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芸術における”伝統”と”近代化”・Ⅱ アリアドネ・アーカイブス

芸術における”伝統”と”近代化”・Ⅱ
2010-12-07 15:09:14
テーマ:文学と思想

2.現代社会における古典と近代化
 徳丸吉彦の音楽理論――テキスト(対象性)―メタファー(隠喩)―コンテキスト(脈絡の用語を借用して伝統と近代の関係を少し発展的に考えてみたいのであるが、論議が多少恣意的になるのをどうかお許し願いたい。

2-1 芸術と近代化、その美学的理由
さて、伝統と近代化の関係は、テキスト(伝統)―メタファー(解釈)――コンテキスト(表現)と読み替えてみよう。ここで”作品”と呼ばすあえて中性的な響きを持たせた外来語”テキスト”を用いている理由は、作品をその諸属性から理解させず言語で表現された限りでのテキストという意味に理解しておく。なぜかかる読み替えが必要であるかといえば、芸術作品を取り囲む社会的あるいは歴史的な付帯的諸属性から切り離した方が芸術作品としての解釈の自由度は遥かに高まるからである。ここから古典を通じて現代の問題を、現代の問題性を通じて古典の意義を、つまり古典の再解釈が可能となる。ここにいう再解釈に該当するものがメタファーである。次に再解釈(メタファー)を表現の場に据える論理がコンテキストとなる。以上は古典と現代化の問題を踏まえた、芸術になぜ近代化が必要かの美学理論上の理由である。

2-2 芸術と近代化、その歴史的・社会的理由
 現代芸術はまた、先に述べた一元化社会の進行の過程で、生き残る芸術と断絶させられる芸術とに分けられる。この過程はある意味で過酷な適者生存の世界である。滅びの危機にさらされた芸術や少数民族の民俗芸能が適者生存の論理から無価値であるかというと、そうはいえない。現代社会をとりまく様々な理由から生態系の多様性の絶滅化に類比できるほどの過激な進行で現代は数多くの古典芸能や少数民族の芸術・芸能が滅びつつあるという。かりに芸術・芸能を生み出した社会なり共同体が例え滅んだにしても、先ほどのテキスト論の考え方を踏襲すれば、芸術がテキストとして保存されることを最低の条件として、再解釈・再表現という人間の創造的な営みを通じて、滅びに瀕した諸芸術・諸芸能の伝承が可能となる。ただしこの場合標本的保持・保存と創造的伝承がどう違うのか、両者の関係を問うことが必要となる。以上は、芸術の近代化がなぜ必要であるのかの、社会学的・歴史的な理由である。


2.結論――芸術・芸能の創造的伝承と博物学的標本的保存
 以上の論議を踏まえれば、近代社会において芸術が撮りうる様式は以下の三つになると思われる。
(1) 芸術芸能の標本的保存活動、つまり”テキスト”として厳密に保存する。我が国の能楽や茶道等の家元制度における保存・伝承の形態である。
(2) 現代社会の動態を見合せながら、機能主義的な整合を模索しつつ、古典を現代の観点から評価する。いわゆる芸術の近代化、現代化の形態である。一般にはオピニオンリーダー、あるいはジャーナリスティックな観点とも言うことができる。
(3) 芸術を”公共性”の概念より捉え、(2)と一部は重なるのであるが、テキストの標本的解釈とも現代的な解釈とも異なった芸術の創造的な再現を試みる。古典の発生起源、芸術の現存在的起源に立ちかえり、その当時の社会の中で芸術がどのような役割を果たし、社会共同体内部にに臨場的に生きていたのか、あるいは歴史的時代における時代の”神の顔”を創造的に再現することである。かかる創造的な解釈を芸術における”公共性”と名付ける。この場合の”公共性”とは、政治的あるいは社会学的な概念ではなく美学的概念として理解されたい。

“公共性”の概念は公衆として、世論として、例えこの世には実在的社会的存在形態としては存在しないものであっても理想の読者を想定した理想の読みの如きものとして、つまりそれが一定の読書階級として一定の無言の抑止力を発揮する社会的存在として創造しうる。すぐる二百年前、啓蒙主義時代におけるジャン・ジャック・ルソーやインマヌエル・カントといった個人の活動を背後から支えた無言の抑止力とはこのようなものであった。歴史的時代の”神の顔”、公共性とは、ほんの一握りの知識人、ヨーロッパに遍在した読書階級の無言の圧力のようなものであった。しかし時と所によってはほんの一握りの人々の言論が時代を左右しうる力を持ちうるのである。ルソーやカントが怯むことなく伝統的な権力と十分に拮抗しえた理由は”公共性”の理想に生かされておればこそ、なのであったし、20世紀の不幸な時代経験としてヴァイマール期におけるマックス・ウェーバーが絶望的に訴えた当の対象こそ、狭義にはドイツの読書階級、広義ではヨーロッパの理性であった。ウェーバーの悲劇は、ヨーロッパ的理性の終焉を自らの身を持って体現した点であろう。これについてはまた別の論述が必要とされるであろう。
 最後に結論めいたことを言えば、これら三つの立場の中では(3)が一番すぐれている。しかしこれら三者の関係はその何れかの優越を選択的に論じることが大事なのではなく、それぞれがそれぞれに相乗的に必要なのである。(1)の伝統主義が例え標本的博物館的展示方法に甘んじ、芸術的意識としては古色蒼然としたものであったにしても、作品が“テキスト”として言語化されている限りでは、何時の日か天才の創造的解釈の出現によって甦る日がかならず来るであろう。批評の伝承的創造性とはそのようなものである。
(2)の立場については、その手法が芸術・芸能、古典の継承が時代に迎合するものであり、学的には客観性を欠き、単に現代の問題を読み込むことに終わったにしても、芸術芸能を生きながらえさせ、アクチュアルな問題的を提起させ、一定の観客層を保有しうるかぎりにおいて、その試みには敬意を払わなければならないだろう。(3)の立場は、(1)と(2)の立場を共に生かしながら、ギリシャ時代以来のあの長い夢であった芸術における“公共性”の謎を、いまようやく解くことが出来るのである。


【参考文献】 

・徳丸義彦 九州大学大学院芸術工学府HME・2010年度前期講義”芸術文化と政策”より
清水裕之 九州大学大学院芸術工学府HME・2009年度後期講義”芸術文化と施設運営”より

アリストテレス詩学”藤沢令夫訳 中央公論社“世界の名著8”昭和47年初版
・山本光男“アリストテレス――自然学・政治学岩波新書1992年第8刷
・フリードリッヒ・ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳 中央公論社“世界の名著57”1991年第4刷
藤田健治“ニーチェ中公新書 昭和60年第18版
竹田青嗣ニーチェ入門”ちくま新書 1999年第9刷
・インマヌエル・カント ”永遠平和のために/啓蒙とは何か” 中山元訳 
  光文社古典新訳文庫 2006年9月 初版第一刷発行
・〃          ”永遠平和のために” 宇都宮芳明訳 
  岩波文庫 1985年1月第一刷発行
・〃          "啓蒙とは何か” 篠田英雄訳 岩波文庫 
1950年10月第1刷発行
・M・ウェーバー”職業としての政治”、”職業としての学問” 脇圭平訳 岩波文庫

・斉藤純一 ”公共性” 岩波書店
ハンナ・アーレント ”カント政治哲学講義” 浜田義文 監訳 法政大学出版局 
1987年1月 初版第一刷発行
・石川文康 ”カント入門” ちくま新書 1995年5月第1刷発行
・ジャン・ラクロワ ”カント哲学” 木田元他訳 1971年8月第1刷発行
・久保紀生 ”ハンナ・アーレント――公共性と共通感覚”2007年1月初版 北樹出版
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