アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルクス共産党宣言”にふれて・Ⅱ
2011-07-03 19:46:32
テーマ:文学と思想

(前項につづく)
 思想家の個人的な言説と書かれた書物が表現している思想とは区別されなければならない。今となっては解らないのだが、マルクスは”唯物論”ということでどう云う事を考えていたのだろうか。マルクス主義の今後の発展を考えた場合わたしは唯物論という呼称が障害になると考えるが、唯物論的なものの考え方が誤りだと云うわけではない。唯物論的なものの考え方は依然として有意義でもあり現在でも有効でもあるのだが、それを唯物論なる学説として、あるいは教条として語ることとは違った問題なのだ。もしかしたらマルクスは方便として当時の政治思想の未成熟的な状況を踏まえて戦略的に使ったと考えることは出来ないだろうか。
 例えば一例を取るとすればあの悪名高い上部構造論なのだが、観念的体系としての上部構造は下部構造によって規定される、と云うのはよい。しかし原因と結果の因果関係ように、上部構造が何であるかは全て下部構造によって規定されるとはマルクスは考えなかった。周知のように彼の場合ある程度の相互的な作用を認めたうえでの下部構造の優位なのである。逆に言えば観念性や思想と云うものが全て分母である下部構造の如何によって決定論的に規定されると考えるならば、そもそも革命理論としてのマルクス主義自体がが無意味なものとなる。それはさておき、それならいわゆる上部構造とはマルクスの物心二元の考え方では、単純に観念の領域に属していたという従来の考え方で良いのだろうか。

 観念には、恣意的な観念性と社会的慣習化されたものから法律や学問のような存在まで広範で、一律には論じられない。通常物心二元論と言われる場合は前者の恣意的な観念性が主として考えられているようだが、マルクスの場合は後者の観念の体系を指していると考えられる。そのように考えるとマルクス唯物論とは本人の主張は別としてもマルクス主義の発展的筋道においても、はなはだ誤解を孕む呼称であると云う事になる。個人や集団の恣意的な観念性の対概念としての唯物論ではないのである。マルクスの上部構造とは物心二元とは別様の、自体性を持つような観念の体系であり、厳密には物心何れにも属するとは言えない。物心何れとも異なる第三の領域、マルクスは物心二元の領域をあらゆる思考や論理展開の前提とするという唯物論を世界観としてあるいは学説として当初より宣言していたがために、自らが展開し、結果として表現化された思想が、表現されたものとしての当の意味について、名付けることも対象化して考えて見る事も出来なるという、皮肉な事態に陥ったのである。