アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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書かれざるもうひとつの予感の書(2) ”失われた時を求めて”――プルースト断章・Ⅳ アリアドネ・アーカイブス

書かれざるもうひとつの予感の書(2) ”失われた時を求めて”――プルースト断章・Ⅳ
2010-09-30 07:17:51
テーマ:文学と思想

失われた時を求めて”は話者が最後に1篇の作品を書こうとするところで終わっている。無論、書かれざる作品が現在の残されている”失われた時”とは異なったものと想像している。この前提に立って、この文章は、この書かれざる書を大胆に想像してみようという、ある意味では大胆であり、ある意味では無責任な好事家の企てである。

失われた時を求めて”とは、遥か記憶の彼方、揺籃の地であるコンブレーを舞台とし、マルセルの家から伸びる二本の道、メゼグリーズとゲルマントの方という二つの散歩道が、同時にマルセルの51年間の生涯のメタファーにまで発展し、それが最後には美しい時のトリアーデを形成し、時の刻印をとどめるべく作品に定着すべく芸術家の意志を確認するところで終わっている。

誰にでも在る幼年時代という神話の世界から、それが名の時代言葉の時代、ものの時代と遍歴を重ね、そこから延びる二つの道が合流する森の合流点、その暗闇の森に開けた星型の合流点にたって、存在の秘儀、作者マルセルの生きてあったことの意義が明らかにされる、そのような実存としての書として当初構想されていたのだと思う。

しかし書き進むにつれて”失われた時を求めて”が複雑になったのは、作者マルセルの自伝的要素を超えて時の刻印、”時の場所に位置を占める巨人族”の物語、巨人族の旧約詩篇叙事詩を書くべく、フランスの社会小説の伝統を反省的に踏まえ総括しながら、客観的小説の雄編としてごの現象体を実現させたことにある。実際、”失われた時”は聖書をメタファーとして用いながら、楽園追放の挿話から旧約的地獄めぐりのエピソードを経巡りながら、最後は時の美しいトリアーデの幻影を夢見るところで終わっている。しかし、この大規模な散文の記念碑的な大作の末尾の美しさにもかかわらず、客観小説として描かれた19世紀末から20世紀にいたる歴史的タブローが現出させた時の破壊力には、凄まじいものがある。

しかし”失われた時を求めて”はフランス社会小説の棹尾を飾る客観主義小説の大作であることのほかに、自らの実存を告知する予感にうち震える、存在の秘儀を訪ね、自らの根源を辿る起源史でもあった。第一巻”スワンの家の方”における印象的なスワンが遠慮がちに鳴らす裏木戸の呼び鈴の音と、一連のママンとの就寝劇はこの挿話が大作の臍の緒の位置、つまりこれ以上辿ることの出来ない最深の底部、記憶の底であることを意味している。であるからこそ、第七巻つまり最終巻”見出された時”の大団円において、全ての雑事が醸す騒音が止んだとき、止まることなくずっとなり続けていた基調音の存在が確認されるのである。それは見出される必要はなかった。こころがそれを見、聴くに相応しくなれば聞こえてくる自然の音なのであった。

一人の人間が生きて在ることの根拠、存在の秘儀をめぐってプルーストは一万枚を超える大作において様々の表徴を用いて語った。それの一番有名なのプチット・マドレーヌと菩提樹の茶のエピソードであり、マルタンヴィルの三つの鐘楼であり、呼びかけるものとしての三本の木のエピソードなのである。それは歓びの根源としても理解され、あるときはマルセルの芸術家としての無能力ゆえに、時の風に押しやられ諦めの長い裳をためらいがちに振る女神たちの告別の挨拶なのである。何時の日か自分たちを探し出して時の刻印という呪縛から開放してくれるようにと。

メゼグリーズとゲルマントの道は、卓越した客観主義小説の書き手プルーストと存在の秘儀を求める話者マルセルの物語でもあった。それゆえ”見出された時”において二つの大河が合流する星型の扇状地において、つまり永遠の青年ロベルト・ド・サン=ルーと初恋のひとジルベルトの間に出来た一人娘サン=ルー嬢との出会いにおいて、つまり適当な女性を紹介してくれと頼んだ好き心の意外な展開において、それを見、聴くに相応しい”時”が見出されるのである。プルーストはかってない華やぎの中でこう書く。――”それは私の青春に似ていた”、と。プルーストにしてこの言葉!愛の不具者プルーストが、死期を迎えようとする人間がこれほど純情であったことはなかった。

サン=ルー嬢の登場によって時の円環は閉じつつあった。その時あらゆる世俗の騒音は止み途絶えることのなかったあのスワンの呼び鈴の音が聞こえてくる。そしてその呼び鈴を契機に現実は虚構に、虚構(芸術)は現実にと変化する、凄まじい時の変容を描いたゲルマント大公の晩餐会の描写が重層的に重なり合いながら出現するのは偶然であろうか。呼び鈴こそ巨人族の物語的世界を支えていたのである、遠い呼び鈴こそこの雄渾な旧約敵詩篇を支えていたのである。

失われた時を求めて”の話者が最後に着手しようとした書物とは、それゆえ一つの時の書、時に向けられた純愛の書のようなものであったのだと思う。それはメゼグリーズとゲルマントの方という二つの散歩道がちょうど天空を支えるゴシック建築の二つの鐘楼であるように、二股の道は仰ぎ見る薔薇窓、主祭壇のステンドグラスにおいて統合されるはずのものであった。

一杯のお茶がもたらす至福感はその背後に呼び出されるべき秘密を告知しているのではなかった。それはそれ以上でもそれ以下でもない、人が在るとはそのようなことなのであった。”失われた時を求めて”は雄渾な巨人族の物語を描くべき作家としての位置を自覚するところで終わっている。しかし物語的主人公である話者が遥かに目指した予感の書はそのようなものではなかった。それは愛の予感書のようなものであった。

それはコンブレーでの就寝劇以来、不在なるものへの愛を語り続けたプルースト的時間が描く円環の外部にあった。