄巡りをへめぐりながら、最終的には森の中の星型の明け開けの場所で合流する。このへんは何かハイデガー存在論を聴くような感じである。

客観小説としての”失われた時を求めて”の卓越する点は、個的人物造形において、人間の個的個性を同時に階級的存在として描いた点である。階級性といい社会的存在といい時間の多様な断層において描くと言うことは歴史的であると同時に神話的、神話的であると同時に現実的であるという、動かしがたい客観性をその登場人物の一人ひとりに与えることになる。

この辺が通常の俯瞰的な視点から記述する三人称小説あるいは大河小説と違う点である。

個々の人間が実存であると同時に階級的存在でもあるという理解は、階級性が崩壊した明治以降、とりわけ戦後生まれの人間には理解しがたいことである。

話はプルーストから逸れるのであるが、戦後わが国の読書層に一定の影響を与えた”若草物語”や”大草原の小さな家”の一家が同時に強固な信念を持った宣教師一家であることを、本質的な契機として読み込んだ読者がどれほどいたろうか。もちろん詳しい読者ならば彼らの伝記的事実を調べれば解ることであるが、実証的なレベルで言っているのではない。

例題が古いというのであれば、須賀敦子の一連のミラノ物語を読んでいて腑に落ちない点、なぜ最大の重要人物である彼女の夫ペッピーノの影が薄いのか、それについての本質的な議論はされていないようなのである。そのうち書こうとしていたのだとか、早世した死の痛手から回復できずに書けなかったのだとか色々と創造するkとは出来るのだが、ペッピーノは単なるホームドラマの亭主ではなかった。彼は同時にカトリック左派というヴァチカンに抵抗した宗門上の闘士だったのである。”日本人”須賀敦子が結婚したのは、同時に公的な存在であるペッピーノことジョゼッペ・リッカだったのである。

階級性、つまり個的個人を同時に公的存在として描くとはこういうことなのである。
ところで”公的”という概念こそ戦後の日本社会から完全に抜け落ちた概念に他ならなかった。須賀敦子の地味なミラノ物語が爛熟期のわが国の読書界に受け入れられた理由の一つは、彼女の文学が日本には無い人間と社会の個性を描いていたことによるという、穿った見方も出来るかもしれない。

話をプルーストから始めたのでプルーストに戻すと、”失われた時”が19世紀の貴族社会の落日を描いたのはその通りであるとしても、人間存在が階級性、スノビズムその他の社会的概念によりくっきりと色分けされ明示できた最後の時代の名残を描きとめていたのである。

そういう意味ではプルーストの”失われた時”は20世紀文学の源流と言われながら、後ろ向きの小説なのである。時の巨人族といわれる最後の人類、太古の恐竜類の肥大化された印象にも似た残照、滅び行く貴族社会の偉大さに手向けられた餞の詞であった。

”失われた時”というフランス社会の未曾有の巨大な記念碑的な叙事詩に着手し、残された時間を精密にプルーストが見積もりつつあるとき、隣国ドイツでは全く彼の知らない人物と現実が、まるで早生の奇形児のような奇怪な現実が生まれつつあった。その感情を拝した”伍長”的感覚のの無機性において、文学の工場、死の工場、ジョイスの”ユリシーズ”あるいはカフカの幾つかの作品が与える印象にそっくりだったのである。
#小説