アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆”十ニ夜” とシェイクスピアの喜劇たち――性差変換劇と語りの様式 アリアドネ・アーカイブス

☆”十ニ夜” とシェイクスピアの喜劇たち――性差変換劇と語りの様式
2012-01-18 17:21:51
テーマ:文学と思想

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  ”十ニ夜” とはクリスマスから数えて12日目の夜を云うという。エピファニー(顕現)とも公現祭りとも云うらしいがいうが、これを連想させる儀式がドラマの中にあるわけではない。実際には終わりに奇跡に近いことが起きるわけであるが。一方、映画 ”恋におちたシェイクスピア” では、理由は明らかにされないがエリザベス女王によってこの日の出し物として命じられたものだという想像をしている。何か宮廷で客をもてなすものとしての、お目出度い、祝祭劇のようなものとして構想されたのだろう。もちろん証拠があるわけではない。二組の婚礼で終わる祝典劇はそれなりに華麗にして華やかである。

 ロマンス劇とも云われるシェイクスピア喜劇の特色は四代悲劇の世界とは違って、物語世界の背後に巧みに身を隠した作者その人の気配と存在感が確実に感じられる点であろう。巨大な史劇群や四代悲劇においてはあれほど人間観照において卓越し、多面的でもあれば複雑でもあり、残酷なほど冷徹で、かつ老獪そのものでありえた当のシェイクスピアが、ここでは少なくとも瞬間的な感触ではあれ、尻尾の穂先ほどは掴んだのではないのか、指先の手の感触が懐かしい余韻の尾を引く、そんな感じにさそうシェイクスピア喜劇とは不思議な作品群である。
 もう一つは、四代悲劇との関わり合いのなかであまり言われないのは、シェイクスピアの喜劇群は、少なくとも劇作家としての全履歴を覆っている点である。生涯のある段階の卓越した時期の作品群ではない点である。初期から後期まで、彼が描く女性の偶像にはある決まった特徴、ある決まった類似性がある。それはこれから少しづつ読んで行きながら、おいおい見ていくことになるであろう。

 ところで、シェイクスピアの喜劇で誰が一番好きかと尋ねられたら、ヴァイオラと応える方は多いだろう。自らを待ちかまえる運命を前に風前の灯火のような抗う術もない非力な存在でしかなく、ひたすら偶然性がもたらす恩恵に期待せざるをえない可憐なだけが取り柄の女性がどうしてかくも魅力的なのだろうか。非力な存在にはそれなりの無力に添った運命への従順な手立てともつてと云うものもある。それは才能と云えるほどの際立ったものでもない。自らの秘められた思いを思いのままに、仮装し変装した自らの存在の二重性において問わず語りに語ると云う、巧妙な虚構と現実との共生、うつそみのあり方と語りが切り開く非現実的演劇的空間は、不可能なことをも可能と感じさせる文学の力、根源的に演劇と云うものが持つイデア性としての芸術の力なのである。
 シェイクスピア演劇における、性差や衣装の取り換え劇は、単なるドタバタ喜劇の条件であるのではない。女性が男性の衣装を借りるという行為は、あの時代においては女性がある種の決定的行為を選択する場合のやむにやまれぬ手段であったと首肯させるものがある。何時の時代も女性は男性よりも無力であった。秩序も価値も何もかも、今とは違う時代だったのである。旅をするともなれば危険予防のために男装せざるをえないこともあったのだろう。それにヨーロッパ中世の騎士道の欄熟は、より華やかにとは、より女性的に華麗な身だしなみを身につけるということもあったのかもしれない。文化の成熟は、男性を女性化させ、女性を男性化させ、性差の曖昧さがシェイクスピアの幻想的な空間を生むのを助けているようだ。
 
 前にも書いたが、ある種の抜き差しならぬ行為を女性が選択する場合に、それは運命を越えてなさればならぬ行為であるがゆえに、地上的な外見を取ることは許されず、この世ならぬ奇跡を呼び込む表現として、男装の麗人でなけらばならなかったのである。こうして現実にはとても不可能なことが、シェイクスピア演劇においては数多く成就されたのである。

 エリザベス朝の人々は、仮装された男装の麗人に何を観たのだろうか。それはかりそめの形において本来の自分を語ると云う現実の行為であるとともに、それが語り語られる相互性において、観客は一個の批評と云うものを得たのである。批評とは語りの客観化である。語りとは、行為しつつ自らを語る語りの二重性に他ならなかった。語り語られる演劇的二重性において、丁度、梃子の原理のように舞台を鏡のように観客との間に置いて、鏡の中に観客は自らの批評を舞台のなかに観たのである。現実に進行する舞台上で演じられるドラマの摩訶不思議な二重性が、そのまま舞台と観客の二重性と重なった。ここにありそうもない運命のドラマが同時自らの批評でもあると云う驚くべき演劇的空間が成立するのである。シェイクスピア喜劇と呼ばれるものの最大の魅力はここにある、と思う。

 確かに演劇的空間の完成形は、四代悲劇によって極まる。四代悲劇はその完成度の高さゆえに容易には観客の感傷や恣意的な解釈を受け付けえない構造を持っている。いっぽう喜劇は、かかる硬直した舞台と観客と云う通常の枠組み、定型的演劇空間の構造、その形式性を解体し、笑いと溢れる涙の中に、観客の恣意も感傷も、そして笑もペーソスも、つまり人間の全体を受け入れるものだったのである。かかるシェイクスピア喜劇の卓越した構造こそ、喜劇に固有の行動様式、つまり行動や行為が同時に自らに対する批評であると云う、摩訶不思議な演劇的言語の円環構造の由縁なのである。

 シェイクスピア演劇の最大の特色は、作者の影や気配を確実に、演劇的空間の中に感じることができる点にあると、あえて言いたい。ヴァイオラにしてもそうなのだが、ひとはシェイクスピアの演劇を数多く重ね見ることによって、人生を寿ぐ数多くのヒロイン群を重ね合わせた透視画の光と影の朧げな重なり合いのなかに、本質的なものが、つまりあの時代に固有の実在の人物が確かにいたのだ、その人物をシェイクスピアは確実に見知っていてその追憶が彼に夥しい戯曲群を書かせたのだ、と思わせるものを感じる。史劇や悲劇における運命に怯むことなく対峙する聡明なる女性たち、そして喜劇やロマンス劇における、たび重なる多くの苦難の果てに奇跡を経て栄冠を勝ち取り、人生を祝典として寿ぐ女神たちの類例がこれほどまでに群像をなして数多く、かつ執拗に繰り返し描かれるとなると、そのモデルになった女性はシェイクピアに日常生活の周辺に生きて呼吸していたに違いない、と思わせてしまうのである、それが例え錯覚であるにしても。