アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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愛のシェイクスピア・中 アリアドネ・アーカイブス

愛のシェイクスピア・中
2011-06-11 09:33:07
テーマ:文学と思想

 シェイクスピア四代悲劇と呼ばれるものは厳粛で無残で冷酷な、救いのない悲劇です。神も仏もなくある種の強烈な敗北感と無常観で終わるのですが、それゆえにこそ人間の英雄的な行為を伝えていて、悲劇ならではのシェイクスピアの人間賛歌が込められているともいえるのです。

 いっぽう、”十二夜”を始めとする喜劇群にはもう一人のシェイクスピアがいます。取りわけ忍従を偲ぶ女性像の創出においては複数の戯曲に共通するものがあって、悲劇以上の作者の息遣いと気配、そのままの臨場感をすら舞台の背後に感じることが出来るのです。

 その典型が“十二夜”のバイオラです。海難事故で離ればなれになった双子の兄を探す妹の話を縦軸に据えながら、横軸にヒロイン・バイオラの片思いの話が進行し、ひとつの織物を紡ぎ終えるように、めでたしで終わるのですが、喜劇固有の女性が男性に変装するシェイクスピア劇固有の種々の取り違え劇が笑とユーモアを生じ、その結果、泣き笑いとしかいえないほどの深い人生の真実に到達するのです。

 喜劇”冬物語”のハーマイオニのの場合はもっと苦渋に満ちたものです。一方的に王の誤解に晒される王妃の受難劇、――これは悲劇”オセロ”のデズデモーナに大変似たシチュエーションなのですが、シェイクスピアが悲劇、喜劇を使い分けた天才であったことの重要な証左になるでしょう。

 デズデモーナもこのハーマイオニも自らに振りかかった悲劇をまるで自然災難としての受難として受け止めるかのような高貴さがあります。この世の中で生じた出来事が必ずしもこの世の中では有意味なもとして完結しえるわけではないということ、人生の短さと真実の時間幅の非対称性についての深く高い洞察が、シェイクスピアの女性には共通してあるようです。中途半端なパッピーエンドでは人間性への侮蔑にしかならないことをシェイクスピアの人間洞察はかなり正確に捉えていたと云えるのです。

 喜劇”冬物語”と悲劇”オセロ”の類似性は高貴な人間が如何にして下劣な人間性をむき出しにした人物像に転落するかという人生の深い真実、滑稽でもあれば悲劇的でもある固有な人生観を、とりわけ男性像において象徴的に捉えたことにおいても共通しています。そのような意味では、忍従する女性像ジューリアと下劣な意思によって下等な人間に転落してしまう高貴な青年のの危うさを描いた喜劇”ヴェローナの二紳士”は、プローティーウスという男性像において男心の変わりやすさと一貫性のなさを、半面喜劇、半面悲劇と云う意味において共に描き出しえている点において、傑作と考えて良いでしょう。

 かく考えるならば、これは従来の四代悲劇論と呼ばれたものについてもその人間解釈において大幅な改変が生じるものであるかも知れません。例えば悲劇”ハムレット”における悪王クローディアスは単に血も涙もなく一方的にハムレットによって誅殺されるだけの全く同情に値しない人間であるのかどうか。むしろ感情の起伏の激しさゆえに自らを悲劇に追いこんでしまうリア王マクベスと共通するものがあるのではないかとも思わせるのです。この性格的な弱点は王子ハムレットにこそ言いえることであって、人を殺めても良心の呵責一つ覚えない彼の異常性格は正義と云う名のイデオロギーの持つ真の恐ろしさを伝えているという意味で現代的であり、中世的人間像とは異なった性格の人間を表出させたという意味で、従来のハムレット像は根本的に改変される必要があるのではないかとすら思えるのです。

 シェイクスピアの戯曲はかかる固有な男性観、女性観を踏まえて許しの物語を展開しているともいえるのです。

 それにしても喜劇と呼ばれる一連の作品群に通低する彼固有の女性像をシェイクスピアは如何にして、誰から学んだのでしょうか。このような女性像を創出出来る人間とは半端な人生訓に満足することなき深い洞察と、長い人生経験にさ支えられることなしにはあり得ないという気がします。何よりもまた一朝一夕にはいかない成熟した人間の見方なしにはあり得ないという気がするのです。

 複数の戯曲を通じて共通するここまでの女性像を描き得るとは、実際にモデルになる人物をシェイクスピア自身が見知っていたという気がしてならないのです。それほどシェイクスピアの喜劇と呼ばれるものには背後に作者のしっかりとした気配と実在とを感じることが出来るという意味で、もはやシェイクスピア伝説と云う名で神秘化して語ることは出来ないという気がするのです。

 シェイクスピア悲劇は作者の存在が感じられないほどの作品の独立性と自体性を持った一個の比類なき傑作と言ってよいでしょう。一方喜劇はその背後にまごうことなき一人の人物の気配と確かな実在を感じさせるという意味で、シェイクスピア文学・解釈の画期をなす存在とまで云えると思うのです。