アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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書記性と口承性と・Ⅰ アリアドネ・アーカイブス

書記性と口承性と・Ⅰ
2010-10-08 18:05:04
テーマ:文学と思想

書記と口承とは、一般には文字以前の文化において芸術・芸能を伝える媒体の問題として知られている。前記の授業の中で、江戸時代以前の音曲をどのように伝えるのかという明治初期の時局的な問題性の中で、この問題提起は自然な流れだし、特に問題があるようには見えない。音楽が書記性に変化することによって生じる問題の特殊性、つまり芸術的経験の質的転換は、近年になって活性化した話題であるかのようである。

さて、音楽学者の徳丸吉彦先生のお話によれば、江戸期に至る近世の芸能や音曲の多くが平家物語に準拠した語りであり、踊りであったという。平家物語を一個の書物として読むという主体的な行為が標準的な平家との係わり方であったのではなく、ここ近年の特殊なあり方であったという見解がここから導かれる。逆の言い方をすれば、平家を書記性においてではなく、口承性において味わい体験するという契機をわれわれは久しく失ったのである。

勿論平家物語は書物としても、舞台としても今でも忘れることの出来ない共感を残す古典であり国民的遺産であることは間違いない。しかし近代に先立つより長い年月において近代以前の日本人が経験してた感性について、それが失われたことにではなく、失われたというにことすら気付かない、ハイデガーならばきっとこういったと思うのだが――近代の”存在の忘却”現象、に驚かされるのである。これは人間の感性の自由度を考える現代の芸術においてその理念を揺るがしかねない問題であると思う。

こうして単に芸術・芸能の経験を伝える媒体としての道具的理解である書記性と口承性という問題は、なにやらソシュール言語学におけるラング(語)とパロール(声)や、シニフィアン(指示するもの)とシニフィエ(指示されるもの)という対概念の問題にも似ているようであるが、ここでは深入りしない。

さてハイデガーは西洋的知を、主として”制作知”ということで理解した。制作に対応するものがギリシア的な実践の形式としては”仕事”概念に対応し、ここから行動-仕事-労働の三区分を導いたハンナ・アーレントの”人間の条件”における言説は有名である。西洋的知の標準形は特殊なあり方だというのである。

また”悪名高い”プラトンイデア論が、主として”みること”において五感の視覚としての能力に準拠した認識論であり存在で存在論であったことは、ことの是非は別として理解しやすい。人類の理想として常に語り続けられたギリシア思想を相対化してみる手口には、正直驚いたものである。

問題は、五感の何れが卓越するかという問題ではないだろう。また五感を超えたアリストテレスの共通感覚とは、五感を超えた第六感のようなものでもないだろう。そこでは認識や感受の問題が変容する質的に違った人間の経験になるのだろう、という予感がする。
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