回想の堀辰雄―― ”風立ちぬ” について アリアドネ・アーカイブス
回想の堀辰雄―― ”風立ちぬ” について
2011-12-13 12:05:43
テーマ:文学と思想
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/Tasuo_Hori.jpg/180px-Tasuo_Hori.jpg
久し振りに臼杵の古い町並を散策し、家に帰ってから野上弥生子のことを思い出していたら、連想は飛んで、堀辰雄の軽井沢の方向に行ってしまった。
七十歳を過ぎた弥生子が、軽井沢で結んだ京都学派の哲学者・田辺元との交流生活は有名である。当時の田辺は戦争体験を曳きづって失意の最中にあったか。それとも哲学は世相を超越していたか。
ふたりは、”風立ちぬ” がどの程度念頭にあっただろうか。弥生子の男勝りの感性の質を想う時、一概には言えない気がする。
”風立ちぬ”の魅力は、衆目の一致するところ、”死の影の谷”の章であろう。肺を病んでいた恋人が療養生活の果てに亡くなって大分たってから、ある夜、知人の家に招かれた帰りの山道に、ふと山懐に灯る明かりにそれが自分の家だと気付く場面がある。あれほど痛切な経験であったにもかかわらず自分が忘れかかっていることに軽く驚く場面である。
こうして堀は驚くことに、昔の恋人の思い出よりも、かつての唯一の恋が自分をどんな遠くにまで連れてき、かつ曠野に置きざらしにしてしまったかを、暗澹たる思いの中でまざまざと回想するのである。
この場面の恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。死んでまでも生者をここまで虜にするとは、死者への敬意は別としても、許されうることなのだろうか、そのように思った。
この場面は、有名なアンドレ・ジッドの ”狭き門” の末尾の文章を踏まえている。曰く――
” 目を覚まさなければいけないわ ” ・・・・・ランプを持って女中が上がって来た。
部屋の暗さが、まざまざと浮かび上がってくる場面ですね。宗教性と云うものが一面人間を如何に高めるかと云う一方で、人間性をことごとく残酷に損なってしまうかを描いた問題の場面であると思っている。
”風立ちぬ” は、川端の ”伊豆の踊子” とならんで、青春物語等ではない。”伊豆の踊子”は、誰も云わないけれど、冒頭からあからさまに感じられる成人の濁った眼差しを無視してはありえないし―― ”雪国” の島村と同質の眼差しですね――、”風立ちぬ” は恋や愛が届かない、真夜中の絶対零時を描いている、と云う点で意味がある。それにしても、――
軽井沢。――
肺を侵された不治の病ということが二人を近づけた。愛とは感性の営みなのではなくて優れて知的な営為であることを二人は理解しただろうか。戦前の死の記憶を曳きづりながら還暦を遥かに過ぎて明日でもおかしくない不意の来客を予感しながら、まさに死に縁取られ囲繞された死の円陣の中に絶対的孤立無援の中に屹立する二人の立ち姿において、上州の山間に木霊のように響き合うものを想像することが出来るのかもしれない。