森有正の ”感覚” について―― ”リールケのレゾナンス” アリアドネ・アーカイブス
森有正の ”感覚” について―― ”リールケのレゾナンス”
2012-01-26 01:03:23
テーマ:文学と思想
レゾナンスとは、” 私の内部の共鳴 ” と云う意味らしい。
森有正はレゾナンス、その ”感覚” の質に捕われたとき、日本に帰れなくなった。
” フランスの文明は、それに率直に触れる時に、人をそういう態度へとおのずから導くような性質の文明である ”
ヨーロッパ的近代の中心の一つであるパリに来て、森有正は ”感慨” と云うようなものではなく、明確な ”感覚” を感じたと云う。森の云うことはわたしには難しく響く。
森にとって ”感覚” とは、
” それ自身に身を委せるという以外のどういう態度が私に可能だったのであろうか。感覚こそは自分そのものでありながら、しかも自分を越える唯一のものだからである ”
この ”身を委せる”とは、別のところで ”内的促し” としか言いようがないない、とも森は書いている。
” これは行為だけがその解決をもたらす” ものである。なぜなら、”自分を超える” 問題は、”反省によって処理する” ことはできないし、思惟を超えた問題として、表れる。”私は感覚に忠実に生きる ”
この ”感覚” の定義の仕方は、
” デカルトが自己の思索の根本に据えたもの、すなわち感覚のあたえる印象の確実性を疑うということと一見矛盾するようにみえる ”
と、彼は言う。
つまり、森有正における ”感覚” をめぐる二つの様態の混乱はどこから生じているのだろうか。
つまり、通常一般にデカルト哲学として流布している ”過てる感覚”――あるいは感性や感情とは、外的事物に主観が反応する場合の作用面を云うのであり、ここで云う 孤独な ”パリの日本人” 森有正が持った ”感覚” とは ”自己を超えた” 思惟の外部性、と云うようなもののことを意味しているのだろうか。
” 感覚はそれ自体の中に感覚自身を批判するものを原理的に包含している ”
自分自身を批判する、すなわち自己批判とは、森の場合、”意志” が ”感覚” の中から同時に目覚める過程でもある。
” 感覚は、それ自体人間的なものであり、自己の中に批判と形成とへの原理を包含している ”
否定は同時に否定の否定を含むものであり、否定の否定は肯定であるから、”批判と形成” と言っているのだろう。
” 私は、そういう感覚が純化し、自己批判を繰り返しつつ堆積し、そこに自己のかたちが露われて来るのを ”経験” と呼ぶ ”
” 経験” が一個の ”人間” を定義する。 ”
こうして、森有正の思想に固有な、”経験” という概念が成立する。
と云うことは、森有正の場合は、人間と経験の先後関係が、通常の場合とは逆になっているわけである。
”人間” が ”経験” を定義するわけではない。
先後関係の逆転は、森有正の ”内的促し”、つまりハイデガー等の場合の ”到来性” の語感を上手く伝えている。
” 各人が各人であるのは、各人の ”経験” においてだけである ”
そこを出発点としない限り、何事も始まらないと言っているのだろう。
いまから凡そ60年ほども前の1950年、森が最初の給費留学生としてパリの地を踏んで感じた ”経験” の消息は、いまどうしているのか。
森は、1960年代の中ごろからパリと東京とを往復する生活をするようになるが、その、一旦は見捨てた筈の東京での生活の比重が高まり、最終的には日本への帰国を模索し始めていたのだが・・・・・
” 私の感覚の中では、パリと東京とが、私の中で触れ合う代わりに、互いに遠ざかり始めたのはどういうわけであろうか ”
いまでも鮮やかに思い出されるのは三十数年前の、”森有正 パリに客死” 、と伝えた朝日の一面記事である。