アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鏡花と谷崎の魅力 アリアドネ・アーカイブス

鏡花と谷崎の魅力
2011-12-13 13:26:28
テーマ:文学と思想

 先日、”歌行燈” のことにふれたときに感じたのは、映画や小説の出来不出来を越えた問題である、と思ったわけです。

 それは、単に ”歌行燈” が、多様な日本の技芸や古典芸能を含んでいると云う事もでもないのです。長く見積もれば能楽における室町期以来の数百年の伝統が、低く見積もっても歌舞伎に対する新派が形成されて以来の、近代的な意味での芸術成立以前の、芸術と暮らしが一体となったところに成立する、慣習化され習慣となった庶民の民俗史、というものを考えなければならないのです。

 泉鏡花には、近代の愛の純粋性を突き抜けたようなところがあります。愛を突き抜けるとは一方では死ですね。他方では妖怪や仏教渡来以前の土俗的な神々の世界ですね。前者には ”婦系図” の世界があり、後者には ”高野聖” や ”夜叉が池” の世界があります。それぞれに近代の文学にはないもので大変に魅力的です。

 川端の ”伊豆の踊子” や谷崎の ”春琴抄” さらには 堀辰雄の ”風立ちぬ” などの現代小説を素直に読めないのは、読書人としての私自身の感性の質の問題もあるでしょうけれども、近代を経由しているかいないかだと思うのですね。鏡花には近代を経過したものの濁りが感じられないのです。

 私がなかなか川端が好きになれないのは日本人なら持っている、通常は祓い清めと呼ばれる、感性の忌や穢れなるものに対する興味の持ち方ですね。これは三島にも共通に云えることです。猥雑さと至高にして至純なるものの奇妙な結びつきによる混在、それが魅力にもなっているのでしょうけれども上手く馴染めません。事あるごとに日本美や日本的な伝統を追求したと賛辞される二人なのですが、私には日本的にはあらざるものと映じます。日本的感性以前のもの、よくいって日本的境界域の美学ですね。二人とも自国よりも他国の理解を気にしました。

 この二人の特性は、”蓼食う虫” 以降の谷崎の知的で、意識的な営為をみるとその違いを鮮やかに読みとることが出来ます。近代日本文学の最高峰とも云える ”細雪” の達成は、やはり近代的な意味での小説の出来不出来を越えたものです。逆の云い方をすれば、近代の芸術概念にとらわれない意味を小説という世界に具現したと云う意味では、その意識的、知的に追求した営為において谷崎は紛れもない近代人ですし、”細雪” は優れて意識的な近代的な小説なのです。作者のパーソナリティが君臨する近代小説の概念をも激しく震撼するものでもありました。谷崎の近代における、近世の発見は、それが一度失われたものにならなければなりませんでした。

 泉鏡花の魅力は、谷崎が知的に意識的に成さねばならなかった知識人としての営為に無縁であったことでしょう。鏡花は、かかる意味では近代人ではありませんでした。そこに鏡花の幸せがありましたし、谷崎のように必要以上に戦闘的である必要もありませんでした。近代とは何であるかの定義にもよると思いますが、鏡花の世界においては近世的世界の空間序列がまるで文化遺産でもあるかのように奇跡的に保存され、近代の自意識に汚されていないのです。そこが鏡花が他の近代の文学者とは違った感銘を与える由縁なのです。