アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カント"永遠平和のために”について・Ⅱ アリアドネ・アーカイブス

カント"永遠平和のために”について・Ⅱ
2010-10-10 22:48:22
テーマ:文学と思想

2-3 公共性とは何か? 
 第2追加条項の”公表性”と付録2の”公開性”は、共に公共性の固有な側面を、前者は権利としての公共性を、後者は他者受容のあり方としての公共性を語っている。
 公共性については、斉藤純一がその著”公共性”の中で以下の三つに整理している。
①政策的枠組official、②共通感覚common,③公開性open,である。

2-3-1
 "啓蒙”論文の中で大学教授や職位において語ることが理性の私的使用に該当することは既に述べた。②のcommmonも常識と言うように理解するとすれば、既成性に基づいて考えることは即ち他律となって、これも理性の公的使用に該当しないことになる。

2-3-2
 公開性とは情報の開示に尽きるものではない。
 人間であるとはローマ時代においては人の間にあると言う意味であるとされる。人の立場になって考えることが出来るか、ということ、思惟の拡張の論理は想像力の問題なのである。公開性なり他者性とは自我を確立した後に獲得されるべき付加的ななにものかではなく、そこにおいてこそ人間が初めて人間に成り得る実存的な空間なのである。

2-3-3
 カントは思考することの自由と、表現することの自由との間にある差について語った哲学者である。思想の自由についてはギリシア時代以降ストア的な理想も含めて多様に語られた。単に自由に考えることではなく、それを公開性の場で公表することにカントは人間にとっての本当の意味での自由の意義を認めた。

2-3-4
 公開の場で表現するとは、批評があると言う意味である。批評する、鑑賞するという行為はギリシア的な意味での”制作知”とは異なった”普通の人間”のあり方なのである。カントが公共性(公開性+公表性)と言うことにこめた意味は、人間の思考するあり方がもはや学者や哲学者という固有な人々の独占ではないということなのである。

2-3-5
”永遠平和のために”には訪問権という不思議な一章がある。
 国家概念とは理念としての世界国家もしくは国家連合に統合される過程であるにせよ、自然状態ではなく法治状態であることの象徴として国家概念はカントにとって敬意を払うべき対象である。にもかかわらず、球体としての地球は有限なるものとして諸民族諸国家の固有な生の在りかたを規定しながら、他に配慮しつつある間-主観的”世界性”である。

2-3-6
 カントは、一つは自分自身で考えること、二つは相手の立場になって考えること(英語のunnderstandは相手の基に立つという意味である)、三つは一貫して自分自身であること、を考えた哲学者であるが、”啓蒙とは何か”は第一に、”永遠平和のために”は第二の拡張の論理を、すなわち想像力なり構想力の問題を提起している。ちなみに第三は、純粋理性批判実践理性批判時代のカントの肖像である。

2-3-7
 カントが最晩年に一連の政治論を書いた本当の意味は何だろうか。
功成り名を遂げたものの余技ではなかったことは間違いない。感覚や理性・悟性とも由来の異なった構想力という人間に本源的な能力を通して他者性の問題を、さらには世界市民の生きてあることとしての永遠平和論を通して、フランス革命後の世界の右傾化の世俗と教権に抗して闘った、一人の老いたる啓蒙主義者の姿の一徹を見ることが出来る。

2-4 最晩年のカントの位相―-公共性・共通感覚・芸術の役割
2-4-1
 ”公表性”が意味するものは何か、語り残された話題についてもう一度考えてみよう。
 人間は公開的な場において自らを主張する、これは人間としての権利でもある。公共の場でお互いを語りうるとは、共通感覚のようなものが前提とされなければならない。ところで共通感覚とは五感の次に来る第六感のようなものだろうか。むしろ五感を五感として成立させる前提となるもの、超越論的な場の論理のようなものではないのか。

2-4-2
 ところで五感には外的なものと内的なものとがある。前者は視覚、聴覚、触覚であり、後者は味覚、嗅覚である。
 前者は、それぞれ視覚言語、聴覚言語、触覚言語とも言い換えることが出来、伝達コミュニケーションの手段である。しかし人間の表現行為は主題的な言語行為のみに尽きるものではない。一方私秘的な味覚や嗅覚は伝えることが出来無いという。人は食べ物の好き嫌いを他者に説明できるだろうか?とハンナ・アーレントは問う。カントはコミュニケーションや公共性、つまり書記性言語の論理を超えて、未踏の地を目指して更に先に進んでいったのだろうか。

2-4-3
 この最も私秘的なもの、この他に代えがたい個的なものこそ実存につながっていた。
 私的な好みと言う問題は、どこかで芸術における鑑賞的態度に似てはいないだろうか?最もプライベートな問題でありながら、同時にそれを越えて芸術的感動が伝える感動の世界、インマヌエル・カントの偉大さは、理性を公共性や世界性の方に拡張しながら、他方では個的な実存の道をとおして人と人とのつながることの意味、つまり公共性のあり方を考えたことにある。

2-4-4
 カントにとってこの世の中で、それ自身が何のために存在するかとは問えないものが二つあった。一つはそれ自身を目的として扱い決して手段として扱ってはならないとされた人間の存在である。もう一つが”美”なのである。

2-4-5
 わたしたちは美を通して芸術作品に感動するとき、感動の質はあくまで私秘的なものであり他に伝えがたいものであると思う反面、それを単なる私的な出来事であると言い切ることにも釈然としない。芸術作品の感動には何か神秘な客観的な感情が伴う。もしかして芸術とはそこに措いてこそ人間が人間になりうる場、すなわち現存在がそこで自らを開示する、ギリシア的な公開性と公表性の場としてのアゴラ的発想の記憶と、どこかで深い繋がりがあるのではないのか。

2-4-6
 芸術的鑑賞と言う最も秘められた私秘的なものと、公共性という最も開かれた人間が人間でありうる場についての不思議な人類の記憶が手繰り返される!音楽鑑賞にしても読書にしても作品と自己という近代主義の二元論的に切り離されたフロセニアムアーチ型の芸術鑑賞の方法と、プラトンの国家論において語られた”政策としての芸術”との乖離は今日余りのも大きい。われわれが通常芸術の名も基に理解しているものとは18世紀以降のパトロネージの崩壊と芸術家が市場原理に晒された結果生まれた、消費としての芸術、娯楽としての芸術の別名に過ぎないのではないのではないだろうか。

2-4-7
 人間存在とは、まず人間というものがあって、自らを豊かにするために芸術があるのではない。芸術が個人に与える固有な経験とは、そこでしか人間でありえないような根源的な経験なのである。
 批判期のカントはギリシャ時代以降の”みること”に準拠する理想としての理性的人間について語った。その個人とは同時に叡智の声を自らの内面に聴く実践的な理性でもあった。しかしその普遍的な現象界と叡智界を貫く18世紀的理性人の有り方にはなお掛替えのない個性の声が不足していた。公共性から実存へ、最晩年のカントが取り組んだ課題がおぼろげながら姿を現すかのようである。


2-5 時代の病としての分裂症、構想力、日常性の病いとしての”いじめ”社会の誕生 
2-5-1
 わたしたちは精神分裂病がどのような病気であるかをおぼろげながら知っている。それはアリストテレスとカントが共に主張した共通感覚の病なのである。分裂症患者は若干の喜怒哀楽の表現もするし論理的であることすら可能である。むしろ主義主張の強固さは症例の特徴であるとさえ言えるほどである。彼らに欠けているのは普通にそこにいることの感じ、あえて言えば他者に成り代わって考えることの不全性である。

2-5-2
 私たちはこの世に生れ落ちると間もなく学校と地域社会という名の競争社会に編入される。そこで尊重される能力とは他者から差異化する己の卓越性であり、過小評価される能力とは他者への共感、他者に成り代わって考えることの能力、カントの言う構想力の後退と言う事態である。

2-5-3
 もちろん学校教育は建前として他者に成り代わることを”同情”として推奨するのだが、教条として教えられる言説は子供たちから考えることの自由と”外部性”を奪ってしまう。

2-5-4
 外部性の消滅、それ自身の仲に差異を含まない単一性とはカントが最も恐れていた事態であった。外部性の喪失は一種の恐怖として人々を支配する。支配的な言説に自らを一致させ、思考する事と自由であることの放棄、内部的均一性は”排除の論理”を産む。排除の論理とは外部性の喪失に対応する反作用、補償作用であることの理解無しにはありえない。”いじめ”の世界の成立である。いじめとは日常性の病なのである。




【出典・参考資料】
・インマヌエル・カント ”永遠平和のために/啓蒙とは何か” 中山元訳 
  光文社古典新訳文庫 2006年9月 初版第一刷発行
・〃          ”永遠平和のために” 宇都宮芳明訳 
  岩波文庫 1985年1月第一刷発行
・〃          "啓蒙とは何か” 篠田英雄訳 岩波文庫 
1950年10月第1刷発行
・M・ウェーバー”職業としての政治”、”職業としての学問” 脇圭平訳 岩波文庫
・斉藤純一 ”公共性” 岩波書店
ハンナ・アーレント ”カント政治哲学講義” 浜田義文 監訳 法政大学出版局 
1987年1月 初版第一刷発行
・石川文康 ”カント入門” ちくま新書 1995年5月第1刷発行
・ジャン・ラクロワ ”カント哲学” 木田元他訳 1971年8月第1刷発行
・久保紀生 ”ハンナ・アーレント――公共性と共通感覚”2007年1月初版 北樹出版