アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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想像力をめぐって――”大人でも楽しめる子供の本”という言葉の誤解―― アリアドネ・アーカイブス

想像力をめぐって――”大人でも楽しめる子供の本”という言葉の誤解――
2018-02-09 14:46:18
テーマ:絵本と児童文学


 よく、優れた児童文学を評する言葉として、”大人でも愉しめる子供の本”と云う言い方があります。ものごとの良し悪しを評価する標準は大人の方にあって、子供はそれに準ずるものか、発展途上の段階にある、という認識の、コモンセンスの、古い経帷子の尾鰭背鰭の痕跡を残した言い方ですね。
 優れた児童書に与えられるより正確な評言としては、大人でも読むにたえる、ではなく、子供の世界の内側から読めるようになっているのかどうか、子供の世界の時間性を内側から固有な形で体験できる構造に なってるのかどうか、と云う点だと思うのですね。これはテキストだけの問題だけでなく、受容する側の想像力の問題も大きく介在しているのです。
 これまでわたくしは子供たちの言語的意味的世界以前の”遭遇”体験について、やや暗示的に語ってきました。遭遇体験はわたくしたちの意識や記憶の世界から失われると云うよりも、事実上、忘却が成立する基盤自体が陥没するのです。陥没ですから、無意識と云うような秘密の水槽に保管されるわけではありません。実際の生涯軸に於いては、なかったことに等しくなるのです。
 それでは意識の陥没自体は修復・復元できないか、という問いにわれわれは立たされます。いかにして我々は、かかる神話的時代が陥没したかもしれない、などと考えることができたのか、かかる事象についてその蓋然性なり可能性なりについて想像することができたのか、――かく問うことができるのです。
 真相をめぐる時系列を遡る方法としては、歴史学と考古学の違いにあるいは似ています。歴史学は何らかの物象を手掛かりとして過去を再現しようとします。物象とは生きた生活の破片です。考古学もまた物質の破片を手掛かりとして過去を再現しようとしますが、物質を取り囲んでいた失われた世界が修復・復元の対象となります。歴史学と云う方法では認識と云う行為がわたくしたちの認知の基礎にありますが、考古学では認識と云う行為は部分的にしか使えずに、想像力と云う行為に頼らなければならないのです。
 認識は、無からなにものかを認識することはできません。認識には条件に付いての批判考証や事務的手続きが必要だからです。想像力は、無条件的直観によって、無からですらなにものかを認識しえます。場合によっては可能で起こり得る事象的世界の上空高く飛翔することが可能な、必ずしも人間には由来しない神秘的な能力のことなのです。
 つまり優れた児童文学とは、大人でも読むにたえる本のことではなく、われわれの認知行為に備わっている想像力を呼び覚ます力があるかどうかと言うことを問うているのです。
 想像力!わたくしたちは不断、何気なくこの言葉を使いますが、――もともと現代文明をリードしている認知能力のなかのひとつ――認識、という機能を念頭において議論されやすいのですが、認識とは先ほど述べた認識を巡る諸条件や手続きの問題だけでなく、正確さの基準としては、主体と客体、知られるもの対象と知ろうとする主体の側との間の適度の距離を外側から、しかも歪みなく見るための俯瞰性、というものを想定しています。ところが想像力とは、かかる「外側」、「俯瞰性」という議論がそもそも不要なのです。
 もし認識と云う行為を、観察と云う言葉に言い換えるならば、外から観察する正確さの程度は、徐々に訓練によって、あるいは実験的検証や反省と云う理性的修練によって、日進月歩的に累進的に進化していくことでしょう。自然科学的認識と呼ばれるものが代表的なものです。しかし知られようとする対象の外殻を突き破って、段階的にではなく、一挙に内側から認識すると云う、想像力の分野は、全く違った人類史的起源と背景を持つ能力なのです。
 教育をめぐる問題などでも、詰め込み教育がいけない、暗記式の知識は無用だ、などと云う議論が交わされますが、かといって文科省の官僚が云うような応用能力、問題解決能力であるとか、産学連携の適合能力が求められているわけでもないでしょう(必要がないのではなく、講壇的教育で教えられることには適さないからです)。詰め込み教育の対抗像は学際的な自在な応用能力や産学連携の適合能力などのことではなく、利害には関わらない想像力のことではなかったか、と思うのです。