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芸術における”伝統”と”近代化”・Ⅰ アリアドネ・アーカイブス

芸術における”伝統”と”近代化”・Ⅰ
2010-12-07 00:09:58
テーマ:文学と思想

芸術における“伝統”と“近代化”
――ギリシャ時代以来の夢である“公共性”の謎を解く――

 




1.はじめに――芸術概念をめぐる現代史の条件
 芸術に、特に東洋芸術というものがあるわけではない。芸術と非芸術があるのみである。東西両世界間の芸術的諸課題を語る場合に問題を複雑にしているのは、東西の地域的な問題と、芸術が近代社会の中で被った変容を腑分けせず一緒に論じていることが大きく関係しているようだ。言い換えれば西欧の近代市民社会の中で生じた芸術概念の変容を、――それは既にいち早くかのフリードリッヒ・ニーチェが“悲劇の誕生”の中で指摘した、芸術の主知主義的な傾向すなわちソクラテス主義が次第に主導性を発揮していく過程なのだが、――その両者の違いをそのまま東西間の差異と混同して論じられるきらいがある。とりわけ我が国における伝統的芸術芸能論や広範な日本人論などは、この種の誤解を前提することなしには成り立ちえないという皮肉な事情がある。また、ここに言う西欧近代社会に特異的に成立した芸術とは、プラトン風の“鑑賞”と“見ること”に卓越した芸術、ちょうど舞台空間がプロセニアムアーチを境に主体と客体、演じる者とそれを見る者としての観客に二分化されているのだが、現代人が自明視しているほどには、ことほど左様にいつの世も演劇空間がこのようなものであったわけではない。被写体と見る者としての主体の分化に以上に卓越した、デカルト以降の哲学的二元論に深く規定されていると言えるのである。以上は、18世紀以降の芸術を取り囲む認識論的構図、パラダイムである。
この試論では芸術と近代化の問題を、以下二つに分けて論じることとする。一つは芸術が近代市民社会の中で被った変容、すなわち西欧社会でのみ成立した極めて特異な形式である近代的純粋芸術概念に関わる芸術本質論であり、二つ目はとその対極として成立する芸術の社会・政治的興行の問題である。芸術は単に、博物学的に標本的に保存されるわけでも、一部の愛好家の中で純粋芸術として秘教的に保存されるわけでもない。芸術を保存継承し、それを現代のニーズの脈絡の中で生かし、社会的興行として共同体社会の中に経済的に位置づけるというマネジメント活動もまた芸術を語る場合の重要な課題なのである。とりわけ現代社会においては芸術の社会・歴史的な効用、機会主義的な利用の問題は単に商業主義的な興行の意味に止まらず、過去の現代史の不幸な政治的利用の問題をも“芸術の近代化”の一変容形態として踏まえながら論じることとする。

1-1 芸術の社会・歴史的効用
 芸術概念の社会的・政治的効用、すなわち芸術が人類史の向上に直接やくにたつのかといった論議はそう新しいことではない。現代史は不幸なことにナチズム等全体主義の興隆のなかである顕著な役割を果たした。あからさまなラジオや映像を通した国民意識の高揚である。戦後においては芸術のかかる悪しき役割を反省する過程で芸術そのものに内在する問題性であるよりも、主としてそれを利用した悪しき意識・よき意識の問題として理解された傾向があった。ここから労働者や窮民の解放を人類史的理念を掲げることによって社会主義の建設に相応しい芸術、すなわち社会主義リアリズムなどというものがあるかのように大真面目に語られもしたのである。これが笑い事ではすまないのは、民主主義的な芸術などというものが芸術評価の指針の一つとして疑われもせず、芸術=ヒューマニズムという考え方が自明の理として当然視されている現状である。芸術の近代化という問題を論じる場合は、単に古典の現代的な解釈とか復興とかの純美学的な範疇の問題に留まることは困難であり、芸術の政治的利用あるいは社会的利効用という過去の不幸な歴史を踏まえた議論を避けては通りにくいのである。なぜならナチズムによる芸術のプロパガンダにしても、それが芸術の近代化の一つの凡例であったことは誰しも否定できない側面を持っていたからである。芸術の近代化の本質的な問題とは、資本主義化の方向性を不可避な流れとして前提し、それと追従する形で芸術を修正する、といった機能主義・機会主義的な概念とは区別されなければならない。

1-2 芸術の権力依存性
 さて、通常われわれが”芸術”という名において理解する芸術概念の成立もまた新しいことではない。芸術に加えて通常アカデミズムの名において理解する諸学問なる概念もまたこれに加えても良いのかもしれない。芸術そして諸学問もまた近代社会にさきだつ中世社会においては僧院や王侯貴族によって保護育成された事情は否めない。芸術や学問は権力非依存性を理念として語るにも関わらず、権力や共同体に依存することなく己の効用を発揮しえた例はないのである。ローマ帝国ビザンチンにおいてもこの両者の関係は変わらない。わずかに古典古代のギリシャにおいてはポリティカ(政治学)やオイコス(経済もしくは家政学)からは独立したものとして芸術や学問の普遍性を語る伝統が存在した。これは人類史上まれに見る例外的事象として考えてよい。しかし近年まで存在した学問の自立性の理念は、ヨーロッパの諸大学の理念として今日形骸化したとはいえ、なお伝承されていたことは特記されて良い事象なのである。しかしギリシャにおいてもことがさほど単純ではなかった事情は、プラトン哲人政治なる理念の宣揚において明らかである。
 哲人政治とは周知のように芸術や学問に制限を加える政治的理念のひとつのあり方なのであるが、プラトンほどの人にしてなにゆえかかる不合理な学説に陥ったかと考えるよりも、プリードリッヒ・ニーチェがその処女作”悲劇の誕生――音楽の精神からの”において指摘したソクラテス主義つまり理論的人間的知の誕生がギリシャ社会に及ぼした影響をわれわれは深く勘案してみなければならないのである。プラトンの”クリトン”や”ソクラテスの弁明”などを読むと、これが後の哲学者や聖人の像の一範型になった感がするのであるが、彼が死刑になった理由についてももう一度先入見を捨てて虚心に、反省的に考えてみる必要があるだろう。つまり学問的な純粋性に対する政治権力や世俗的な無理解といった単純な理解では不十分なのだ。ひとつはアルキビディアスとの遭遇で暗示される先験的理論人の場合における理論的志向と実践の間に中間項を許容しないラディカリズムが孕む政治上の問題。ふたつはソクラテス主義すなわち理論的人間的知=人間的知を等値と考える人間的思考の自由度に加えられた制限の問題である。後者の観点はわずかにアリストテレスがその”自然学”において、質料因・形相因・起動因・目的因と四つに分類されるべきことを提唱したが、これは長い間必ずしも適正に理解されてきたとは言えない。

1-3 主知主義型としての近代芸術の特性と芸術概念の矮小化
 アリストテレスが人間的動因を四つに分けて提起したのは少なくともソクラテスプラトン主義の持つ思惟の狭隘さに対する抵抗であったことが長い間等閑視されてきたかのごとくである。”饗宴”などを通じて理解されるプラトンの豊かな芸術的感性の溢れるような瑞々しさが、なにゆえ哲人政治などという形式的で暖かさのない無機的な思考を帰結したかの理由は、人間的知の多様さを理論的人間ゆえの限定的理解に、言い換えればプラトンが終生ソクラテス主義の影響を逃れることが出来ず背反的に引きずられていた事情を暗示しているのかもしれない。人間的知とは、少なくともプラトンにおいては形相因あるいは目的因として限定的に理解されていた可能性が高い。しかし形相因がとりわけ目的因の論理が芸術の論理と整合的な関係であるかどうかはなおよく考えてみなければならない。形相因――すなわち芸術が、ある種の観念的な、先験的な命題の具体化、詳細化としての表現に尽きるのかという問題は決して自明ではない。また目的因――すなわち目的と手段の系において最大効用を求める最適解の考え方が芸術とはもっともそぐわない考え方であることは明らかであろう。プラトン哲人政治のもつ不自然さは、彼の本来的な瑞々しい自然的感性との齟齬、理論的理解の不十分さ、に起因するように思われるのである。もっと言うならばアリストテレスニーチェが言うように、ギリシャ的な伝統の矮小化はソクラテスプラトンから始まったとも、若干の留保条件を付け加えれば主張しうるのである。

1-4 現代芸術の特性と後期資本主義様式としての価値一元化社会
 さて、以上の論議を踏まえて現代社会を考えてみると、プラトンアリストテレスが遭遇した事情とあまりに酷似しているかのようである。否、現代社会とは形相因的な考え方をも欠いた社会、ソクラテスプラトンが生きた後期ギリシャ社会よりももっと限定化された、目的因のみが卓越した社会、目的因のみの思考を人間的知全般と取り違えた特殊限定的な社会である可能性が高い。なぜなら資本主義とは貨幣価値を分母とする価値一元的な社会であるからだ。芸術を論じる場合はいま生じている事態を単なるあり得た可能性の一つと静態的に考えるのではなく、相当程度に異常な社会が成立しつつあるという感性が必要である。なぜなら価値一元化社会とは一万年に及ぶ人類史の歴史においても二つとある類似物を持つ社会ではないからだ。民俗学が明らかにしたところに寄れば如何なる原始的な社会においても社会的ヒエラルキーを司る価値は単一ではない。わが国においても卑弥呼に代表される神話的古代社会に於いてすら政治権と祭祀権の二つを持つ。現代社会に社会や共同体を一元的に支配する価値原理は存在しなかった。現代社会とは芸術や学問に於いてすら貨幣価値に換算することが可能な、ヘルベルト・マルクーゼのいう一元的な社会が成立をみているのである。芸術と近代化を論じる場合は、以上の歴史的な経緯を踏まえた論議が必要なのである。