アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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栗山民也 ”演出家の仕事”――受動的能動について アリアドネ・アーカイブス

栗山民也 ”演出家の仕事”――受動的能動について
2011-12-29 14:22:11
テーマ:文学と思想

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 この本を読みながら演劇とはみよう見真似で遣って行くほかはないものかな、と思った。栗山さんの多様な出会いを率直に語った半ば自伝史である。前に取り上げた鈴木忠志の同様の理念性とはまた対照的な演劇経験論である。通常保証される身分の安定をも顧みず若い人たちが演劇を目指して行くことへの励ましとなればよい。何となれば、演劇は素晴らしい仕事なのだから。
 栗山が傾倒した晩年の井上ひさしの姿が印象に残った。ひさしは”父と暮らせば”を宮沢りえの映画で、”ロマンス” を大竹しのぶの映像で見ている。いずれも素晴らしい作品である。何時かは井上文学を本格的にやってみたいなと思っているが、現在のところそのままになっている。井上文学については今後評価は上がることはあっても下がることはあるまい。
 さて、栗山の演出論だが、受動的能動とも云える独特のスタンスが参考になった。俳優は台詞において、いかに上手に、真に迫った台詞を語るかではなく、相手役の台詞と所作を自在に受け止めて、そこから自分の台詞なり演技を引き出す、というものである。パフォーマンスよりは、初動の状態における受容条件が俳優の演技を決定する、というのである。これは何も演劇だけの問題ではなくて、普遍化できる一般則を秘めている。なぜなら演劇とは自他を越えた共労の空間なのであるから、受動的能動の半歩後退した微妙な間隙のずれ、その微小時間の歪を利用して空間に活力を導入し、現存在としての演劇空間の変容を自在に受け入れる、というふうに考えるべきなのだろうか。私の言語で語れば少なくともそのようになる。演劇空間とは等質的なユークリッド幾何学の空間のようなものではない。空間は現成するままに、俳優や演出家を越えて自体的に現れる。その表れを、知的な理念やイデオロギー、あるいは恣意的なパフォーマンスで限られてしまっては、演劇的空間の変容と云う一期一会とも云うべき現成態を見逃してしまうからである。栗山が学びとった演出論は、名人芸などの対極にある。俳優の存在が如何に相手方の演技に規定されているかの証明にもなっている。