アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

パヴェーゼ”故郷” アリアドネ・アーカイブス

パヴェーゼ”故郷”
2011-08-22 08:46:25
テーマ:文学と思想

 

 チェーザレパヴェーゼの”故郷”である。パヴェーゼの本は、そんなに読んでいるわけではない。
 ”故郷”といえば”月と篝火”であり、”丘”と言えば ”悪魔のいる丘”だろうか。”月と篝火”にはむしろ西部開拓史時代のセピア色に色あせた回顧的な抒情のようなものを感じた。”丘の上の悪魔”にはフェッリーニに感じるような宗教に対するアンビヴァレンスな態度を感じる。そして”故郷”にはその両方があるようだ。
 故郷――といっても、パヴェーゼの場合郷里の懐かしさという感じはストレートにはない。故郷とは、自らに疎遠であるがままに留まった異郷である。”故郷”の前半においては都市トリノの風景がさりげなく描かれるが、これが後半の二つの丘のふもとに展開する村の風景との対照を成している。都会にも田舎にも安住し得なかった散文詩のような感じを与える。語り手の設定は”機械工”と言うことになっているが、田舎の原風景を受け止める感受性は”知識人”のそれであり、そこに有意な象徴性を感じることは出来なかった。
 それにしても”故郷”で想定された双丘の懐で展開されたドラマは現実に起きたことだろうか。これを真面目にレアリスムの立場で読んでも肩透かしを食うだけではなかろうか。若きパヴェーゼの中に償うことの出来ないような青春の傷痕があって、その埋葬の儀式を描いた寓意、という方に取った方がいいと思う。そのように考えると、”機械工”の設定は作者が考えているほど成功していない。
 田舎の都市化の現実の中で、”機械工”は近代化の尖兵として侵食と腐食の象徴として読むことが出来る。錬金術にも似た化学反応は都市と農村の中間域にある二人の青年――タリーノと語り手、によってもたらされる。都市という近代の概念を経過しなかった二人の帰郷がなかったならばこの惨劇は起きなかったに違いない。この物語は行為をする人としての語り手の都市から田舎への移動があり、次に見る人としての客観的受動性としての語り手の惨劇の報告があり、それだけに留まらず都市化した田舎者タリーノと農村にノスタルジーを描く知識人のアンビヴァレンスを描いて、どうにもならぬファシズム期の知識人のどちらの世界にも属しえない不在を描いたような気がしてならない。

 ”故郷”は田舎の閉鎖性を描いたものではないだろう。太古の、夏の豊穣への犠牲の奉げもののように無残に刺殺されるジゼッラの神話的時間とパラレルに近代化の中で虐殺される”故郷”を描いている。そういう意味では”機械工”とは象徴と言うよりも、記号と考えた方が良いだろう。なされた犯罪行為において誰しも無関係と言うわけではない。語り手と同質のもうひとりの人物エルネスト――彼もまた”機械工”である、彼が村では唯一の理性を解する人物として紹介されていること、”僕は村の人々に理性を教えようとしてきた”という述懐の救いのないイロニーを読みとって欲しい。

 パヴェーゼは、村の祝祭劇めいた惨劇を聖化するために泉のほとりで戯れるジゼッラと語り手のボッティチェルリ風の形象を与えている。”水”の因縁はめぐって最後の惨劇を誘発する”聖なる泉”となる。キリスト教よりもずっと古い宗教の起源を思わせて、この場合もパヴェーゼの文体は重層的である。