アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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三島由紀夫の死 アリアドネ・アーカイブス

三島由紀夫の死
2010-11-25 19:02:08
テーマ:文学と思想

三島の市谷での決起から40年が経つという。彼の死は謎めいているとされるが。それほど複雑だろうか、それほど彼の動機は神秘めいているであろうか、私にはそうは思えない。彼の死に過剰な意味を求め過ぎるのは、現代人の自信のなさの現われとしか思えない。要するに想像力が怠慢なのである。

憂国”や”英霊のこえ”を読んだのは彼の死の前だったのか後だったのか、70年安保締結の前だったのか後だったのか記憶が曖昧である。70年安保闘争は60年代の政治的季節の掉尾を飾るには精彩を欠くものであり、政治的退潮の流れを止めることができるような出来事は生じなかった。1969年1月18,19日、安田講堂・攻防戦以降の時間的経過の中でわたしはのろのろと都電がはしり変わらない日常がだらだらと続いていくことがひどく不思議でならなかった。私は三島事件は、委託された全共闘運動であったのだと思っている。68年の全共闘運動より過ぐる25年前、終戦の詔を聞くあの夏の蝉のかまびすしい喧噪のなかで、或いは気の遠くなるような天空の蒼さの記憶の中で、あの日もまた期待しうるべきことは共に何一つ起こらなかった。愛国少年が期待したような日本国民の蜂起はなかったし、青年将校の決起もなかった。一部の国民は皇居広場前に土下座して懺悔したが、何を悔いているのか本人も理解してはいなかった。”終戦”と呼ばれた名称の事態の曖昧さ、余りのあほらしき腰砕けの中で国民と天皇は平和を寿いだ。いわゆる象徴天皇制の誕生である。平和の至上の絶対的な命題化の果てに死者の怨念は封印されていく。1968年の夏、三島の脳裏にはこの光景が繰り返され、あの終戦の熱い夏がだぶってイメージされていたに違いない。

そういう意味では、60年安保闘争が樺美智子を持ったようには70年安保は殉教者を持たなかった。三島はあの時と同じように、平常化が”正常化”として進行化する過程で、ひとり日本の現実を、高度に管理化され無機化されていく日本の現実の四方を見まわさなければならなかった。そうしてあの夏の、25年前の国民的な経験としてなしえなかったことを、ひとり孤独に決断したのである。

しかしナイーブな文学少年の感性と如何に遠い政治的機構に三島は連帯を求めなければならなかったことか、自衛隊という。半面、民主主義制機構が持つ政治的冷徹さは2・26や5・15の決起青年将校の見せた天皇制の冷徹さと重なっていたに違いない。そういう意味では三島自身に幻想は無かったし、履歴の上に何ひとつ不可避的に生じたものはなかったし、何一つ予想外のことも生じなかった。全てが意図したかのごとく計算通り予定通り、かって上演されるはずであった終戦の日の修羅能をなぞることだけが彼の前に至上命題化されただけだったのである。歴史は繰り返す、ただし二度目は茶番劇として、というイロニーを彼が知らない筈はなかった。悲劇を、喜劇としてしか演じることが出来ない関係の絶対性の中で、理解を拒むような観念的想像の演劇的空間が彼の前に開ける。

三島の複雑な心理を忖度して理解しようとする者はいただろうか。むしろ理解を阻まれて在るという自らの在り方こそ戦後の三島の存在様式を成していたのであるから安易な共感は彼自身の拒むところでもあった。三島は自らの孤独な死を、皮肉なことに老婆のように無様に、そして孤独に、そして過剰に死んだ。それ以上に哀れであったのは三島の複雑な心理を忖度することもなく、似ても似つかない死を死んだ無垢な青年の憐れさであった。むしろ三島に唯一の咎あるとすれば一人で死ななかったことであろう。


                  ◇ ◇ ◇


東大全共闘がまだ健在であったころ三島はこう呼びかけた。

全共闘諸君!君たちがひとこといま、天皇陛下万歳ととなうるならば、君たちと共闘しても構わない”、と。あるいは昔のことで正確な引用になっていないかもしれない。

誰もが三島の冗談だと思った、よくても三島の諧謔か高等なイロニーの一種と思ったに違いない。しかし彼はこの時本当に真剣だったのである。市ヶ谷に楯の会のメンバーとともに突入し、志が破れて自決したのちも誰もが皮肉屋の三島らしい悪い冗談、後口の悪い文士劇としか思わなかった。この日三島は、あるいは2・26の青年将校たちよりももっと真剣で、もっと孤独だったのである。

回顧の対象として戦争を振り返る時そこには無垢な青年の死があった。それから25年たち高度成長期の端緒に就こうとしていた60年代後半の戦後において、平和においてこそおびただしい血が流されうるものであることを三島は理解していた。平和の死とは、日本や欧米諸国の繁栄の裏側でいまもまたヴェトナムで多くの血が流されているという観念的理解だけでは不十分だろう。日本の戦後の平和が死者たちの忘却と云う罪の上に築かれてきたことへの原罪意識という理解だけでも不十分だろう。戦後経済が立ち直りを見せ高度成長下で行政や企業態組織が肥大化の現実を見せる中で、なにか例えようもない異質な現実が形成されつつあったのである。そこには何か魂を殺すようなものがあったに違いない。その実体をやがて我々は90年代以降の現実と社会の中に見ることになるわけだが。

ここには、戦争と平和を硬直的に対比せずそ、こに等しく通低するものとしての死のペルソナをまざまざと平和の時代に投影した、あるいは死の位相を透して戦後の繁栄を相対化しようとする永遠の青春の人としての三島の特異な位相があった。かかる観念の複眼性を与えたものこそ、戦中にも戦後にも安住の地を見出せないマージナルとしての三島の戦後的な位置があった。

三島とともに戦後を代表するもうひとりの巨人・吉本隆明はその頃意外と近いところにいた。かれは密かに詩の中に書きつける。――

”平和においてこそ、多くの血が流される”


単に戦争と平和を対比する戦後の平和思想の理念との何という大きな隔たりであろうか。

戦争と平和を観念的に対比させることで戦後の平和運動の理念は夥しい死者たちを観念性の中に放擲した。かって皇国日本を信じた愛国の少年のように、戦後の議会制民主主義と正常化路線はいままた、”正常”ならざるものとして日常的時間の拡散の中に見捨てられつつあったのである。

闘いが終わり、始発の都電がレールを軋ませたとき、都心の風景が再び通勤客の意匠で覆われたとき、折口信夫の”かみ、やぶれたまふ”の呟きは、国敗れた山河ほどにも孤独だったのである。その都電もまた密やかな軋みを記憶の中に残すだけでいまはない。