アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

パトリシア・スタインホフ”死へのイデオロギー” アリアドネ・アーカイブス

パトリシア・スタインホフ”死へのイデオロギー
2011-07-02 15:20:01
テーマ:文学と思想

 わたしは1960年代を語るものとしては如何なる社会学的な学術論文よりも遠藤周作の”沈黙”と村上春樹の映画”ノルウェイの森”が適当だと思っている。後者についてはこの大部の本を読んでいないのでそれなりに受け止めて欲しいが。とはいえ昨年封切られた映画はあくまで印象だが、作者・村上春樹の原作の雰囲気を忠実に再現したものであると思う。

 何れにせよ、この両著作は、一方が核心的事件の前を、もう一方が事後的な核を描いている。”沈黙”は同時代の時間性を予感として、”ノルウェイの森”は事後的な経緯を。私が注目したいのは、作品が持つこれら作家の主観的な意図を超えた、文学作品が時代と歴史に与えた影響についてである。その影響の否定的な面についてである。この両作に関するわたしの評価については別に書いているのでここで触れるわけにはいかない。
 

 





 パトリシア・スタインホフの”死へのイデオロギー”は、60年代を象徴する連合赤軍の事件とその顛末を語った研究である。連合赤軍とはまた別の血縁関係にある類似組織、パレスチナに一時拠点を持っていた日本赤軍の兵士であった岡本公三へのインタヴューを手掛かりに、長年月に渡る実地踏査の結果がこの本である。

 著者は岡本公三の思想と行動や、とりわけこの書の主題である浅間山山荘事件と榛名・妙義山中における一連の集団処刑のおどろしきドストイエフスキー的な物語を、誰しもにも起こりえる物語として書きたいようだ。そこには親和性を持つ作者として連合赤軍とそれに参加したメンバーに関して断罪する気持ちはない。アメリカ人の一研究者であることからも解かるように第三者の目で見ても興味がもてて納得のできる見解が得られることをこの書の書かれた動機としている。

 この一連の粛清劇においては、60年代末期から70年にかけての戦後の学生運動の混迷期における閉塞的な状況が関係している。海外の研究者として当時の全学連以降の複雑な反代々木系と呼ばれた諸派の動向について説明がもっと必要だったと思われるのだが、やむを得ないところだろう。何故、学生運動における武闘が火炎瓶や鉄パイプから銃剣や手榴弾へと変化したのか。その分岐点は1969年の赤軍派のブントからのゲバルトを通じての独立にあったという指摘はその通りなのだが、ゲバルトにおいてヘルメットや鉄パイプ等の武具が如何にして象徴から実質的な具体物への変貌していくのか、これは同時の学生運動に関する心理的・内因的な動機付けだけでは不十分で、共食い的な縮小再生産を重ね終末期へと向かっていた60年代の諸派の分裂したあり方と苛烈なイデオロギー闘争の俯瞰的な描写がどうしても必要とされるところであろう。

 ゲバルトの意味変容は、私見によれば次のように生じたと思う。
 戦後の学生運動は、68年の全国規模の学園紛争に至るまでは、50年代においては全学連、それ以降は反代々木系と呼ばれる諸派によって主導されていた。これまでの学生運動を特徴づけるものは、革命のための前衛政党のミニチュア、学生版を造ることであった。つまり評価は分かれるであろうけれども、学生運動家とはその実存的な規定においては職業革命家がモデルとされていたことは否めない事と思う。プロフェッショナルを小憎らしいまでに表現したのが革マル派ではなかったかと思う。

 これは当時においても意識されることはなかったのだが、日大・東大闘争に象徴される学園紛争が与えた意味は、単に量的な拡大ばかりではなかった。あるいは軍縮や国際問題と云った革新政党の闘争スローガンを踏襲するものではなく、学費値上げ反対から大学当局や教授会のもつ前近代的な体質の改善と云う日常闘争、あるいは労組型の諸権利獲得の闘争でもなかった。それは実に実存的な問い――すなわち、学生である事とはどういう意味であるかと云う問いと政治活動を密接に統合することにおいて生じた。これは従来型の学生運動家によっては一度も問われたことのない問いでもあった。

 この意識されざる問いが重い意味を持ち始めたのは安田講堂の攻防戦を経過し文部省-大学当局の日常化路線が決定づけられたころ、つまり学生運動においては冬の時代の到来が決定的な段階に達した頃からであった。その日から運動を継続するのかなし崩し的に日常性への復帰路線を辿るのか、あるいは自分なりの中間的な小道を開拓するのかという厳しい選択と岐路に一人一人が立たされたのである。

 大学のロックアウトが解除され、仮面劇のように大多数が過去を忘れたとき活動家たちが内面の砦に主体的に閉じこもらない限り、従来の路線の徹底という方向で解決を図ろうとしたのは自然の成り行きであろう。事物の持つ象徴性は象徴を支えた民衆の支持を失ったとき、ものそのものとなる。このときゲバルトが象徴的な意味を超えて、ものそのものとしてのザッハリッヒとしての意味を、つまり実質的な銃剣や手榴弾に変貌したのは驚くにあたらない。政治運動においては、運動を担う理想や大前提が失われるとき、大同小異の諸派分立の中で主導権を取るとは、より過激な路線を採用し主張することと等しい関係にある。

 連合赤軍に参加したメンバーの顔触れをみるとき、そこには従来の活動家像とは異なったペルソナが顕著に感じられる。幼いのである。それは連合の一翼を担った赤軍派についてよりもより多く革命左派――すなわち京浜安保共闘のグループについて云える。後者は直接の関係は無いにしても全共闘運動のシンパや反戦青年委員会にそっくりなのである。赤軍派がゲバルトに意味変容において従来の諸セクトを出し抜いたのように、革命左派は全共闘運動の持つ素人性の極限態として、その日常闘争面を乗り越えるものとして生じてきた点が非常に興味深い。

 こうして最初の殺人は印旛沼事件として革命左派の側において生じる。この時越えられない一線を越えたことは明らかである。同時にブント的な流れをくむ多少職業的な革命家としての訓練を受けた赤軍派において生じていないことは注目されてよいだろう。革命左派はその素人性ゆえに、両派の統合の無意識的な条件として通過儀礼として、手土産めいた犠牲の羊が必要とされていたのではなかったか。そして浅間山中で両派の統合が果たされたとき、その互換的相互作用いおいてその違いは消えていった。死と云う生贄を要求するイデオロギーと云う名の大王の前で、幹部と兵卒、男女差、忠誠心と自己批判、あらゆる個人的な差異が自壊作用の果てに消えていった。

 とはいえ、この外国の研究者の著作によって教えられることは多い。例えば浅間山山荘の銃撃戦と粛清劇の関係、前者が後者の意味を踏まえる意味で闘われた思想劇であったこと、特に坂口弘においてはそうであったことを明らかにした事の意義は大きい。坂口弘と云う一人の孤独な活動家の内面的思想劇の軌跡をえることでどんなにこの不名誉な事件が持つ意味が変わりうることを可能性のひとつとして持つことが出来たか、わたしはスタインホフ教授に敬意を奉げる。そして坂口を裁いた当時の世相と中野裁判長以下、司法の無内容さが示した皮肉な非対称性を、つまり無言の憤りを言外に綴って、この書はともかくの終わりとしている。わたしは重ねて教授に日本人として礼を云う。
 最後にもう一つ、岡本公三らによるテルアビブ空港銃撃戦は榛名・妙義の粛清劇がなかったならばなくてもよかった、という指摘である。文献的にはパレスチナにいた日本赤軍の代表である重信房子がいち早く表明した連合赤軍に関する批判的コメントや岡本のインタヴューによってわれわれはこのことを知るわけである。

追記:坂口たち連合赤軍のの比較的良質の部分に欠けていたのは、彼らが観念的に考えるか限りでの”革命”にいたる過程で巻き込まざるを得なかった他者の運命の他者性を如何に考えるか、と云う点であろう。
 浅間山荘銃撃戦において殉職された二名の警察官にもそれなりの固有の生活史があったはずである。単なる国家権力の先兵としてだけの位置付けでは済まないものがある。ましてやかれらの企てた”革命”なるものの正体が幻想であったことが分った今となっては。
 テルアビブ空港の銃撃戦においても多数殺戮されたのは無関係なプエルトリコ系の巡礼者たちであったと聴く。社会に矛盾を感じるものがなにゆえ底辺にある差別された弱者を巻き添えのしなければならなかったのか、この点に考えが深められるのでなければ連合赤軍派の事件は思想として完結しないと思う。