アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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辻邦生 ”森有正 感覚のめざすもの アリアドネ・アーカイブス

辻邦生 ”森有正 感覚のめざすもの
2012-01-14 23:31:22
テーマ:文学と思想

 

 

 森有正と、森有正現象と云うものは区別しなければならないだろう。後者についてこの本が提供している視点は、いわゆる日本の近代と呼ばれる時代の特殊性であり、欧化百年とは何であったのかということだろう。辻邦生は自分でも言うように森の一番間近にいた証言者であり弟子でもあったから最も適任と云えるわけだが、近すぎて語りずらいと云う面もあったに違いない。この本は森の没後になって明瞭に見えてきた森有正論となっている。見えてきたとはどういうことかと云えば、今となってみれば60年代の森有正現象とはなんであったか、と云う点である。辻はこれを70年代以降の高度成長期の日本がもたらした自信回復による、”教師と生徒” の関係の変質、と云う風に読みとっている。そう云えば、あの頃を境に日本人の欧米に対する劣等感が抜けていって、日本国民思潮の転換の象徴性を誰かが演じなければならなかったとすれば、森有正が果たしていたことがいまにして分かろうと云うものである。

 しかしそれは辻自身も書いているように、森有正現象であって、森その人についての論述でないことは勿論である。
 森の ”経験” の理解の仕方にしても、まず人間があって経験が生じる、と云うものではないだろう。確固たる認識の主体たる自我があって、そののちに経験が生じると云う認識のパラダイム自体が19世紀的な論述の仕方なのである。不幸なことに、長い西洋史の中で19世紀以降にのみ生じた対象を外部から記述すると云う特殊な世界観を、そのまま近代の輝かしさとして受け止めたことに日本の特殊さがあった。その特殊さは今日においても、パラダイムの特殊性を特殊性と認識できていない現状においても変わりはない。そのような意味で、ようやく我々日本人は欧化のパラダイムから脱することが出来たと云う80年代初頭の辻の現状認識は、ある部分では正しく、ある部分では過大評価であったことが分かるのである。

 外部から記述する形式をもって客観的であり普遍的認識の方法であると自任するパラダイムは、具体的な人間から生の ”経験” を奪うものであった。時間性の中に人間的な時間を回復させなけらばならないと云う志向性において、ヨーロッパの課題も日本の課題も別様ではあり得ず、それを世界同時性の課題として追求した点において、現代史的な意味があったというべきである。
 森有正の提出した問題は、パラダイムの問題だけではなく、人間的な時間の回復にこそあった。辻邦夫においてそうだったように、先に論じた栃折久美子と云う製本作者にとっても森有正との関わりとは、”人間” の発見だったのである。切られれば血も流すし涙も流す有情の ”人間” だった。”先生” と云う敬称が森に付いて回るのは彼が終生教師であったことにもよろうが、彼と関わり取り囲んだ人間たちに、知らず知らずのうちに生きることの懐かしさを身をもって教え、巣立ちを寿いだ人であったことによる。つまり森と出会えた人たちは幸いだったのである。

 何時の日か、先人として足跡を偲びたいものだ。