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久野昭”葬送の倫理” アリアドネ・アーカイブス

久野昭”葬送の倫理”
2011-09-10 10:06:37
テーマ:文学と思想

 
出版年月日が1969年3月31日のやや古い本である。後書きをみると戦没者慰霊についての深い言及があり、とりわけ”きけわだつみのこえ”等の学徒動員の記憶がこの本の基調にある。経歴に1930年生まれとあるから終戦時は15歳であり、戦中派と云うよりは一つ後の世代にある。このことが当然であるよりも、私の記憶の中ではむしろこうした考え方をする人間は60年代当時少数派になっていたと云う事は云えると思う。なにせ当時は北山修の”戦争を知らない子供たち”!という歌が流行っていた時代であり、一国の首相がもはや戦後ではないと口に出してからでさへ十数年が経っていた、と思う。60年代とはその後の時代とは異なり始めと終わりにおいて変化の大きな時代だったのである。

 そうした時代的背景を思い出しながら読むと如何にも時代が若々しかったことが解る。私たち昭和二十年代の世代にはない終戦直後に生きる青年の初々しい気概が、ストレートに表現されていて懐かしく感じられるのである。

 書物の内容は葬送の倫理をめぐるプラトンから柳田国男に至る東西の文学や民俗学等を駆使した浩瀚なものなのであるが、読む進むうちに何処となく西田哲学の論理を感じていたら、やはりハイデガーの哲学が出てきた。特に戦後評判が悪かった田辺元と学徒動員をめぐる、同時の京都大学の雰囲気が情熱をこめて記述されており、それだけでも貴重な情報に接しえたという感じがする。

 田辺哲学が戦時体制に寄与したなどというレベルではなく、当時の学徒動員の青年たちが求めていた”死ぬ理由”を代弁するイデオローグであったことがよく解った。誰しもが不意の日常的時間を中断され死に直面した時、その理由を彼らになり変って代弁しえた者がいたことを、そのことだけを持って非難できるだろうか。明日死んでいく人間に対して平和主義の論理を説くことはどのような場合も例外なく倫理的でありえただろうか。天皇制や殉死の思想の非人間性や非合理性を教示してやることが死に逝く人間に対して人間的な行為であると云えたのだろうか。そんなことを考えさせられた。

 しかし考えて見れば戦後のイデオロギーの転換は民主主義と云えば聞こえはいいのだが、戦死者を犬死にも等しい敗者としての集団的忘却と云う事象で処遇することの上に築かれたうえでの戦後の繁栄ではなかっただろうか。靖国問題が何時までも尾を曳くのは参拝するにせよしないにせよ、不二のものとしての人間の死を、政治的手段において語ろうとするわれわれ戦後人の姿勢の中にこそあるのではないか、そんなことをこの本を読みながら感じた。

 この本の著者によると、死に向かい合う態度には三つあると云う。
 一つは、人間の死を、自然として受け入れる態度である。自然主義的な見方と云っても良い。ここでは対象はあるものとして名指され定義される。定義される限りにおいて我々によって思考されうる。
 二つは、ハイデガーの自覚的存在論である。死を追い抜くことのできない可能性として自覚的に選択する立場である。
 三つ目は、死を選びうる可能性として考えるのではなく、死を生の中に取り込んで一体化する道である。対象の論理が自らの論理と構造的に一致する。この場合死は”存在”ではなく”当為”となる。

 三番目の立場は解りにくいかも知れない。対象性の論理が思慕の対象として、あれやこれやの選択以前の唯一の恋慕の対象と化す時、主客分立以前の主客合一の神学的な観点が生まれる。

 戦争とは何か、戦争の仕方も教わらないまま慌ただしく戦線に駆り出され、祖国のために命を奉げさせられた青年たちの、絶対的受動性という無残な立場とこれは等しいのである。生か死かを問う問いそのものが存在しない極限状況における無言の青年たちの願いを田辺哲学は聴き届けた、とでも言うべきなのだろうか。

 久野昭の60年代後期における”葬送の倫理”はある意味では時期外れの最後に花開いた戦後における密やかに語られた”特攻の哲学”なのである。戦後の繁栄を謳歌する中であらゆる価値の相対化は久野の云う第三の立場を極めて分かり難くしている。それは遠ざかりゆく時間と忘却のせいなのであろうか。否むしろ、絶対的受動性としての対象との無媒介的な同一化の論理は20世紀後半以降のテロリズムの論理と極めて近い関係にあるとも云えるのである。これは著者が予想しえない点であったかもしれない。そういう意味では”葬送の倫理”は批判的に検討するに値する極めて現代的な事象なのである。