アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

チェーホフの ”ワーニャおじさん” アリアドネ・アーカイブス

チェーホフの ”ワーニャおじさん”
2011-12-30 19:20:18
テーマ:文学と思想

http://ec2.images-amazon.com/images/I/512NG2S7AML._SL500_AA300_.jpg

 チェーホフ劇を取り合えず理解するためにはこの作品ではないかと思った。チェーホフ劇がどういうものか、彼固有の人生観や世界観が容易に見てとれる作品である。作品そのものよりも登場人物について語りたい。

 興味を持ったのは、やはりエリーナと ”ワーニャおじさん”の二人である。
 エリーナは、崩壊寸前の旧世界に寄生する知識人か芸術家の隠喩であるかのごとくである。自らの背景に何ものをも有せず、卓越した才能や個性があるわけでもなく、存在そのものの由縁によって頼りなく生きる、たまに美しい魂の羽ばたく羽音を聴かせることもあるが、決して自身の安寧と無気力を脱するところまではいかない。一方、利害から一歩退いた姿勢は何ものをも等距離に美透かしうる明晰さをも秘めている。美貌と感性の豊かさと云う数少ない自分自身に残された才能には自覚的であり、そのパフォーマンスの発揮に生きのびる由縁と存在証明とがある。彼女が可哀想なソーニャ恋の相談を受けるのも単なる善意と云うより、打算に基づいている。しかし彼女のコケットリーを アーストロフのように ”肉食獣” と云うのは言い過ぎだろう。一見まともな知識人のように見えながらアーストロフの持つ性愛観のような頽廃は彼女にはない。

 ”ワーニャおじさん” とは訳者の小野理子によれば、おじちゃんとも云うべき子供の語感を伝えているらしい。退職した大学教授夫妻の恣意的な生活姿勢に煩わされる以前は、貧しいなりにワーニャおじさんと少女ソーニャの、貧しいけれども実直なそれなりの田園生活が営まれていたことが劇の進行とともに分かる仕組みになっている。子供の楽園が、やがて青年期のシュトルムウントドランクの荒波に晒されるように、この語ロシア社会は革命の波頭を受けざるを得ないのだが、その苛酷さを歴史的史実と知っている我々の眼から見れば、チェーホフの理念を越えて一層哀れさと儚き天国性が付き纏う。

 牧歌的なワーニャおじさんとソーニャの楽園を滅ぼしたのは革命や反革命の動乱だけではなかったことをこの戯曲は語っている。退職した大学教授の空疎な教養!硬直したインテリ老女の男女平等論、そして20世紀の環境保護論を先取りしたかのような医師・アーストロフの華麗な言説の開陳である。勘ぐって考えれば、ソーニャやエレーナを惹きつけるための手管とも考えられないわけではない。咎めるほどのほどのことではないかもしれないが、絵に描いたようなヒーローではないことは確かである。

 アントン・チェーホフの憂愁をおびた嘆きについても、その後のロシア史の展開を知っている現代の読者としては文字道理素直に首肯できないものを感じる。このあたりは我が国のチェーホフ理解なり受容史ではどうなっているのだろうか。知識人や没落貴族が憂愁と詠嘆を帯びた口調で、生の堪え難さと生きることへの勇気と忍耐を鑑賞するだけでは終わらないのだ。例えこの劇を観終わって流す涙の感傷と、この後に続く現代史との関係をどのように考えたらよいのだろうかと、つい、非演劇的な方向に思考は向かってしまう。演劇は演劇としてそれ自体を楽しめば良いのだからこのような雑念は余計なものかもしれない。しかし演劇的空間でのみ完結する演劇論とは何だろううか、とつい思ってしまう。なぜなら演劇とは、人との関係性の中で成立する演劇的空間なのであるから。最近のチェーホフ理解はどのようになっているのだろうか。
 

アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・セレブリャコーフ
年老いた大学教授。退職後に田舎の領地に移住してきたが、慣れない田舎暮らしとリューマチ痛風に悩まされる日々を過ごしている。
エレーナ・アンドレーエヴナ・セレブリャコーヴァ
教授の若く美しい後妻。
ソフィヤ・アレクサンドロヴナ・セレブリャコーヴァ
ソーニャ。教授と亡くなった先妻ヴェーラとの間の娘。伯父のワーニャとともに領地の経営にいそしんでいる。この領地は母が嫁入りの際に祖父から買い与えられたもので、現在は正確にはソーニャのものである。
マリヤ・ヴァシーリエヴナ・ヴォイニーツカヤ
ワーニャとヴェーラの母。
イヴァン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキー
ワーニャ。マリヤの息子、ヴェーラの兄。教授の学識を崇拝し、領地の経営のために身を粉にして働いてきたが、今や教授への信頼を失い、自分はだまされてきたという思いにとりつかれている。
ミハイル・リヴォーヴィチ・アーストロフ
医師。
イリヤイリイチ・テレーギン
落ちぶれた地主。
マリーナ
年寄りの乳母。